東浩紀先生の「否定神学」批判と「科学哲学」

正直、私は東浩紀先生のすべての仕事に興味があるわけではない。それは私の関心に関わることを彼がやっているかどうか、ではなくて、彼が

について、最初の著作『存在論的、郵便的』でとりあげたから、これが結局「何」なのかを理解したい、というのが基本的な方向だった。ところが、興味深いことに、彼はこの研究書を出版して以降、これに類するまとまった仕事をほとんどやっていない。なんというか、『動物化するポストモダン』などの、ジャーナリスティックな方に関心を移していったようで、ようするに、ここに

  • 切断

があるわけである。
そういう意味で、私は『動物化するポストモダン』以降の、どこか「電波芸人」的な、話芸に、あまりコミットメントしたくない、という印象が強いわけで、というか、そういった方向からのアプローチは、上記の『存在論的、郵便的』に対する読解には、直接は関係ない、という印象があるわけで、どちらかというと、こっちの方をなんとかしておきたい、という所に力点がある。
(一つ補足をしておくと、東先生の「ポストモダン」についての言及は少なくとも『存在論的、郵便的』では前景化されていない。それはおそらく、この頃までは、彼自身が自らを「哲学研究者」と位置付けていることにも関係しているのだろうが、『存在論的、郵便的』の中心的な問題は、柄谷の「ゲーデル不完全性定理」の解釈なるものによる、デリダの「解釈」(つまり、彼のデリダ分析)が中心となっている。ようするに、この段階では、ボードリヤールが定義した「ポストモダン」の「大きな物語」がどうとか、「価値相対主義」的な主張がどうとかいったことは、そこまで前景化されていない。これらがまさに

的に前景化されるのが、『動物化するポストモダン』からで、これ以降、東先生はまさに「ポストモダニスト」を「演じる」、電波芸人として、マスコミからチヤホヤされる存在となる。そう考えてみると、少し不思議になってこないだろうか? ようするに、『存在論的、郵便的』は何が書いてあるのか?、と。ようするに、ここでは幼稚な「ポストモダン」芸人としての話芸に耽溺するのではない、「何か」が主張されている、ということであり、この「断絶」がまず解決されない限り、彼への批判は部分的なものに留まらざるをえないのではないか、という印象を受けるわけである。)
おおまかな、『存在論的、郵便的』の論理展開を私なりに整理をさせてもらうと:

  1. 柄谷の解釈する「ゲーデル不完全性定理」の問題は、デリダハイデガーにも見出される。
  2. しかし、デリダの「郵便的」の概念は、この柄谷の「ゲーデル不完全性定理」の問題とは違った、もう一つのデリダ独自のブレイクスルーとなる概念である。
  3. 上記の二つの柄谷とデリダの「問題」であり「ブレイクスルー」は、ハイデガーの哲学を含めて、一つの「ゲーデルパラドックス」を「乗り越えて」いる側面にある(単行本の第四章の242ページあたりの議論を指す。このページで《ゲーデル的亀裂を縫合する》という言葉が現れる)。

といった感じになるだろうか。
ここで直接的に問題になるのは、3番目だろう。つまり、なぜこのような主張を東先生はするのか? まず、ここの個所の議論において、「ラカン派のゲーデル問題」の解釈が使われている。つまり、ここまでは「柄谷のゲーデル問題」であったが、ここで、それを当時、ラカン派によって行われていた「ゲーデル問題」の解釈の議論で入れ替えることによって、より精神分析的な積極的な主張を行おうとした、といった特徴がある。次に、これもラカンを端緒として、浅田彰が『構造と力』で主題的に扱った「クラインの壺」の解釈が使われている。ようするに、こういった現代思想の心理学的な「装置」をてんこ盛りに総動員することで、東先生は、ある

  • ブレイクスルー

を達成しようとしていた、と理解することができる。
では、それは何か?

