エリオット・ソーバー『進化論の射程』

私たちは、スコラ哲学の頃からある「普遍論争」と、現代的な意味での「実在論」を区別しなければならない。
普遍論争においては、そもそも「個物」の「実在」は認めている。ようするに、普遍論争は「実在論」なのだ。しかしそう言った場合、いわゆる「科学的実在論」との関連は微妙になるが、まあ、そこは大きな意味での争点ではない。
掲題の著者が生物とは「個物」だ、と言うのもそういう意味なのであって、まあ、そういった表現に対する強いて言うべきことがあるなら、そういった言い方は「大衆」が使っている言葉の「通俗的」な用法には合っていないよね、といったくらいの話だ、ということになるであろう。
なぜ「生物」は「生物種」ではなく、「個物」だ、と掲題の著者は言うのか? それは、そもそも「生物」という概念が、もともと

  • 歴史的

に使ってきた「用語」だから、ということに尽きている。それは、掲題の著者も言っているように、ある宇宙の果てで「生きて」いる「生物」が、どんなに地球上のある生物に「似て」いたとしても、それを

  • 同じ

とは言わない、というところに関係する。なぜそう呼ばないのか? それは、私たちが通常、「生物」という用語を使うときには、その

  • 因果性

を自明として扱っているからだ、ということになる(だから、逆に言えば、その宇宙の果ての「生物」が実は、はるか昔のある時、地球の生物から「分岐」した「子孫」だったというなら、今度は積極的にその「同一」性が議論される、という形態になっている、という意味であって、ようするにこの「連続性」しか問題にしていない、なんらかの「(普遍的)性質=類」によって「分類」していない、ということを示しているわけである)。
うーん。
ただね。ここまで書いてきて、私はある「いらだち」を覚えずにいられない。それは、おそらくは掲題の著者はよく理解していると思うのだが、なぜか多くの人たちがこういった事実が

  • なにを意味しているのか?

について、あまり深く考察していない、ということがなんなのかな、と思うわけである。
私がどちらかというと「いらだって」いるのは、むしろ、リチャード・ドーキンスのような人に対してなのかもしれない。彼の言う「利己的遺伝子」とは、ようするに、遺伝子単位での「アイデンティティ」はまだ、かろうじて、保てている、ということを主張しているわけであろう。そして、彼の書く本は、そこから「神の創造論」と進化論の「対立」の話に移っていく。しかし、そういった議論の展開はどこかおかしくないだろうか? こういった話の文脈において、そもそも「神の創造論」は関係ない。それに言及するなんの必然的な関係はない。そうではなく、ここで問われるべきなのは「利己的遺伝子」の

の方なのではないか? 私が「いらだって」いるのは、こういったある種の「実在論」に対してなのだ!

私は先に、ドーキンス(Dawkins 1976, p.ix)が次のように考えていることに注意を促した。すなわち、「自然選択を見る方法は二つある。それは遺伝子の視点と個体の視点である。適切に理解されるなら、それらは同じことである」。だが、[生物体の適応度に影響を及ぼさない]純粋な形の減数分裂分離ひずみは、それが正しくないことを示している。

掲題の本ではさまざまな側面から、ドーキンスに代表されるような、いわゆる「適応主義」に対して、

  • そんなに簡単に肯定されない(いろいろな側面から、この条件を「制限」する可能性を立証できる)

といった方向での考察がされる。基本的には、掲題の著者はこの「適応主義」を、

  • リサーチプログラム

という「範囲」のものとして、一定の「役割」を肯定しながらも、その肯定の「条件」の多様性を何重にも強調することで、このアプローチの

  • 制限性

を強調する。そのアプローチがどこまで成功しているのかは分からないが、私にはドーキンスには、なんらかの「イデオロギー」を感じざるをえない。それは、「神の創造論」を自らの著書で多くのページを割いて「反論」することの

として、なにか本質的なことを隠蔽しようとしているのではないのか、といった疑いさえ感じざるをえない。そのことは上記の引用が象徴しているわけで、ようするにドーキンスは神に代わる、なんらかの

を提示することが重要だったのではないのか、といった印象を受ける。ようするに、「遺伝子アイデンティティ」であり、遺伝子という単位の

なわけであろう。しかし、こういった「考え」こそ、掲題の著者が警戒して何重にも留保条件をつけたこの著書が書かれた目的だったのではないのか? ようするに、ドーキンスは神に代わる「アイデンティティ」を提示することこそが目的だったのであって、実際に「なにが起きているのか」に本気で向かい合っていたのだろうか?

