選手クーデター説は間違っていたのか?

日本代表も敗戦し、決勝トーナメントも次々と進んでいるわけであるが、まるで

のように、「勝てば官軍」と、奮闘した選手を礼賛することがひいては、今回のハリルホジッチ解任を

  • 免罪

することと同値のように議論を誘導するネット世論ポピュリズム的世相を見ていると、ああ、こうやって自民党は何十年も一党独裁を実現してきたのだな、と納得をするわけだが(まあ、またこういうことを言うと感情的な反発をくらう)、しかし、いずれにしろ終わったからこそ見えてくるものというものもある。
今回の監督交代は、一ヶ月前に行われ、まず注目しなければならないのが、最初の練習試合のガーナ戦で、3バックで挑んでいる、というところにあるように思われる。つまり、基本的に西野さんは3バックで大会を戦うつもりだった。それは、今回の大会を見ても分かるように、国内組の「能力」がそうでなければ対等にならない、と考えたのであろう。
実際に今回の集められたメンバーを見てみると、そう考えると納得できるような陣容になっている。
そして、西野さんが最初に考えていたのは、田嶋会長が解任会見で言っていたように

  • ポゼッション・サッカー

  • 遅攻

だった。つまり、本田をトップ下に置いて、攻め急がないで攻略する(まあ、今回のドイツに近いのだろうが)。ところが、練習試合のガーナ戦、スイス戦で結果がでなかったことから、この戦略が本戦では「使えない」という、逆の「めど」が立ってしまった(ガーナ戦の出来で、すでにここで、3バックをあきらめてもいる)。
よって、大会前の最後の練習試合のパラグアイ戦で、今まで怪我の治療に専念していた、香川、乾、岡崎といったトップ・クラブの主力の

  • 属人的

な能力で、自由に闘わせる戦略というか、最後のオプションを試すわけだが、これが唯一めどが立ったわけで、これで行くしかなくなった。ところが、これって、ようするに

  • 代えがきかない

わけで、全員をヨーロッパのトップリーグでやっている選手で戦列を組んでいるから、一定の品質が出せるような戦略なわけで、結果として、本大会では多くの「国内組」の選手が一回も使われることなく、大会を終えることになる。
おそらく、この戦い方になんらかの秩序を見出すとするなら、香川が基本的には回りに指示をしていた、という形になっていたと思われる。つまり、今回の戦いは基本のベースをハリルの時と一緒にした上で、ハリルのオプションの中にもあった、香川をトップ下に置く戦略を、彼を含めて、回りを固める攻撃的な選手を、自分のクラブチームにいる時と、ほとんど「同じ」ように振る舞うことを許す、ほとんど監督が戦略的に選手の「動き」を指示しない、自由を認めるとしたことで、各レギュラーは動きやすかっただろうが、その選手が戦略上問題があり、代えたいと思っても、簡単に動けないような、属人的なチームになっていた、ということなのだろう。
実際に選ばれた選手を考えてみても、ようするに、ヨーロッパのクラブチームの中でも、トップの分類とされる、イギリスとスペインの所属の選手は、たとえ怪我もちだったとしても優遇され、それ以外のヨーロッパの多少、格が落ちるクラブチームの選手は眼中にもされなかったわけで、まあ、選考の時間がなかったのもあるのだろうが、それにしても露骨な対応であった。
確かに、常にトップリーグで活躍している選手がレギュラーを固めれば、彼らは所属のリーグで、これから戦う相手のレベルの選手と毎日やっているのだから、それなりに一定の活躍はするのだろう、とは誰だって思うわけで、特に、極東の日本なんてところから、はるばるやって来て、自分の能力でこじ開けたという自負もあるわけだから、まあ、最初からこういった連中に好きにやらせれば、それなりの成績にはなるんだろう、ということは計算はできるわけであろう。
今回の大会で特徴的だったのは、乾選手が、かなり自由に大会内で発言をされていた、というところにあると思われる:

急きょの監督交代でこの大会を迎えましたけど、僕自身はたぶんハリルさん(ハリルホジッチ前監督)なら選ばれてなかったと思いますし、試合に使ってもらえることはなかったと思います。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180703-00000011-sasahi-socc

このベルギー戦の後の発言は突然のように思われるが、ポーランド戦の後にすでに、かなり細かく、その「意図」を説明している:

「記事をいろいろ見ていたけど、ハリルさんをあれだけ解任したほうがいいという報道が出ていたのに、実際に解任したら"なんでこの時期に"となっていて、俺は見ていてよく分からなかった」
W杯アジア最終予選後、チーム内には閉塞感と停滞感が漂い、3月のベルギー遠征では事実上、崩壊していた。日本サッカー協会は4月7日付でハリルホジッチ前監督との契約を解除したが、乾は「俺らからすると、その判断はそのときから素晴らしいと思っていたし、勇気ある決断だったと思っている」と指摘。その口調は徐々に熱を帯びていった。
「そのときから西野さんを信頼していたし、その判断をした協会に自分たちが応えないといけないと思っていた。(W杯で)勝ったからどうではなく、このチームでやるとなった時点で(西野監督を)信頼していた」
7月2日の決勝トーナメント1回戦で対戦するベルギーには昨年11月にも国際親善試合で対戦。敵地で0-1で敗れたが、当時とは日本も文字どおり別のチームになっている。「あのときは戦い方という意味でバラバラだった。選手同士はバラバラではなかったけど、戦い方のやり方がなかったというか、バラバラだった」。そう振り返る乾は当時との違い、そして現在の代表チームへの自信を口にした。
「今は意思統一して攻撃も守備もできている。そこが違い。ハリルさんのときは基本的に縦に速いサッカーをしないといけなかった。でも自分たちにそういうタイプのサッカーは合わないと思う。この3試合はボールを保持しながらやっていたし、それが日本の良さ。それはベルギー相手でもできると思う」
「あのときはバラバラだった」乾が語る日本の良さと西野Jの強み(ゲキサカ) - Yahoo!ニュース

ここの「選ばれてなかった」「あれだけ解任したほうがいいという報道が出ていた」「俺は見ていてよく分からなかった」「自分たちにそういうタイプのサッカーは合わないと思う」「それが日本の良さ」といった発言は、選手の立場として、ハリル元監督を

  • 監督としてふさわしくない

ということを、かなり明確に主張していた、ということを意味している。つまり、ここでこだわりたいのは

  • 選ばれてなかった

という主張が、今までオーストラリア戦に始まり、それなりにハリル監督にレギュラーとして使われていた選手でありながら、なぜそんなことを言うのか、といった含意として

  • 監督の理想のサッカーに<逆らう>

という形、つまり、ナショナルチームに呼ばれながら、監督に対しては、反逆者、敵対者として、実際に「振る舞っていた」ということを意味している。

だからこそ今大会の試合を見ても、そのことが(香川)真司さんや本田(圭佑)さんの活躍につながっていると思います。経験があればある選手ほど、監督の指示が違うと思えばチームのために意見を言うし、チームのためになると思ったら監督の指示と違うこともやろうとする。そういう意味では、監督が求めていることに100%集中する選手もいる一方で、それが難しい選手がいるというのも、また事実だと思います。
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これは、今回、サポートメンバーとして途中まで帯同した浅野の発言であるが、前回のザッケローニのときから、いろいろ言われていて有名なわけだが、日常的に選手による監督への

が繰り返される。その中心が本田だったわけだが、今回の解任劇で一部マスコミで「連判状」なるものが話題になったこともあるが、ようするに本田を中心として、彼のエピゴーネンたちが、いちいち監督の指示することを試合中や練習でも

  • 無視

することが日常化していた、ということになる。
つまり、どういうことか?
私たちは勘違いをしている。日本は「組織」的なチームじゃない。全然そんなことはない。日本は「個」のチームだ。一人一人が自らの「エゴ」を主張して、それが満たされない限り、彼らはそもそも動こうとすらしない。
このことは、幕末の長州藩の下級武士のテロリズムから始まって、明治以降の帝国陸軍の、満州事変を代表とする。さんざん繰り返されるテロ行為が示しているように、日本人は少しも「組織」的ではないのだ。
ではなぜ日本は「組織」的と言われるのか? それは、義務教育段階での「指導」がそうなっている、ということを意味しているに過ぎない。ようするに、教育が

  • 命令に従わせる

といった内容の反復になっているから、子どもたちは

を覚えるだけで、いつでも彼らは「反逆」をする。
しかし、ここで注意しておかなければならないポイントがある:

今回選手に聞いてわかったのですが、自分がでれないから監督を変えてくれなんて言うような選手は一人もいない。日本のサッカーを考えてくれているのがわかってとても嬉しかったし、スタッフも監督と実際に話したりしていました。
そして西野技術委員長もサポートする立場で、ハリルホジッチ監督と話し、色々変えてもらうようにいってきたのも事実です。
ただ、今回3月のところで、我々は何とかひっくり返すというか、段々バランスが崩れてきたようなものを何とか元に戻したいと思っていたものが、残念ながらもっと悪くなってしまったということですね。それで契約解除ということに至ったということです。
サッカー協会会長の発言を解読してみた【NHK生出演】|中村慎太郎|note

これは田嶋会長がハリルの解任会見の後で、NHKのインタビューで延べた内容であるが、ようするに、こうやって各選手が監督に「反逆」「シカト」をするのは、彼らが

  • やる気がない

からではない、と言うわけです。そもそも彼らは日本代表に選ばれたからといって、それによって直接、たいして儲かるわけでもありません。実質、ボランティアのようなものです。そういった選手が、自主的に「やりたい」と言ってやってくれている。でもそれは、

  • 監督の言うことに従う

ということとイコールではない。場合によっては、監督へのサボタージュを行う。むしろ、それによって

  • 団結

をする。監督を「だし」に使う。彼らがやりたいのはなんなのか? 彼らはそれを「勝つため」と言う。ただしそれは、監督の言うことに従うことではない、と言う。だとするなら、そこにあるのはどんな

  • 規準

なのかを示さなければ、公的な説得力がないんじゃないのか、と考えるわけだが、彼らは「どうせ関係者以外に分かるわけがない」と言って(まあ、エリートですね)、そういった因縁をつけてくる連中と敵対する。

