中山康雄『パラダイム論を超えて』

私がいつも不思議に思うのは、人々があれだけ「進化論」について重要視しているのにも関わらず、自らが「行う」ことに対しては、その進化論を適用しなければならないとは夢にも思っていない、というところにある。まさに、マルクスがすべての労働者を「資本の担い手」として描いたにも関わらず、なぜか人々は自らがその大波にまきこまれ、溺れることを想像していない、といったことと同じように。
私がここで言おうとしているのは、掲題の本が扱っている「科学論」なわけであるが、この本が興味深いのは、以前、私がこのブログで扱った戸田山さんの『科学的実在論を擁護する』の後に書かれており、その内容をちくいち参照している。もっと言えば、この本に

  • 反論

をしている、というところにある。
さて。ここで、その戸田山さんの本のタイトルが「科学的実在論を擁護する」とあるのであるから、ここではこの

の議論がどういうものであったのか、を簡単にふりかえっておこう:

まずここで、科学的用語の指示の問題に対する代表的な立場をまとめておこう。

(4a)[実在論的見解]科学理論に現れる語は、基本的に、実在する対象を指示する。それらの語は、字義通りに解釈されるべきである。
(4b)[道具主義的見解]日常的対象は実在するが、科学理論に現れる語は対象を指示しない。科学理論は、私たちが観察する現象の説明に用いられる道具である。したがって、科学理論が対象を指示しなくてもかまわない。また道具主義は、実在論と対比して「反実在論」とも呼ばれる。
(4c)[操作主義的見解]私たちが操作できる対象は、実在する。したがって、電子のような理論的対象も私たちが先端的技術によって操作できるのだから、日常の物体と同様に実在することになる。

現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)

現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)

何故このように科学理論に現れる名辞の指示について見解が分かれてしまうかというと、科学理論に従って科学で主張されることがらが必ずしも真だとは限らないということにそのひとつの理由がある。私たちが正しいと思っている科学理論が実際には偽であることが判明したとき、もっとも打撃を受けるのは実在論的見解である。この場合に、旧科学理論に現れる名辞の指示については実在論的見解は何も語ることはできず、そのような指示可能性を否定する以外にない。これに対し、道具主義的見解では、もともと理論的対象に対する指示についての主張が含まれていないので、理論変更は何の問題も引き起こさない。そして、操作主義的見解では、たとえ基礎となる理論が誤りであることが判明しても、その理論が実際の技術的操作を可能にするものだったなら、偽なる科学理論に現れる名辞は対象を指示きると考える。例えば、ニュートン力学が正しいと考えても、相対性理論が正しいと考えても、同様に、同一の物体について語ることができると操作主義者は考える。
現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)

非常に分かりやすく言わせてもらうなら、科学的実在論とは、科学は

  • 真実

を目指すものであるし、(実際にその「日」に到達できるのかはともかくとして)いつの日にか、この「真実」を知ることができるし、つまりは、それに向かって行っている営みなんだ、というところにある。それに対して、ここでの道具主義や操作主義といった非実在論とか反実在論と呼ばれている解釈は、そこの「真実」性が

  • 弱められている

というところに特徴がある。

ここでは、反実在論者として有名なファン=フラーセンによる実在論の特徴付けを採用しておこう。それは、次のものである。

(1)[科学的実在論の立場]科学は、その諸理論において、世界がいかなるものであるかについての文字通りに真なる叙述を私たちに与えることを目標とする。そして、ひとつの科学理論の承認には、それが真であるという信念が含まれる。(van Fraassen 1980:邦訳p.34:中山2010:p.151)

しかし、直観的には、科学が「真実」を目標にしている、などというのは当たり前のように思えるわけで、わざわざそれを否定しようとする人がいるなんて、どうかしているんじゃないのか、と思うのではないだろうか。もちろんそれは、「今」、その真実に到達している、ということを意味しているわけではない。でも、少なくともそこに「近づいて」いっている、そういった努力を重ねているのが科学なんだ、という、あまりにも自明なことを、なんで疑われなければならないのだ、と思うわけである。
そして、その「当たり前」さを、一つの「論法」という形で提示したのが、いわゆる

  • 奇跡論法

と呼ばれているものである。

科学的実在論を擁護する論証のひとつとしてパトナムが提案したのが奇跡論法であり、この論法をめぐってさまざまな論争が続けられてきた(戸田山 2015:第2章)。ここで、この論法がどのようなものかを見ておこう。

実在論を擁護する積極的な論証は、それが科学の成功を奇跡にしてしまわない唯一の哲学だ、ということである。成熟した科学理論の用語は、概して指示対象をもつこと(この定式化はリチャード・ボイドによる)、成熟した科学において受け入れられている諸理論は、概して近似的に真であること、同一の用語は、異なる理論の中に現れても同一のものを指示しうること----科学的実在論者はこれらの言明を、必然的真理としてではないが、科学の成功の唯一の科学的説明に属するものと、したがって、科学および、科学とその対象との関係の、いかなる十全な科学的記述にも属するものと考える。(Putnam 1975a:p.73)

奇跡論法は、「科学の成功を説明できる唯一の哲学は、科学的実在論である」ということを根拠とした実在論擁護のための論法である。しかし、科学の成功を説明できる哲学の立場はひとつしかなく、それが科学的実在論なのだろうか?