生物体は死んだにもかかわらずその生物体の部分は生きていることがある、ということは複雑な生物についての面白い事実である。おぞましい例を一つ考えてみよう。ある生物体の手足を切り離し、移植のために臓器を取り出したとしよう。心臓をある生物体に移植し、皮膚を他の生物体に移植する、という具合である。各臓器は様々なレシピエントの部分となる。するとドナーの生物体は存在しなくなるが、それはその部分が存在しなくなるからではなく、その生物体が機能的に統合された全体ではなくなるからである(同じことは自動車という概念にも当てはまる)。
[ここまでは有性生物について考えてきたが]無性生物の個体化の方法については、また新たな問題がある。ヒドラは自身の一部を出芽させるが、その出芽した部分はそののち数的に異なる娘ヒドラとなる。親ヒドラと娘ヒドラは一つではなく、二つの生物体である。それらは遺伝的に同一であるが、生理学的には互いに独立である。親の生物体をマム、娘をディーと呼ぼう。

通時的問題についてこのような考え方をとると、二分裂は興味深い困難を呈示することになる。もしマムがちょうど半分に分裂して、それぞれが完全なヒドラに成長するとすると、どちらの半分が引き続きマムなのだろうか。

例えば、哲学の文脈では、よく「人間」に対する「動物」といった対立が問題にされるが、その場合、彼らが問題にしているのは人間の「動物化」といった意味であって、国家が国民を、動物園が動物を「飼育」するように「飼育」する、といった「未来の管理社会」の現実性といった意味で語られるわけである。
しかし、よく考えてみるとそれは変なわけであろう。なぜなら、むしろ動物こそが「人間」になるわけだ。実際、ボノボなどの一部のサルは、たんに人間と同じ発声器官をもっていないというだけで、なんらかのタッチボードで人間の

  • 単語

を発声させる機械を駆使して、飼育員の人間と

  • 会話

を代わすわけであり、だということは人間と「会話」をしているわけであろう。ここで、いやそんな「低次」の知能ではとても、まだまだ人間の域に達したとは言えない、といった形で否定する人がいるかもしれない。
しかし、こういった議論がそもそもナンセンスなわけでしょう。
なぜなら、ここで考えているのは「可能性」の話なのであって、実際にどうなのか、ということではないからだ。
よく考えてみてほしい。あるサルがいたとして、そのサルの「遺伝子」の約3割を「人間」の遺伝子にしたとしよう。すると、見た目はほとんどサルと変わらないが、ほとんど人間と変わらない「知性」をもって、大脳の大きさも人間と変わらない形に成長した、とするわけである。さて、この生物は「人間」なんだろうか? もちろん、発声器官は人間とは違うので、「声」で会話はできないが、人間の機能を代替する補助機械パーツを装着することで、ほとんど人間と変わらない

  • 日常生活

が送れるようになるだろう。なぜなら、そういった代替パーツの使用によって「会話」や「読書」など、人間が社会生活を送るための基本的な機能を備えているのだから。彼らは「法律」を守るし、人間と同じように「人権」を要求するだろう。さて、なにが変なんだろう?
というか、おそらく彼らはなんらかの意味での人間との

  • 結婚

や、

  • 子作り

すら実現するであろう。そんなはずはない、と思うかもしれない。しかし、そもそも「子ども」とは生殖細胞同士による受精卵の自己展開なわけであり、ようするに、ここで言われているのは「お互いの遺伝子の結合」ということなのであって、それ以上でもそれ以下でもないからだ。確かに、人間と他の生物は、そのままでは「受精卵」が作られない。しかし、私が言いたいのは

