進化論は「反証可能」か?

反証可能性とは言うまでもなく、ポパーによる科学の定義だったわけだが、エリオット・ソーバーのこの前紹介した本では、このポパー反証可能性はある側面において疑わしい、と説明する。

ある命題Sが反証可能であると仮定する。そのことから、命題Sと他の任意の命題Nとの連言も反証可能であることがすぐに引き出される。すなわち、Sによる予測が観察によってチェックできるなら、SとNの連言も同様である。これは、ポパーの提案にとって困ったことである。というのも、彼は自らの提案によって、然るべき科学的命題Sから非科学的な命題Nが分離されることを求めたからである。

このことは、以前紹介した本の言葉を使わせてもらうなら、カントの純粋理性批判でとりあげられた

  • 無限判断

になっている、ということを意味するのだろう。しかし、それは「これから」示すことであったはずなのであって、そう考えるとなにか物騒な感じになってくる。
例えば、この前紹介した理論物理学における「インフレーション理論」から、テグマークは量子力学における「コペンハーゲン解釈」に代わる「多世界解釈」を支持し、さらにその認識を徹底することで「数学的宇宙」という驚くべき「仮説」を支持することになる。
しかし、そもそもこれらは何をやっていることになるのだろう?

ポパーの非対称性テーゼに関する問題の一つは、われわれが知ることのできるものを、観察言明から妥当な仕方で演繹できるものと同一視することにある。ところが、科学では非演繹的な論証が用いられることが多い。そしてその場合、結論は確からしいものとなったとか、結論は前提により十分支持される、という言い方がなされる。そのような論証では、結論が真でなければならないことが前提から完全に保証されるわけではない。

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

  • 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松本俊吉,網谷祐一,森元良太
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2009/04/01
  • メディア: 単行本
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言うまでもないが、「インフレーション理論」は実証されていない。しかし、多くのそこから導かれる結果が、天体物理学の観測結果を説明することが可能なのではないか、ということが分かっていて、それをもって一定の「権威」がこの理論には物理コミュニティにはある。
つまり、問題がこういった活動が厳密な意味でのポパー反証可能性でないのなら、これらをなんと呼べばいいのか、ということになるわけであるが、エリオット・ソーバーの本に戻るなら、この問題の一つの例として、グールドらが問題にした

  • 適応主義

の主張を挙げている:

このことから、以下のように適応主義を定式化するのが適切だということになる。

適応主義:ほとんどの集団におけるほとんどの表現型の形質は、選択を記述して非選択的な過程を無視するようなモデルによって説明することができる。

これは(O)一般化したものである。
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

適応主義のテーゼに関して次に注意すべきことは、そこから[それを論破するための]「決定的実験」が生じる余地はない、ということにある。たとえ適応主義が誤っていたとしても、たった一つの観察でそれが論駁されることはない。適応主義の定式化[5・1節]の名に出てくる「ほとんどの」という語は、決定的実験が存在しないということを保証するのに十分である。それに加えてこの定式化は、存在の主張をしている。すなわちそれは、ほとんどの種にほとんどの形質に対して、選択による説明が存在する、と述べているのである。2・7節で注意したように、存在の主張は、ポパーの意味では反証可能ではない。
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通俗的な意味では、進化論とは「適応主義」のこととして説明されている(そのことは、例えば、ドーキンスの大衆向けの本における進化論の説明に対しては、そのように言うことができるであろう)。しかし、適応主義は上記の引用にあるように、ポパーの意味での「反証可能性」をもっていない。しかし、そうであるにも関わらず、エリオット・ソーバーはこの命題を巡って科学が進んでいくことには一定の正当性がある、と主張する。それは、

  • リサーチ・プログラム

として、ということになる。

適応主義は、何はさておきリサーチ・プログラムである。その中心的な主張は、もし個別具体的な適応主義的仮説が十分に確証されたものとなったならば、支持を受けるだろう。もしこうした説明が失敗を積み重ねるならば、科学者たちはやがてその中心的な前提に欠陥があるのではないかと疑い始めることになるだろう。
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ポパーが批判のために選んだ二つの例について述べるなら、マルクス主義フロイト主義は様々な仕方で展開できる。観察されるものと対立するような定式化もあれば、そうでないものもある。ある特定の定式化が証拠によって反駁されたとしても、その代わりに別の定式化が構成できるのである。
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

リサーチ・プログラムは絶対に負けない主張ではないが、エリオット・ソーバーの考えでは

  • 多くの知見

がそろってくると、その「全貌」について考察することが可能になっていく、と予測することは妥当だろう、と考えられる主張だ、というところにポイントがある。つまり、一種の

  • メルクマール

のようなものとして、機能する、と予測するわけである。

これをなんとか理論化しようとしたのは、ハンガリー出身で、ソ連ハンガリー侵攻を機会にイギリスに逃れたのちはポパーの忠実な弟子として振舞ったラカトシュ・イムレ(ラカトシュが姓)である。ラカトシュは「リサーチ・プログラム」という概念で科学的営みを説明しようと試みた。これは、ポパーの哲学とクーンの科学史の折衷案のようなものである。ラカトシュには、一連の科学的発見のプロセスには、守るべき「ハード・コア」と、その周辺の防衛帯(プロテクティヴ・ベルト)から構成され、防衛帯の部分が浸食されても、ハード・コアの議論が維持されるように、仮説が修正されたり、理論が維持されたりする。そして、ハード・コアの議論が崩壊するような事実が示されると、初めて重要な科学理論が転換され、世界の見方が一変するのである。
この議論の問題は、ラカトシュらが苦闘したにもかかわらず、なにをもって「ハード・コア」とするのかは、ハード・コア理論が実際に崩壊して見るまで予測はできない、ということである。ラカトシュの議論は、歴史の叙述としては意味があっても、原理を探求する哲学、あるいは予測のための理論としては難があると言わざるを得ないわけである。
「科学論は科学とはなにかを決められるのか?」、あるいは科学の「線引き」という問題について

上記のブログの方がまとめてくれているが、こういった「リサーチ・プログラム」といったアプローチが、いわば、ポパーとクーンの「間」を模索する形で提案されてきた経緯が興味深く思われるわけであるが(上記のフロイト主義やマルクス主義を一種のリサーチ・プログラムとして解釈する考えが参考になる)、しかしそのことは、まあ、クーンの科学論の主張でもあったと考えられる

  • なにが「ハード・コア」か?

を事前に私たちに示してくれる構造にはなっていない、というところがポイントなのであろう(つまりそれは、言わば「未来の人によるイノベーション」なのであって、それを現在の私たちに(キリスト教の神の預言のように)

  • 奇蹟

として「示して」くれるものではない、ということなのだろう...)。