ド・マンがここで「文法」「修辞」と呼ぶものは、明らかにコンスタティブとパフォーマティブの区別に相当している(オースティンの名も言及されている)。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

私たちの考えでは、『探究1』の柄谷もまたまさに同じ方向にクリプキの議論を先鋭化させている。彼はつぎのように記している。「たとえば、私が、ある言葉の『意味』を知っているかどうかは、私がその言葉の用法においてまちがっていないと他者(共同体)にみとめられるか否かにかかっている。もしまちがっているとしたら、他者は笑うか、『違う』というだろう。そのとき、私は『規則に従っていない』とみなされる。しかし、ここで注意すべきことは、そのとき、他者もまた規則を積極的に明示できるわけではないということだ。彼はただ『否』としかいえないのである。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ようするに、東先生というのは、結局のところは単純な人なんだと思っている。つまり、彼のベースにある思考は、

  • 科学哲学

に近いもので、つまりは

の「擁護」といったことが、最も言いたいことだったのではないか、という印象を受けるわけである(そういう意味では、東先生は、戸田山和久先生の『科学的実在論を擁護する』や、植原亮先生の『実在論と知識の自然化』に近い問題意識の方だという印象を受ける)。ようするに、東先生は、柄谷の「ゲーデル問題」やデリダ脱構築は、こういった「科学哲学」が主張しているような、「素朴実在論」の

  • 危機

を象徴していた。そういう意味で、彼らが言っていることは「危険」であった。東先生がやりたかったことは、その「危険」さを、なんとかして救済したい。柄谷やデリダを、「科学哲学」や「素朴実在論」の範囲で理解できるような「説明」を用意しなければならない。そういった「擁護」を行うために、この問題をむしろ、

といった、「心理学」の領域から囲い込むことで、無毒なものにする、といった、どちらかと言うと「護教論」的な問題意識で行われた仕事なのかな、と思うわけである(だからこそ、後にソーカル事件を契機に自らが「ポストモダニスト」として非難されたとき、むしろ自分の方こそが「擁護」を意図して振る舞っていたつもりだったのに、と戸惑ったという関係になっているのではないか)。
そこで上記の二つの引用なのだが、一方はオースティンの言語行為論であり、他方は柄谷の『探究1』のウィトゲンシュタイン解釈だが、両方に共通するのは、いわゆる「理論」とか「形式化」といったものの外にあるような

  • 身体論

の領域を、なんらかの「悟り」のように示しているところになる。つまり、どういうことかというと、上記の3番目の問題が何をやっているのかというと、「ゲーデルパラドックス」が起きるのは、

  • 身体論

を考慮せずに、「閉じた理論」で、つまり言語「体系」で完結させようとしているからだ、という「悟り」っぽい主張になっている、ということなのである。つまり、この「問題」は、あえて「心理学」的に「解決」されなければならない。理論の「外」から、解決される構造になっている、ということが言いたい、というわけである。
ところで以前、石川求という人の『カントと無限判断の世界』という本を、このブログで紹介したのだが、私がこの本を読んで重要だと思ったことは、ここでとりあげられている

  • 無限判断

というカントの『純粋理性批判』にあらわれる論理学の命題が、『存在論的、郵便的』の中心的な問題とされている

と深く関係して議論されていたことに、興味をもったからだった。

デリダが初期からこの広義の「否定神学」への接近を警戒していた理由は、分かりやすい。『声と現象』や『グラマトロジーについて』第一部で示された脱構築は、まだおおむねゲーデル脱構築でしかない。フッサールソシュールの体系に宿る位階秩序を見事に自己矛盾に追い込み、「体系的であること」の非一貫性と不完全性とを導いたそこでの作業は、裏返せば「体系的には決して語ることができないものがある」という主張に限りなく近くなるからだ。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ここに注目してもらいたい。東浩紀先生によれば、「ゲーデル問題」は「否定神学」とほぼ

