自分が「何か」であると定義するな!

オタクという言葉がいつから使い始められたかとは関係なく、この言葉がどういった「文脈」で使われてきたのかを考えることはできると考えられる。それは、いわゆる「オタク趣味」と呼ばれるような、さまざまな、サブカルチャーを「好んで」いると知られることが、周りから

  • 冷たい目で見られる

ということと関係していた。ようするに、周りから「差別」されてきたわけである。その場合、相手はこの「オタク趣味」に詳しくない。つまり知らないがゆえの

  • 不気味さ

が、こういった態度をエスカレートさせたことは十分に考えられる。そしてそれは、現在も続いているわけで、いわゆる

と呼ばれる形で、社会はそれを「消費」している人たちを「差別」しているし、つまりは、こういった「迫害」からの抵抗運動の文脈で、この「オタク」という言葉が注目された。
ようするに、

という関係になっているわけで、彼ら「オタク趣味」を好む人たちは、世間から自らのその嗜好を「隠し」ている、人前で話さない、という態度として実践してきたわけである。
しかし、である。
ここで、重要な区別をしなければならない。それは、そのことと、自らを「オタク」と自称することは違う、ということである。
自称する、ということは、他人に自分の趣味を、冷たい目で見られることを「抗議」するという行動を意味し、つまりは、隠さない、という態度を意味する。つまり、冷たい目で見られなければならなような、やましいことじゃないと抗議している。ここにパラドックスがある。やましいことじゃないのなか、自分を「オタク」などと言う必要がない。たんに、普通の人でいい。
ようするに、「オタク」は他人が「その人の趣味」を冷たい目で見るときに使う「差別語」であり、あくまで「名付ける」側が使うレッテルなのであって、この「言葉」を本人がアイデンティテイとして「内面化」してはならない、ということなのだ。
そもそもの話である。
自分が「なにもの」であるかを定義してはならない。
なぜならそれは、自らの「生きがい」を探し生きていく「道」の考えに対立するからだ。自分がなにものになっていくかは、その「道」を求めて、日々行っていく「探究」が決めていくのだから、ようするにずっと変わっていく。そうである限り、自らを「なにもの」と言った時点で、その人は道の探究を止めている、ということなのだ...。