  • クローン

と受精卵の「中間」を考えることは少しも非現実的ではない、ということなのだ。クローンは被クローンとまったく同じ「遺伝子」だが、そのなんらかの「差異」として、その人間ではない「生物」の遺伝子を、何%だかで代替されたものを考えることは、どこまで非現実的だろう。そして、それが50%になったら? 私たちはそれを「受精卵」と言っていたのではなかったか?
もちろん、その最初の段階では、ほとんど全てが「成人」にまで達しないのだろう。しかし、そのことが重要なのではない。私が言いたいのは、こういった本来の生物の

  • 定義

に関係する考察を問うているわけである。

それに対して例えばDSTでは、こうした遺伝子の特権性自体が否定され、表現型の形成過程の諸段階における生物体内 / 外の環境要因によるカスケード的な制御(スイッチオン / オフ)によって、低次の段階の構造には還元できない機能や情報を担った高次の構造が創発的に出現してくるという事実が重要視され、結果的に遺伝子は表現型の形成に寄与する多様な要因からなるネットワークにおける一要因にすぎないという、全体論的な見方が支持されている。これは「ある所与の形質の形成にとって遺伝的要因と環境要因のどちらが重要か」という、「遺伝 vs 環境」という二項対立に立脚した従来の見方----これは例えば、「表現型分散に占める遺伝子分散の割合」として定義される遺伝子率(heritability)の概念に現れている。ちなみにこの遺伝率の概念が「遺伝か環境か」問題の議論にどこまで適用可能かという点は、科学哲学者の中で大きな論争を呼んできた----自体を「止揚」するものだと言えるかもしれない。
(松本俊吉「進化論はなぜ哲学の問題になるのか」)

ドーキンスに代表されるような、遺伝子「実在論」は、なんらかの思考の徹底性において、私は疑いをもっている。例えば、ある人間がいたとして、確かにその「個体」性を疑う人はいないだろう。それは見れば分かるわけで、体があって肌があって、それは一つの「固まり」を成している。そしてそれは、無数の「細胞」によって形成されているのだろうが、しかしその「中」においては、そこではさまざまな

  • 化学反応

が起きているだろう。なんらかの化学物質の発生により、別の化学物質が生まれては、そこでのなんらかの「形質」を成していく。こういった連鎖を繰り返して一人の「人間」という個体を形成しているというとき、それはなにが「一つ」なのだろう? その「一つ」は、それら無数の「化学反応」において、発生前の物質と発生後の物質の「違い」において、なぜ違うものを一つの「一貫」した存在として扱うということを正当化するのか?
受精卵の自己展開過程のある段階において、ある場所にある「化学物質」が用意されているかされていないかによって、その後の

  • ルート

は分岐する。まさに、シュタインズ・ゲートにおける「世界線」であるw それは見た目上のサルになるか、人間になるかの違いかもしれない。その場合、このような「違い」を生み出したものが「環境」においてあるのだとして、「遺伝子」ではないとするなら、一体遺伝子の「同一」性とはどこまで

  • 本質的

な話なのかが、私にはさっぱり分からないわけである。
つまり、私は何が言いたいのか? 「人間」であれ、他の「動物」であれ、すべてはそれぞれの段階における「化学物質」が与える「化学反応」だとするなら、それこそが唯一の

と呼ばれるべきものであって、もっと言えば、「物理反応」なわけでしょう? 「人間」も「動物」も、そういう意味では「機械」だし、だとするなら、その「人間」と「動物」の「結婚」とか「子ども」を考えることが、どうして本質的ではないと言えるだろうか?
私が考えていることは、こういった一連の「進化論」的な「フレーム」が提供している

  • 概念群

について「徹底」して考えるなら必然的に到達する場所だと思うわけだが、むしろ、なぜ多くの人たちがこういった地点まで考察を徹底させないのかにおいて、なんらかの「人文学」的な禁忌(タブー)が人々の思考を停止させている、とは考えられないだろうか...。

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

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