  • 同値

のこととして扱われている。つまり、これ以降の議論はこの「同一視」を前提にして議論されている、ということを踏まえなければ、なにを言っているのか分からない(というか、そもそも東浩紀先生の「ゲーデル不完全性定理」の説明はなにを言っているのか分からないw むしろ、最初から彼は「否定神学」のことを言っていたのだ、と解釈した方がずっとこの本は読みやすくなる)。
ところで、『存在論的、郵便的』では、めずらしく、柄谷やラカンが「おかしい」「変だ」と、東先生の「主張」が行われているところがある。

七〇年代のデリダと八〇年代の柄谷はともに、ゲーデル脱構築否定神学)への抵抗を、誤配可能性に満ちたコミュニケーションに注目することで組織した。ここには見逃せない並行性がある。そして彼らの思考はまた興味深いことに、その「転回」以降もたえず否定神学へと落ち込んでいることでも共通している。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

例えば彼[柄谷]が九三年に始めた「探究3」には明らかに、超越論性の条件を「主体」の構造、あるいは構造の欠如から位置づける試みへの回帰が読まれる。「カントがいう超越論的主観は超越論的主観ではない。それは超越論的に見いだされる主観である。それは、自己意識あるいは言語的に対象化されるコギトではなく、それを可能にするような条件のことである。超越論的主観は一般的主観ではないし、共同主観性でもない。それはいわば各主観の存在論的基礎(の不在)である」。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ようするに、柄谷もラカンも、この「ゲーデル問題」の「罠」を自覚して、そこからの脱出(柄谷で言えば、『探究1』)を成功させたはずであるのに、なぜ、それ以降も

  • 反復

して、この「ゲーデルの罠」に落ちてしまうのか?、これは理論的「後退」ではないのか?、と非難をしているわけである。
しかし、である。
これはよく考えてみると、無理がないだろうか? というのも、上記で整理したように、東先生はそもそも「理論」ではダメだ、と主張した。つまり

  • 身体論

を介することなしに「真実」と関係することはできない、と。だとするなら、東先生があらゆる議論に「否定神学」を見出すのは当然だ、ということになるだろう。理論的である限り、そこに「否定神学」を見出すのだから、もはや、ジャーナリスティックな形でしか、なにかを語ることはできない。つまり、すべては

の形でしか、擁護できない。ようするに。この「悟り」に到達したくせに、今だに「理論」をやっていること自体が軽蔑に値する、と言っているだけなのだ。
うーん。
おそらく、この本の肝(きも)を一つ挙げるとするなら、ここだと思うんですよね。なぜ、東先生は、ここでこんなに「怒って」いるのか? 他の個所では、たんなる分析の話であったのにも関わらず、ここだけ、二人の先生に

  • ダメ出し

をしているわけであるが、なぜそうなのだろうか? おそらく、それには大きな理由がある。つまり、この問題は決して、見逃すことができない、なにかなわけである。
ところで、ここでは柄谷に絞って考えるわけであるが、上記の東先生の指摘は、そもそも、柄谷自身がある意味で、何度も読者に向けて

  • 断っている

ことでもあるわけである:

それに対して、ハイデッガーがいうのは、そのような区別(タイピング)によって合理的な形式体系を保持しようとすることは、本来的にそうした区別が不可能であるような状態からの逃避だということである。実際に、ハイデッガーは、幾度もそう問いながら、あの「決定的な問い」、すなわち、「......上述の諸対立が存在自体の本質に存するのか、それともそれらはただ存在に対する私たちの分裂した関係からのみ生じるのか、それともあるいは存在に対するこの私たちの関係そのものがやはり存在自体に発源するのであろうか」という問いに、最後まで答えようとはしない。それは答えられないからだ。ハイデッガーにとって大切なのは、むしろけっして答えないことであり、「決定不能性」の状態にとどまることである。その問いに答えてしまうことが、「形而上学」だといってよい。

内省と遡行 (講談社学術文庫)

内省と遡行 (講談社学術文庫)