私たちは「真実」に向かっているのだろうか? こういった態度はヘーゲルを思わせるし、もっと言えば、キリスト教千年王国主義を想起させる。人間は

に近づいているし、人間が「真実」に近づくことは、神に近づくこととほとんど「同一」のこととして、こういったヘーゲル主義者は科学を考えた。
もちろん、こういった疑問をもつことは、20世紀の現代思想における、「ポストモダン」という大変評判の悪い、不可知主義的な相対主義を想起されるかもしれない。しかし、いわゆる

がその理論の「徹底」を

  • 進化論

に見出したことを考えてみると、(最初に書いたことであるが)この態度の不徹底にこそ、私は違和感を覚えるわけである。

ファン=フラーセンは『科学的世界像』の第2章で、この奇跡論法が誤りであることを、進化論的論証を用いて示している。その反論のポイントは、科学の成功を説明できるのは科学的実在論だけではないということを具体的に示すことにある。

これと全く同じように、現在の科学理論の成功は全く奇跡ではない、と私は主張する。それは、科学的(ダーウィン主義的)な心にとって驚きですらない。なぜならいかなる科学理論も、すさまじい競争、牙と爪の入り乱れるジャングルの中に生まれ落ちるからである。成功した理論のみが生き残る----すなわち、自然における現実の規則性を実際に捉えた理論だけが生き残るのである。(van Fraassen 1980:p.40. 邦訳p.87)

なぜ「科学」だけは「進化論」の

  • 例外

だと、科学的実在論者たちは考えるのだろう? では、なにがこの二つを分けるのだろう? 私は別に、例えば光学的知識を前提にして、人間の目の「構造」から、必然的にどういった「像」を結ぶのかは身体的に「同一化」されている、といったようなレベルで異論を唱えているわけではない。そういった、自然科学的な知見を認めた上で、そもそも

  • 進化論

的なプロセスを免れるものがありうると考えることの違和感を言っているわけである。
例えば、たいへんに興味深いことに、現代科学論を新しい地平に切り開いたと言われる、トマス・クーンも、

非実在論・反実在論の側だったわけだが、その彼も、科学の発展を

  • 進化論

によって説明しようとしていた、というわけである。

科学的実在論をめぐる議論の中で、非実在論・反実在論の立場から進化論的視点が提供される場合がある。クーンもすでに『構造』の中で、そのような議論を示唆している。

革命の決着として第12章で述べた過程は、将来の科学を行うための最も適切な道、科学者集団の中の闘争によって選択する過程である。通常科学の期間を間にはさんで、このような各革命期の選択の結果、われわれが今日の科学知識と呼ぶすばらしく適応された道具を得ることになった。その発展の過程の各段階は、整備洗練と専門化の増大によって特徴づけられている。生物進化の場合と同じく、このすべての過程も、定まった目標、永久に固定した科学的真理というものがなくとも起こりえたであろう。そして、科学知識発展の各段階はそれぞれ、固定した真理よりもより良き規範になっている。(Kuhn 1970:p172. 邦訳p.195)

ここでクーンは、科学知識の発展を、真理概念を用いることなく進化論的に記述する方法について述べている。

科学哲学で科学知識の発展を進化論的視点から説明しようとするケースは、多くの場合、科学的実在論の拒否と結び付いている。標準的実在論者たちは、科学活動の発展を科学的真理への接近と結びつけて説明しようとしてきた。これに対し、非実在論者たちの一部は進化論的視点からの説明を試みる。そして、先の『構造』の最終章の引用からもわかるように、クーンは科学的実在論の立場に対して批判的である。

(ちなみに、クーンが自らを「カント主義者」と言っていた、ということは、この問題を考えるときとても示唆的に私などには思われるわけだが。)

クーンは、自分の立場を「ポスト・ダーウィン的カント主義(post-Darwinian Kantianism)」と呼んでいる(Kuhn 2000:p.109 邦訳:p.129)。クーンの立場に潜むカント主義は、次のテーゼの肯定にある。

(3a)科学的認識も含めて、認識は概念枠組みを前提にはじめて成立する。概念枠組み抜きで把握できるような認識はない。
(3b)経験的認識は、観察データに依存する。
(3c)もの自体(Ding an sich)については認識することができない。つまり、概念枠組みに中立的な記述形式は存在しない。

この「混乱」はどういうことなのだろう? おそらく「科学的実在論」というのは、進化論における適応主義と同様に、

だということなのではないか。おそらく、この「単純」な構造が問題を扱いやすくさせているのであって、そのことが、多くの科学者にこの態度へのコミットメントをさせている...。

パラダイム論を超えて: 科学技術進化論の構築

パラダイム論を超えて: 科学技術進化論の構築