匿名論

日本では、ディストピア小説として、ジョージ・オーウェルの『1984年』が有名であるが、多くの人たちは、この小説を読んでいながら、なぜか

  • 今の日本

が、この『1984年』が描いている、ディストピア社会であることを意識しない。
それは、昔の日本から続いている「伝統」で、ようするに、村八分と呼ばれてきたような、

  • 監視社会

を意味してきた。そういう意味で、日本の文脈で

  • 公的

とは、「国家が監視している空間」のことを意味していて、そこでは日本人は「本音を言わない」という

戦略を行ってきた。そんな所で「本音(つまり、権力者の政治批判)」を行えば、必ず、どこかで「告げ口」野郎が現れて、国家に告げ口されて、回り回って、さまざまな不利益を押しつけられる。日本人は、だれでも、今でもそう思っているし、それは逆に言えば、だから日本は

  • 治安がいい

と言われたりもするわけである(このことをより分かりやすく示しているのが、「セクハラ」問題であろう。日本のセクハラは「悲惨」であるが、それはセクハラが「裁かれにくい」構造にあることと深く関係している。国家がセクハラを「裁かない」という意志をはっきりと示しているから、日本人の男は「やってもいいんだ」と、お墨付きを与えられたと考えて、やり続ける。つまりこのことと、日本の「治安がいい」ことは矛盾しないわけであるw)
よく、民主主義には二つの「起源」があるんじゃないのか、と言われる。それは、

  1. 全会一致主義(ニアリーイコールで、全体主義
  2. 秘密主義

であるわけだが、人々は往々にして、民主主義と行ったとき、前者にばかり注目して後者を軽視しがちである。
ルソーの言う「一般意志」は前者をあらわし、基本的にルソー主義者は「顕名主義者」である。常に、本名で発言し、どこへでも顔を出して、人と会う、いわゆる「リア充」である。
他方、後者は古代ギリシアで言うと「秘密投票」のことを言っている。秘密投票はよく、ルソー主義者によって「卑怯者」と呼ばれ、馬鹿にされてきた。
しかし、日本のような『1984年』とまったく変わらないディストピア社会では、そもそも「秘密投票」でない限り、だれも「本音」を言わないわけで、これを卑怯者と非難している人たちが何を

  • 意図

しているのかの方にこそ、その本音があるわけであろう。
例えば、この前の新潟県知事選挙では、多くの土建業者が、期日前投票を社員や社員の家族にさせて、それを「記帳」させたのだそうである。しかし、そんなことをしてしまえば、ある程度、だれがだれに投票したのかが分かってしまうわけで、「反秘密選挙」であったことが予想できるわけであろう。
ルソー主義者はよく、「政党」を馬鹿にする。政党は間違っている。なぜなら、政党があるから、「一般意志」があらわれないから、と。一般意志を立ち上げるためには、人々は

  • 個人

にならなければならない。つまり、政党に属すること、党派性をもつことを止めなければならない、と。
ところが、反語的だが、一般的には「保守主義者」と呼ばれている。エドマンド・バークは、この「政党」を擁護しているわけであるw

実は、古代からの党派・政党へのコメントを集めてみれば、そのほとんどが否定的なものである。一部の人が徒党を組んで「全体」の利益を損ない、足の引っ張り合いをし、憎悪の感情をぶつけあう。いい感情を抱くことの方が難しいかもしれない。
こうした通説に対して、例外的に政党を評価したのが、「保守主義の祖」として名前が出ることが多いエドマンド・バーク(Edmund Burke, 1729-1797)だった。
民衆の感覚から遊離して「宮廷の私的恩寵にもとづいて君臨する」権力に対しては、「公共的人間が広範な民衆の熱烈な支持を背景としてこの集団に対抗して固く団結する以外には断じてこれを封じる手段が存在しない」と、彼は主張する(「現代の不満の原因を論ず」『バーク政治経済論集』法政大学出版局、2000年、85頁)。
権力者とその取り巻きが私利私欲に走らないようにするには、民衆の不満を吸い上げ、民衆に支持される、対抗する党派が必要である。彼はこうして政党政治を擁護する。
「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく(野口 雅弘) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

これはどういうことだろう? バークの言う政党とは、

  • 宮廷

という言葉があるように、

  • 王権

に対立する勢力を意味している。つまり、ルソー主義者の言う「一般意志」とは、実質的には

  • 王権の権力

のことを意味している。「全体主義」は「王権」と悪魔合体する。このことは、フランス革命の始祖の一つと考えられている、ルソー主義と矛盾しているように思われるかもしれないが、ルソー主義の「全体主義」は、

  • 王権(ニアリーイコールでの、宗教)