たとえば、なぜ数学によって自然(人間社会を含む)を解明できるのかという疑問に答えた者はいない。レヴィ=ストロースは、それを自然史の進化によって説明しようとしている。人間の数学的能力は、宇宙の進化の産物であり、したがって、人間が宇宙を解明できるのは、宇宙自身の自己認識であるということになる。そうであれば、宇宙とは神の別名である。だが、このような論法は、カント以前にあったものにすぎない。したがって、重要なのは、右の問いに答えることではなく、むしろその問いの前に立ち止まることである。
柄谷行人「探究3」5・1)

上記を読んでもらえば分かるように、柄谷はある意味で、東先生の言う「否定神学」を、そこまで問題視していない。つまり、まったく話がかみあっていないわけである。この違いはどこから来るのだろう?
これについては、次のように考えればいいのではないか、と思っている。それは、柄谷の「カント評価」に関係している。カントは、「理性の限界」を自らの批判哲学の「前提」に置いた。それは、言ってみれば、人間の「限界」といったことを意味していたわけで、人間は神ではないのだから、やれることには一定の制限がある、ということは言ってみれば

  • 常識

だったわけであり、その「理性の越権行為」を犯した同時代者こそ、フィヒテヘーゲルといった、ドイツ・ロマン派の哲学であった。対して、東先生の関心は、先ほども言ったように、

  • 科学哲学

であり、

だったから、むしろ、科学に「不可能」の文字はない、という主張の方にこそリアリティがあった。科学の生み出す「真実」が、まるで「誤謬」であるかのように語られるようなカントの主張は、科学への侮辱であり、科学の「真実」を否定するものであり、認められなかった。「科学にできないものはない」、なぜなら科学は「真実」に向かって、どこまでもどこまでも、その

  • 普遍的理論

を完成させていくのだから、といったような、素朴な「実在論」を

  • 擁護

するという意味で、柄谷やデリダを「再解釈」し直すことこそが、彼の「役割」といった意識があった。
こういった印象は、上記でも紹介したが、戸田山和久先生の『科学的実在論を擁護する』や、植原亮先生の『実在論と知識の自然化』の二つの科学哲学の本が、ちょうど

  • カント(であり、バークリの)観念論(であり、認識論)

の否定から始まっていることと、まったく、同一の関係にある、と理解できる(そのことは、メイヤスーの『有限性の後で』とも、まったく同型である)。
おそらく、科学哲学の延長にあるような、「素朴実在論」の延長で考えている人たちにとっては、カントというのは、最も、

  • 戦わなければならない敵

に見えているのではないだろうか? それは、ようするに「観念論」が絶対に許せないわけで、「観念論」は

と深く結びついて理解しているから、この関係だけは、絶対に容認できない。よって、カントの「枠組み」が耐えられない、といった形でこういった議論が何度も

  • 反復

されている、という形になっているのであろう。
しかし、である。
この「ねじれ」については、私は上記でも紹介した、石川求という人の『カントと無限判断の世界』という本では、カントの無限判断が、ライプニッツに代表されるような、いわゆる「知性主義」によって、カントの同時代においても批判されていた関係が紹介されている。つまり、そもそもの上記の科学哲学の流れの、素朴実在論の延長からの「カント批判」には、ルーツがあって、同様の批判が反復されている、という印象を受ける。そしてそのことが、ライプニッツの神解釈、つまり、彼の「否定神学」解釈ともからまって、とても似た構造として示されている印象を受けるわけである。

ここで私たちはコーエンを思い出すとよいだろう。彼の "無限判断" 論は、ライプニッツの連続律にたいする大きな評価と切り離せなかった[Co-LRE 9I, PIM 57]。連続律を基盤に、「無(Nichts)」の「冒険的迂回路」[CoLRE 84]をとおって「なにかあるもの(Etwas)を形成するよう試み」[ibid., 88]る、あのコーエン特有の解釈も、私たちにはエーベルハルトによる「反動」のみごとな二の舞とうつる。コーエンにとって、思惟の第一の関心もとはなにか。それは、「思惟が創造できるあらゆる内容の根源を、思惟それ自身のうちに置き入れること」[ibid., 82]であった。無から(ex nihilo)はなにも生じない。

