オウム死刑

オウム真理教の麻原と、他数名の信者との死刑が同日に実行されたわけだが、その前日に法務大臣と総理が「飲み会」をやっていたことがニュースになっていた。
まさに、藤原道長。この世をば、というわけで、安倍政権の「栄華」を誇る、といった意味があったのであろう、と疑われている。麻原がやったことは、日本国家への「敵対」であり「戦争」である。それを、その首謀者を「死刑」にすることで、

  • 自分たちが勝った

ということを満天下に示すことを、この飲み会が示していたわけで、この「飲み会」と「死刑」はセットで考えなければならないわけである。
そもそも、なぜ日本は死刑を廃止できないのか? おそらくそこには、天皇制が関係している。平泉澄は、戦後も、国民主権は間違っていて、日本が天皇主権であることが

  • 日本史

が示していることだ、とした。国民は天皇の奴隷であるわけだが、それは「丁稚奉公」のそれと似ている。日本人とは天皇に命を捧げるために生まれてきたし、それだけを「目的」として生きる存在だ、としたわけで、それは

  • 日本史

が示している、としたわけである。
このことは、明治政府の「明治憲法」の曖昧さが、こういった解釈を「正当化」したわけで、ようするに、日本の近代化は「天皇主権」の問題が曖昧なまま進んだ、という特徴がある。
西欧列強に、日本が「近代国家」であることを示すために、表面上、日本は西欧列強にひけをとらない、近代法をもった、近代国家の体裁を示しているが、それは

  • 建前

であり、

  • 本音

においては、天皇を中心とした奴隷国家であった。それは、元老院制度に典型的に示されているわけで、すべての民主主義制度は最後の最後で「なんちゃって」で

  • ひっくりかえすことが可能

なように作られていた。ようするに、この問題を敗戦の最後まで曖昧にしたわけである。
死刑とは、こういった視点で考えたとき、ようするに、

  • 天皇は日本国民のだれでも好きに殺せる

という「権利」のことを意味するし、恩赦とは、

  • 天皇は死刑囚のだれでも、その罪を免罪にできる

ということを意味する。天皇主義者がこの「権利」を手放せない限り、日本の死刑制度がなくなることはない。
もう一つ言えば、天皇主義者は、

  • 天皇は世界で一番の軍事力をもたなければならない

と考える人たちである。なぜなら、そうでなければ、天皇は世界の他の権力によって常に滅ぼされるリスクを負っているという意味でで

  • 不安定

ということを意味してしまうから。ではなぜ日本の今の憲法9条は戦争の放棄、つまり、

をしているかというと、敗戦時に

自身が、「それ」を選んだから、といったひねくれた関係にあるわけだが、ようするに戦後一貫して、天皇主義者たちはこの「昭和天皇」の「選択」をよく思っていない。彼ら天皇主義者は

と考えているわけで、それが「明治天皇の<治世>に戻る」という形で、今の憲法改正論議は進んでいるわけである...。