の「権威」を手放すような性質のものではないわけである。そこは言わば「ゼロ記号」のようなものとして、「空(くう)」として機能する。政党に属すること、党派性をもつことを止めることとは、「空(くう)」に属することであって、「無党派」性を意味しない、そもそも無党派であるとは、人間を止めること(動物化すること)を意味するわけで、本質的に反民主主義的なのだ。
ルソーの「社会契約論」を考えてみても、その書き出しから、民主主義のありうる性質を、さまざまな角度から模索する、という探究から始まり、最後の章で自らの「結論」という形で、その民主主義の不可能性を

  • 国家の宗教化

によって<反転>させたエッセイなのであって、彼は最初から真面目に民主主義の「可能性」を主張なんかしていないわけであるw
そういったルソーの

を理解し、その反民主主義性を礼賛したのが、東浩紀先生の『一般意志2.0』があるわけだが、この本では、あまり明確に、彼の持論である「反民主主義」が明確に主張されていないため、多くの人によって誤解されているわけだが(まあ、よく読めば、彼がさまざまな文章の端々で、いかに自分が民主主義を否定しているかの「本音」を漂わせているわけだがw)、このことが分かりやすい、最近の東先生の発言では、安倍首相のモリカケ問題を「囚人のジレンマ」として説明した以下が典型であろう。では、その書き出し部分を見てもらいたい:

囚人のジレンマという言葉がある。ばらばらに収監された2人の囚人は、相互不信にとらわれた結果、双方にとって不利な決断を下すことがある。その状況を意味する、ゲーム理論上のモデルである。
この数カ月、政局を見てはその言葉を思い出している。野党は(以降、省略w)
東浩紀 “首相の嘘”は「囚人のジレンマ状況から生まれた構造的なもの」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

東浩紀氏 “首相の嘘”は「囚人のジレンマ状況から生まれた構造的なもの」【20180607 AERA】 - Togetter

上記のエッセイの冒頭で、これから安倍首相のモリカケ問題を語り始めるのにも関わらず、その最初が

  • 野党

となっていることを、注意してほしい(ちょっと、問題を強調するために分かりやすい省略をさせてもらったがw、リンクを貼ってあるので、それ以降が読みたければ、ご随意にどうぞw)。こういった、大学で「レトリック」の訓練を積んできたような人たちは、大衆向けに

  • 奇妙なレトリック

を使う。ところで、近年、欧米のジャーナリズムでは「Whataboutism(そっちこそどうなんだ主義)」と言うのだそうである。

批判、指摘された時に、「そっちこそ○○」「じゃ○○はどうなんだ」と返す論法は "Whataboutism"(そっちこそどうなんだ主義)と呼ばれ、相手や他人の批判に話をすり替えることで論点に直接答えることから逃げる論理的誤謬で、ソ連プロパガンダで多用された手法。 何の解決にもつながらない詭弁。
Tweets with replies by Aggie Hawl (@AggieHawl) | Twitter
@podoron 2018/06/30 04:24

東先生は昔、確か、國分先生とのニコ生での対談でであったと思うが、ワインを飲みながら、自分の哲学は

  • 二元論

だと言っていたわけだが、そのことについて、ツイッターで、さらに突っ込んで、自分の書く文章は基本的に常に

  • 二元論(つまり、二分法とか、二項対立とか)

となっている、と自慢げに書いていた。そして実際に彼が発言した今までの文章は、ことごとく、「二項対立」で書かれているわけでw、まあ、有言実行と言えば、聞こえはいいが、ようするに

  • Whataboutism(そっちこそどうなんだ主義)

を地で行っている、と自ら白状している、というわけであるが、じゃあ、なぜネトウヨ

  • Whataboutism(そっちこそどうなんだ主義)

になるのか、というわけであるが、これについても、東先生は自ら、あけすけなまでに白状している:

そりゃそうです。体制にあるていど順応しないと、新しいヴィジョンを現実にすることもできない。反体制を叫びながら大学や会社から給与をもらっているひとたちの感性は、ぼくにはわかりません。 にいさん on Twitter: "この人基本的に体制順応志向だよね。… "
@hazuma 2018/04/17 09:49:14

というか、ぼくは東大行ってる時点で体制順応。
@hazuma 2018/04/17 09:50:17

笑えば。 にいさん on Twitter: "笑える!この論理!御用ヒヨーロン家として食ってる事が透けて見えるw… "
@hazuma 2018/04/17 10:02:33

東先生の語ることは、こういった意味で、基本的に

  • 体制順応主義

であるわけで、彼はそれを否定しない。じゃあ、だとするならその彼の発言を喜んで消費する、日本の東浩紀「ファン」は、なんなんだろうね? 彼らも「体制順応」主義者なのだろうか? または、進んで彼に騙されることに、なんらかの快楽を感じるマゾヒストなのだろうか? または、もっと直截に彼と利害を一致する体制派ということなのだろうか? いずれにしろ、そのことと、彼と彼の周辺を固めるファンの人たちの

とは深く結びついているわけである...。