マックス・テグマーク『数学的な宇宙』

ここで少し、私の、いわゆる「実在論」と呼ばれるものに対する関心について、それを私の、ここのところの「文脈」に沿って、その流れを説明してみたい。
(まあ、最初と言えば、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』を挙げないわけにはいかないであろうが、ただ、この本における「実在論」は彼独特の、思弁的なものであったわけで、少し毛色が違うと言えば、そうだ。)
まず、私が最初に気になったのが、戸田山和久先生の『科学的実在論を擁護する』という本であった。そして、この本が書かれた「いきさつ」として、雑誌「RATIO」において、伊勢田哲治先生との往復書簡があったことを知った。この往復書簡の形態は、伊勢田先生は、いわゆる世間で言われる「反実在論」的な主義を自らが「シュミレーション」することで、戸田山先生の

という姿勢に対して、さまざまな「攻撃」を行う、というスタイルで行われた。この往復書簡は、これだけでなかなか興味深いのだが、上記の本の中で戸田山先生は、この本は、そこでの「やりとり」を意識して書かれた、といった旨のことを「あとがき」で書かれている。
この本は確かに上記の往復書簡での「やりとり」になんとか誠実に応答されようとしている印象が、ひしひしと伝わってくるという意味で、大変に勉強になったのだが、しかしその結論について、少し「ひょうしぬけ」のような印象を受けてしまった。
というのは、確かに、掲題の本のタイトルが「科学的実在論を擁護する」となっていたわけだし、この本は最後までその姿勢を崩さなかったと思うのだが、最終的に、この「実在」性には、

  • グラデーション

がある、といった主張になっていたことが気になったわけである。その意図は、まさに「科学的実在論」の対象である、電子や陽子や光子や素粒子などの実在性を「どこまで」、私たちが日常的にふれあっている「物」と同列の「実在性」として扱うのかには一定の留保が必要だろう、という意味では、とても「常識」的だ、とも言えるとは思うのだが、そもそも「それ」を争っていたはずであるように思えたわけで、少し本のタイトル倒れなんじゃないか、といった感想をもった、ということになる。
そして、私が次に気になったのが、植原亮先生の『実在論と知識の自然化』であった。こちらは、表向きはそこまで「科学的実在論」の文脈は強調されていないが、ここでは「自然種」という言葉を使うことで(というか、しまいにはそれは「知識」がすでにそうだ、という主張にまで発展するのだが)、より「科学」の意味を考えれば、「実在」とはこういった方向に行かなければならない、といった形で戸田山先生の本に比べると、よりラディカルな主張の印象を受ける。ただ、興味深いのは、この植原先生の本も、戸田山先生の本と同様、その「知識」の「実在」の主張には、一種の

  • グラデーション

がある、といったニュアンスを含んでいて、まあ常識的に考えれば当たり前であるが、「実在」でない「知識」だって、そりゃああるだろうよ、といった、なんとも昔の全共闘で言えば「ひよった」ように受けとられかねない感じが似ているところがおもしろい。
そこで、掲題の本になる。
このテグマークという人はおもしろい人のようで、よく、いろいろなニュースでおめにかかる。幅広く社会向けに発言をされているようだ。
ところで掲題の著者は、以下のようにビッグバン仮説の現状を説明する:

私たちは今や、知のフロンティアを私たちの宇宙が灼熱の核融合炉だったおよそ一四〇億年前にまで押し広げることができた。私が「ビッグバン仮説」と言う場合、それは次のことを意味する。

ビッグバン仮説----私たちが観測できるすべてのものは、かつては太陽の中心部よりも熱く、しかもそれが非常に高速で膨張し、サイズが一秒足らずの間に倍になるほどだった。

