中山康雄『現代唯名論の構築』

ここでは少し論点を整理してみたい。
中世のスコラ哲学において、普遍論争というものがあった。そこにおいては、「実在論」に対立するものは「唯名論」であった。ところが、現代において、

と呼ばれているのは、分析哲学や科学哲学の文脈における「科学的実在論」のことを意味している。しかもその場合、「実在論」に対立する概念は、「観念論」であり、もう少し違った観点で対立する勢力として、

と呼ばれるような「非実在論」や「反実在論」となっている。
そもそもの中世のスコラ哲学において問われていた問題においては、「個物」が存在することは問題とされていなかった。問題はそれが「生物種」なのかどうか、つまりそれを「類」として考えていいのか、にあった。あるリンゴがあったとき、これを他のリンゴが「同じ」と言いたくなるような、なんらかの、その二つが分有する「本質=精神」のような、類という「実体」があるんじゃないのか?
しかし、よく考えてみると、これは現代の「科学的実在論」が言っていることと同じなんじゃないのか、とも解釈できるわけである。科学は、集合論で言うところの

  • 内包

によって世界を解釈していく(つまり、その集合は「外延」によって構成されたものではなく)。だとするなら、「それ」が存在すると言うことはとても自然なように思われてくる。
掲題の著者は自らの立場をたちあげるにあがって、それは、この「自然科学」を内包したものでなければならない、と断る。

物理主義は、私にとり最も根本的な基盤である。私は唯名論と物理法則は整合的だと考えている。けれども、もし特定の唯名論が厳密な意味で物理法則と整合しないなら、唯名論の方に適当な修正を施すべきだと私は考える。唯名論は、物理法則が許す範囲でしか成り立たないとすべきである。この意味で、私がとる唯名論は、自然主義と両立するものでなくてはならない。

クワインは、自然化された認識論を唱えたが[Quine(1969b)]、私も基本的にこの考えに賛同する。哲学的考察は、経験科学の知見を重視して進められるべきである。

こういった態度は確かに、現代における自然科学の「成功」を考えたとき、当然でさえあるように思われる。そういう意味で、掲題の著者も基本的には、カントの批判哲学の系統に連なる思想だと私には受けとられる。もう一度ふりかえっておくなら、カントがくわだてた野望は、ようするに、その当時、ニュートン力学の成功に始まって、近代科学が発展していく黎明期において、その

  • 近代科学の正当化

をどのように与えるか(もちろんそれは、形而上学の形によってしか与えようがないわけだが)を考察するものであった。デカルトの「我思うゆえに我あり」に始まる、彼の切り開いた近代哲学の地平には、

といった、かなりラディカルな認識が伴うものであった。こういった、それ以前にはないような「認識」がどのように理論の基盤を与えることが可能なのか、ということこそがカントの関心だったわけであり、基本的に現代の自然科学者も、このカントの敷いたレールの上で考えている。それは、カントの観念論を認めるか認めないかといった、なにか「恣意的に選べる」ものがあるかのような考えとは根本的に異なっている。カントが敷いたレールは本来なら、これを選ぶか選ばないのかで、完全に二つの道に分かれるような、かなりラディカルな選択が前提だったはずなのであり、そう簡単にそのどれかを恣意的に選択すればなんとかなる、といった性質のものではなかったはずなのである。
近代科学とは、ようするにこの世界を「分節化」する、ということである。つまり、ある「意味」によって、厳密に分ける、ということである。この終わることのない

  • 運動

のことを意味する。しかし常識的に考えてみてほしい:

ここで、少し考えてもらいたい。「岩」という言葉を私たちが使う前にも、岩なるものはあったのだろうか? 本章では、このような問いについて考える。ちなみに私は、この問いについて次のように考えている。

確かに岩に相当するものは昔から自然界にあっただろう。しかし、岩と石の区別などは人間が勝手に自分たちの都合がいいように持ち込んだものである。つまり、私たちがいま用いている分類システムは、言語の使用により持ち込まれたものである。

世界にはさまざまな語りが可能だと、私は考えている。このとき私がとっている立場は、唯名論である。世界を、言語を用いて分節化した後に、私たちははじめて世界について語ることができるようになる。例えば、日本とは別の文化を持つある社会では、「岩」と「石」を区別する語がなく、それらはことさら区別されないかもしれない。ひょっとして、語られる以前の世界もすでに、特定の仕方で構造化されているのかもしれない。しかし、私たちが抱く世界像がそのまま世界そのものと一致しているかどうかを確実に確かめる術は私たちにはない。言い換えると、科学がいかに進展しても、科学の諸理論は仮説にとどまらざるをえない。このような世界観と調和するのは、次のように特徴付けることができる「穏健な唯名論」である。

「科学は真理に限りなく近づいていく」と主張する人(このような人のことを哲学擁護で「科学的実在論者」と呼ぶ)が正しいという可能性を、否定しようとは思わない。ただ、科学的実在論がたとえ正しくても、それが正しいと私たちは知ることはできないはずである。というのも、何が科学的に真であるのかということに対する保証を私たちは決して得ることはできないからである[中山(2008)第七章]。だから科学的実在論が正しいかどうかにこだわらず、私たちが現在最も優れていると考えている世界把握と、その基盤となる言語体系に基づいて、私たちは活動していけばよいのである。

本質的に「言葉」とは、固有名的だったはずである。それは、その言葉を発生する人が、指を指す先にある「それ」を、ただ「そのもの」として意味していたわけで、それ以上でもそれ以下でもない。ところが、その言葉が次第に、

  • 意味

を変えていく。つまり「科学」の発明である。しかし、このように事後的に科学を眺めたとき、その言葉を「類」として扱うことの「自明」性をどんなに感じるのだとしても、この前者を後者に

  • 還元

すればいい、といった態度には、そもそも無理があるわけである。
唯名論は私たちの常識とあまりにも離れているように思われて、ぎょっとするわけであるが、これが言いたいのは、本質的に私たちは「言葉」を

  • 固有名

として使っている、ということを意味している。さきほどのリンゴの例でいえば、ここで「リンゴ」と言っている人にとっては、ここで「リンゴ」と言うことによって、その二つのリンゴの両方をも意味するような形で

  • 指示

しているということがポイントなわけであって、実際のところ、この二つのリンゴの「本質」があるのかないのか、といったことを、少なくとも、

  • ここで「リンゴ」と言っている人

にとっては関係ない話なわけである。だとするなら、ここで何が問われている、と考えればいいのだろうか? それについては、次の記事で扱おうと思う...。

現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)

現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)