知的な作業としては、誰がどの程度不満を抱いていて、それを定量化し、解決可能かどうかを模索するべきです。しかし、こういった部活仲良し的な文脈では「空気を悪くするやつは悪」という断罪が成立するため、不満がたまってそうに見えることはのっぴきならない大問題です。
サッカー協会会長の発言を解読してみた【NHK生出演】|中村慎太郎|note

出場できない選手からの不満はありますが、それは正当な理由があって言っているのであって、「俺を呼ばないのはおかしい」という理由で怒っているわけではないということですね。
書いていても何の事やらわからなくなりますが、こういうことです。
「俺は会社を首になった。首になったから言うわけでは断じてないが、そもそもうちの会社のやっていることは間違っている。これでは会社が成長しない」
でも、「いやいや、首にならなかったら言ってないでしょ」と突っ込みたくなる事案でもあります。
自分の感情が正しい。
こういう考え方が貫いているかなと思います。ぼくは元研究者なので理系ベースな考え方なのですが、「真実」を追い求めるための試みに感情は不要です。
事実がどれだけの確しからしさで事実なのかを考え、それを論理的に構築し、統計的な根拠を与えることで説得力を持たせます。「俺がこう思うから正しい!」というのはまったく通用しないのです。
ハリルホジッチ監督は、研究者的な事実ベースの理屈をこねる人なので、「感情的にわかりあえないから解任します」という説明は、まったく意味が分からないでしょう。
だから、ハリルホジッチ監督も意味不明で到底受け入れがたいと感じるわけだし、サッカークラスタ的にも「そんな理由は聞いたことがない」となるわけです。いや、日本国内ではちょこちょこある事案なので、サッカークラスタは聞いたことはあるわけですが......。
サッカー協会会長の発言を解読してみた【NHK生出演】|中村慎太郎|note

さきほどのブログの方のまとめとしては、こんな感じであるが、この体育会系的な「みんな仲良く」の「なあなあ」主義は、結局は

  • 先輩後輩

とか

  • ヨーロッパのリーグの格

とか、そういった「誰が一番偉いのか」みたいな話になって、そういった属人的な属性で「発言権」が強くなっていく。
大事なポイントは、日本の戦前の右翼のテロリズムもそうだが、なんらかの意味で、テロを行う人はそう行うことの

  • 純粋な汚れていない心

を「理由」として使う、というわけである。「勝つため」なんだから、そのために邪魔な監督を止めさせよう。しかし、そう言うことと、いや、あんたが選ばれなかったということは、他のだれかが選ばれたというだけなんじゃないのか、と言うこととは、そんなに明確な「規準」があるわけじゃない。
よく考えてみてほしい。
そもそもの根本的なこととして、私たちは本当に本大会で日本代表が「どうある」ことを目的にしていた、と考えるのだろうか? 一般には、予選を通過して、ベスト16になることだ、と言われている。しかしそれは、協会側が言っていることであって、そんなことが本当に目的なのか?
例えば、確かにベルギー戦は2点を先制して、誇らしい気持ちをもったかもしれない。しかし、だったらなぜ、その後3点をとられて負けたのか? 言うまでもない。そういう「戦い方」をしていたからでしょう。スタミナを考えずに、前半から飛ばしていたし、怪我がちなベテランも多かったから、そもそも、これ以上勝ち進むことを真剣に考えていなかった。それだけじゃなく、こういう戦い方をする限り、控えの選手がまったく使えない。それは、この戦術を代替できるレベルの選手が国内組にみあたらない。だから、選手交代ができない。
私は素朴に疑問に思っている。勝利至上主義は天皇至上主義に似て、あらゆる

を正当化する。しかし、サッカーとはそういうものだろうか? もっと大事なことがあるんじゃないのか? 選手が監督の指示に従い、自制心をもって振る舞うことの方が、なぜ

  • 価値

あることだと考えないのだろうか? 試合は勝てばすべてを正当化できる、などと言うなら、それは満州事変と変わらない。人間としてあるまじき、下品な行為なのではないか。そんなことは試合に勝つか負けるかということ

  • 以上

に大事な、人としての振る舞いだったんじゃないのか?
そもそも、本当に監督と選手の、上記の田嶋会長が言っている「もっと悪くなってしまった」といったことが起きていたのだろうか? それは起きていたというより、

  • 選手に選ばれないかもしれない

と考える選手側の、主観的な印象なのであって、例えば、ザッケローニの頃から、さまざまに監督の「指示」を無視して、自分勝手にプレーしていた一部選手の

の声を(まあ、実績があるだけに、その影響を無視はできなかったと言ってしまえばそれまでだが)、極端に重視してしまった結果でしかないのではないか?
私はそもそも、日本代表はこういったように

  • 価値観

を変えないと、どうしようもないテロリスト集団になり下がってしまうように思われる。もっと大事なことがある。もっと、社会の規範として大事にしなければならないことがある。それは、試合に勝ったり負けたりすることより重要なことがある、ということ

  • 認める

ことができる「大人」によってプレーをするかどうか、に全てがあるように思われるわけである...。