オウム真理教の信者の理系エリートがなぜオウムに入信したのか、といった問題は、彼らが「学校優等生」であったことと深く関係している、といったことを以前書いたが、このことを非常に単純化して言うなら、
- なんのために学ぶのか?
の問題に彼らが「直面」したから、ということになる。彼らは「猛烈」に勉強して、なんと「東大」なんていうところに入学してしまった。しかし、ひとまず落ち着いて、
- なぜ
こんなに勉強したのか、と自分に問いかけてみると、見事なまでに答えがない。それは、東大が日本で一番いい大学で、将来の職選択の可能性が開けて、といったように、とりあえず思いつくような「理屈」をでっちあげることは、そんなに難しくない。しかし、言うまでもなく、こういった理屈は全部、嘘っぱちである。
なぜなら、ここで問うているのは、
- 生きがい
- 生きる「目的」
- なにをするために自分は今、この時、生を受けているのか?
- 自分の「使命」
といったことに関係して問われているからだ。
こういった文脈から、いわゆる「オタク」とオウム真理教の関係が議論されてきた。例えば、日本のSF作家の平井和正の『幻魔大戦』は、まさに、こういった「生きがい」に関係してストーリーが進み、
- アウェイアス・トレーニング
とも関係した形で、読者にも読まれたという意味で、その内奥において深く関連していた、ことは間違いないわけである。
(そもそも、オウムの問題とは、カルトの「勧誘」の問題であり、これは今に至るまで、まったく変わらず続いているわけで、なにも古い話ではない。オウムの出家主義という、いわゆる「全体主義」的な特徴にしても、おそらく当時の入信者にとっては、
- 全財産を寄付するくらいのことができなければ、「ホンモノ」ではない
といった形の、ある種の「ロマンティシズム」によって突っ走られた。それには、間違いなく、中沢新一の紹介した、チベット密教における、グルと弟子の
- (ある意味での)ロマンティックな関係
が彼らの「イメージ」を決定していた。しかし、そういった「ニューアカ」のどこか楽天的な無責任主義の雰囲気でさえもが、全共闘運動の新左翼たちが内包していた「全体主義」の延長に位置付けられるように思われる)。
さて。私たちは一体、「何」をやっているのだろう?
もともと動物は、なんらかの「本能」によって、反射的に、直観的に生きてきた。そのときに、生きる「目的」に悩むこともなく、しかも、死にたいと思うこともなく、こうやって今に至るまで、繋いで来た。
ところで、トマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』というエッセイ集の、第1章、第2章は、それぞれ「死」、「人生の無意味さ」である。「死」とは、上記から議論してきている「生きがい」に深く関係している。ハイデガーの『存在と時間』をもちだすまでもなく、死は私たちの「生きている時間」が
- 有限
であることを指示している。しかし、このことはある意味で、パラドックスだ。どうせ死ぬのに、生きる「意味」とは? つまり、生きる「意味」や「目的」を考えることには、なんらかの
- 制限
が私たちにはあって、それがこういった問題への「科学」的なアプローチの限界を示している、と思われなくもないわけである。
上記のネーゲルのエッセイ「死」には、以下のような記述がある:
たとえば、即死の場合と昏睡状態が二十年続いてから死ぬ場合とを(他の条件は等しいものとして)比較していただきたい。ほとんどの人にとって、そこにたいした違いは認められないであろう。
(トマス・ネーゲル「死」)
- 作者: トマス・ネーゲル,永井均
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ある聡明な人物が脳に損傷を受けて満ちたりた幼児のような精神状態に退行してしまった、と想定しよう。彼に残っているような欲求はそれも保護者によって満たしてもらえるので、彼にはなんの悩みも不安もない。このような状況は、通常、彼の友人、親類、知人たちにとってだけではなく、誰よいも彼自身にとって、重大な不幸であるとみなされるであろう。これはもちろん、満ちたりた幼児が不幸であるという意味ではない。このような状態に退行してしまった聡明な大人こそが、不幸の主体なのである。彼自身は当然にも自分の置かれた状況に嫌悪感をもってはおらず、いやむしろ、彼がまだ存在していると言えるかどうかにさえ、いくらかの疑問があるにもかかわらず、われわれが同情する相手は、まさしく彼なのである。
(トマス・ネーゲル「死」)
コウモリであるとはどのようなことか
ところで、このネーゲルの主張に訳者の永井均さんは「賛成」なのだろうか? 私のような身内に意識の戻らない身障者がいる人間には、こういった、ちょっとした記述に「怒り」を感じるわけだが。
しかし、こういったちょっとした文章にも現れているように、このネーゲルという人の「発想」の仕方は、典型的な
- キリスト教文化
の延長にある、と感じられる。つまり、
- 神の視点
である。人の人生が「善」かどうか、といった問いは、そもそもそれが「客観的」な「測定」を前提にしている。ようするに、このネーゲルのエッセイは著しく
的な印象を受ける。功利主義は、そもそも最初は、「快楽」の計算の問題であった。「快楽」だから、
- 測れる
ということが前提であった。測れるから「客観的」だから、国家の政治方針に「利用」できる、というロジックになっていた。ところが、ある時から、この「快楽」は
- 幸福
と読み替えられていく。ようするに、「神」なら、人々の「幸福」の
- 量
を測定できるはずだ、と言うわけである。こういった事態は、数学の文脈では、通常論理に対する「直観主義的論理」の関係として、特に、現代においても、その関係は
- コンピュータ
において、特に、実務者が日々、向き合っている難問なわけであろう。
しかし、である。
私たちは、こういった「客観主義」や「科学主義」や「自然主義」につきあわなければならないのだろうか? そんなに、そういった議論は、
- あなた
にとって大事なことだろうか?
ここで、少し視点を変えてみたい。
東洋においては、「道」は、目的のように「最後」の場所が決まっていないが、ある、微分、方向、傾き、のようなものはある、と考えられてきた。
探しながら、向かっていく、ということには、肯定的であるのにも関わらず、その最終の目的の「抽象性」、つまり、その曖昧さについてはそこまで問題にならない(孔子の「仁」もそう)。
よく考えてみてほしい。人は他人の命令に従うだろうか? 従うと考える人はなにをもって従うと言っているのか?
基本的に、人は他人の命令に従わない。従うのは、それが自分の目指す「道」に一定の関係があると思うときで、それ以上に、この「道」にとって大事だと思うことがあれば、平気でそれらを優先する。
こういった考えは、基本として
- 不可知論
- 人間の尊厳
の二つの考えに基づいている。他人を「完全に分かることのできない」存在としながら、他方で、その人のやっていることにはその人なりの「生きる意味」のようなものがあって、そういったものを「尊重」しようとしているのが、現代社会だ、ということになる。
(こういった東洋の「道」の態度が、著しくカントの批判哲学に近いことは言うまでもないが(カントは彼の批判哲学によって、科学と「宗教」の<関係>を「定義」したわけで、それまでの「神一元論」に一定の「制限」を与えたという意味で、東洋の「道」の考えに近いわけである...)、反対に、こういった態度は、
と著しい対立をしている。功利主義の帰結主義は「理性」による「計算」に全てを立脚している。すべては「計算」できる。だから、功利主義は正当化される。なぜ「計算」できるのか? それは、「神」に計算できないものはないからである。計算できるもの、つまり、
- 計算できるもの=真実
とは、科学の皮を被った、キリスト教の代替物なわけであり、
- キリスト教=合理性の運動
というわけであり、もっと言えば、功利主義とはカントを否定して、もう一度
- (ある種のキリスト教的)神一元論
に戻ろうとする運動だと言うことも可能であろう...。)