こんな状況は確かに「ビッグバン」という特別な名前で呼ぶにふさわしい特別な爆発だろう。しかし次のことんい注意してほしい。私のこの定義は非常に保守的なもので、これより前に何が起きたかについては何も言っていない。たとえばこの仮説は、ビッグバン元素合成の時点で私たちの宇宙が生まれてから一秒だったとも、私たちの宇宙がかつて密度が無限大だったとも、数学が破綻してしまうようなある種の特異点があったとも言っていない。前章に挙げた問いのうち、「ビッグバン特異点の証拠はあるか」については非常に単純な答えがある。ない、だ。確かに、フリードマン方程式を可能な限り過去にまで適用すると、ビッグバン元素合成の約一秒前の時点で密度無限大の特異点となり、そこで方程式は破綻する。しかし、第七章で説明する量子力学の理論は、この方程式が特異点に到達する前に適用できなくなることを教えている。確固たる証拠に裏付けられていることと、まったくの仮説でしかないこととを区別することは非常に重要だ、ビッグバン元素合成より以前に何が起きたかについては、第五章で説明するように、非常に興味深い理論や示唆がいくつかあるものの、率直に言って、まだ分かっていないというのが実情だ。というわけで、ここが現在の私たちの知のフロンティアなのである。実のところ、私たちの宇宙に本当に初まりといえるものがあったのかどうかさえ、確実には分かっていない。ビッグバン元素合成の前には永遠の過去があり、そこでは私たちの理解していない何かが起きていた、という可能性も否定はできないのだ。

ビックバン仮説による観測事実の説明問題に深くコミットメントしてきたテグマークは、このように必ずしも「ビッグバン仮説」は「実証」されたわけではない、とは言いながら、次の意味で、多くの「観測事実」の説明に成功していることを強調する:

前の二つの章で見たように、ビッグバンモデルは多くの観測事実を説明することに成功した。具体的には、膨張宇宙を記述するフリードマン方程式を過去に遡って大胆に適用することで、遠方の銀河が私たちから遠ざかっている理由、宇宙背景放射が存在する理由、水素やヘリウムなどの軽い元素が最初にできた仕組みなどを、正確に説明できたのだった。

この辺りが最先端の宇宙論のおもしろいところで、この観測事実の「説明」は、まさに「仮説」によってなされるのだが、そして多くの場合でその「説明」に成功するのだが(つまり、一定の「整合的」な説明に成功する)、言わば、この「説明」と「仮説」の発表が次々と先行して、奇抜な理論として提示されていく、それが「先行」するという形で進む、という様相を示すことになる。
そして、この本では、テグマークは、彼自身が自嘲ぎみに

  • 私の最も過激かつ異論が多いとみられる考え

と述べる理論を一般向けに披露するわけだが、それが「数学的宇宙」である。

詳細に入る前に、このテーマについて考えるときの論理的な枠組みについて説明しておこう。最初の枠組みは、次の二つの仮説----一つは穏当と思われるもので、もう一つは一見、過激に思えるもの----によって与えられる。

  • 外的実在仮説 人間の存在とはまったく無関係に(物理的な)外的実在が存在する。
  • 数学的宇宙仮説 外的実在は数学的構造である。

そして二つ目の枠組みは、十分広い「数学的構造」の定義を使うと一つ目の仮説から二つ目を導ける、という主張によって与えられる。

ここに注目してほしい。確かに、「数学的宇宙」は上記の仮説の2番目なのだが、大事なポイントは、テグマークは一つ目から二つ目が

  • 導ける

と言っていることなのだ。
しかし、である。
この一つ目の「外的実在仮説」とはなにか? 言うまでもない。上記の、カンタン・メイヤスー、戸田山先生、植松先生の三人がまずもって上記の著書の最初で主張されていた、

  • 古典的観念論

と対立する形で(つまり、それを「仮想敵」とする)真理として、まずもって議論の出発点とされていた視点なわけであろう。
ところで、テグマークは上記の定理について、以下のような概略で説明している:

この説を探究するうえでの出発点は、窮極理論がどう見えるか、ということに関する次のような極端な主張だ。つまり、実在が人間の存在と無関係であるなら、実在に関する記述が完全であるためには、その記述は人間以外の存在----たとえば、異星人やスーパーコンピュータなど、人間の概念を理解しない存在----にとっても整合性のあるものでなければならない。言い換えると、そのような記述は「粒子」や「観測」などの人間にとっての言葉や概念----象徴的に「バゲージ(お荷物)」と呼ぶことにする----を含まないようなものでなければならない、ということだ。
ひるがえって私が襲わった物理理論を見ると、それらはすべて、「方程式」と「バゲージ」の二つのパートからできている。「バゲージ」パートは、方程式が観測とどう関わっているか、あるいは直観的にどう理解されるか、といたことを説明する言葉からなっている。理論から結論を導くとき、私たちはそれらの結論を表現するために、新しい概念や言葉を導入する。「光子」「原子」「分子」「細胞」「恒星」などだ。こうした新しい概念を導入したほうが便利だからだ。しかし忘れてならないのは、これらの外燃を考案したのは私たち人間だということだ。原理的には、こうした「バゲージ」がなくても、何でも計算できる。実際、窮極のスーパーコンピュータというものがあったとするなら、そのコンピューターは私たちの宇宙に存在するすべての粒子がどう運動するか、あるいは、宇宙の波動関数がどう変化するかを、それが人間の言葉でどう解釈されるかに頓着なく、計算できるだろう。

哲学の文献では、科学的実在論反実在論の中間の立場として、ジョン・ウォラルが「構造実在論」という言葉を考案している。大ざっぱにいうと、これは、実在の基本的性質というのは科学理論の数学的または構造的な内容だけで正しく記述される、ということを述べている。この言葉は異なる科学哲学者によって異なる仕方で解釈や洗練がなされており、ゴードン・マッケイブは、私たちの物理的宇宙が数学的構造に同型であると提唱する私の仮説には、「普遍的構造実在論」という用語を使うべきだと主張している。

これはプラトン主義の一つの過激な形といえる。プラトンの「イデアの世界」にあるすべての数学的構造は、すべて物理的にも存在するということなのだ。

ところで、ネットで検索すると次のようなテグマークの数学的宇宙論に反対の立場を表明していられる方の本が紹介されている:

Tegmarkは外的実在仮説を自明としているが、妥当な論証がなく論点先取だ。
【論文要旨】宇宙は数学ではない/『「数学的宇宙」へのいくつかのコメント』 - 水槽脳の栓を抜け

しかし、ここで引用したように、その議論の「前提」は

  • 外的実在仮説を疑う

というところから始まっているわけで、やはりここがポイントだと考えている、ということなのだろう。
うーん。私が言いたかったことは、少しアイロニーが入っている。つまり、上記のテグマークの説明は、その内容が成功しているかどうかはともかくとして、こういった方向に発想することは、

  • 外的実在仮説

が、ある意味必然的に「強いて」いる態度だ、とテグマークが考えている、ということなのだ。そうだとするなら、なぜ、カンタン・メイヤスー、戸田山先生、植松先生は、この方向で議論を展開しなかったのだろうか? 私はそれについては、ある「仮説」をもっている。それは、彼ら3人にとっての「仮想敵」が、

  • 通俗的観念論(バークリ、カント)

にあったからではないか。つまり、彼ら3人は基本的に、この「通俗的観念論」をやっつけたかった。だから、まるで本の枕詞のように、その最初で、この問題にふれてから、難しい議論に入っていったわけであるが、基本的にはこの戦いが「勝利」であるなら、それ以降の衒学的な議論は大した問題ではない、と考えていたのではないか? そのことは、戸田山先生の本が分かりやすいが、この本は本気で「科学的実在論」の困難に、なんらかの決着を付けよう、といった性格のものではないわけでしょう。つまり、そういった

  • 科学内でのニュアンスの範囲での「実在」というターミノロジー

に対する「決着」など、基本的にはどうでもいい、とにかく、「通俗的観念論」さえ滅ぼせれば、大きな意味での「実在」は正当化できたのだから、といったことなんだ、と。
私はここで、彼らの後塵を拝して、新たな「実在論」をかましたいわけではない。というか、私は今だに、「光子」が「波」と「物質」の二つの性質をもっているということの「実在」的説明への違和感のレベルで止まっているわけでw(まあ、そうではあるけれど、ある程度の数学的扱いは当然、工学的に行うわけだが)、この辺りは、エリオット・ソーバーが、

私は生物学を、実証主義や還元主義、科学的実在論のためのテストケースとして見ようという気にはならない。それは、私がこうした哲学的な----主義つまらないものだと感じているからではない。生物学の哲学を、生物学のただ中から浮かび上がらせるというのが、私の好む編成方針だからである。

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と述べたように、なにかを「論点先取り」で衒学的に語ることを好まない、といったレベルに「論争」的な議論と距離をとりたい、といったところだろうか...。

数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

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