しかし、ひょっとすると無によって(ab nihilo)[無にもとづいて、無を介して]なら[なにかが]生ずるかもしれない。みいだされるべきは無の根拠ではなくて、なにか(Etwas)の根源である。無は[なにかをみいだす]この道にある一つの停留所(Station)を表現しているにすぎない。私たちはすでにこの道の論理的な方向づけを知っている。[ibid., 84]

彼のどこか預言者然とした説明はここでも明瞭さを欠いているが、「無」は奈落のような絶対的虚無あるいは思惟の外にあるような闇ではなく、停まり留まれる実在的な場所として、そこから有へと「道」が連続して通じている「根源」を意味するのであって、コーエンの "無限判断" における「非~」はそのような特別な「無」を象徴しているといいたいのであろう。しかしながら、カントが熟慮しているのは、ほかでもなく、連続律に守られた無から有への「道」や方向づけ」なるものこそが最高度に危うい、ということだったはずである。

カントと無限判断の世界

カントと無限判断の世界

カントと同時代におそらくは満場一致で採用されていた認識論の常套手段で、カントの批判哲学には注意ぶかく採用されなかったものが一つある。それは表象にかんする混濁----混乱または混雑でもよい----した(confusus)ものと判明な(distinctus)ものとの区別、いやただしくは疑似区別である。ライプニッツは感性的表象と知性的表象との異質性ないし異種性を、むしろ混濁 / 判明というこの "区別" によって解消した。ライプニッツはいっている。

[たしかに]混濁した思惟は、私たちの不完全性や情動を、そして私たちが外的事物の集まりや質料に依存していることを物語るのにたいし、魂の完全性、力、支配権、自由そして能動は、主として私たちの判明な思惟にある。しかし、とはいうものの、混濁した思惟は、それじたい判明であるような多くの思惟とは基本的に別物ではないというのがやはりただしい。むしろ混濁した思惟はとても微小なので。、個々には私たちの注意力を刺激することなく、けっして判明にならないのである。私たちの感性には、真にかぎりない数[の判明な知性的思惟]が一度に内包されているとさえいうこともできる。[......]したがって混濁した感性を[知性から]独立した(primitif)何かと、そして[知性によっては]説明不能な何かとみなしてはならない......。[......]なるほど感性的表象をトータルに説明することが、そこに内包されているあまりに膨大な多様性のために私たちの力を超えているにせよ、かといってしだいしだいに感性的経験のなかに分け入って、判明な思惟の基礎をそこに発見できないということはないのである。[L-IV 574-575]

カントにとって現象を物自体とみなす誤ちとは、このように「感性的表象」のただ中に、ぼんやりとではあれ知性的表象の「基礎」がすでにあたえられていると誤認してしまうことをいう。まさに同時代、この誤解をもって、あろうことかカントの『純粋理性批判』を読解し、理性批判はとうにライプニッツによってなされているから、新たな企てなど無用であると論難した人がいた。ヴォルフゆかりのハレ大学で教鞭をとっていたエーベルハルト(Johann Angust Eberhard, 1739-1809)である。フェノメノンとヌーメノンの区別を意図して曖昧にし、前者から後者へと「上昇すること」[K-VII 207/9]さえ可能だと考えるこの人物への反駁書で、カントは次のように書いている。エーベルハルトによれば、実のところフェノメノンすなわち現象には私たちの感性によってはとらえられない部分も含まれている。つまり対象としての現象は、

現象に固有の諸部分である[すなわち現象に含まれる]べき現象の第一根拠を知性が洞察し発見するやいなや、すぐに感性的であることをやめて、対象はもう現象としてではなく、物自体そのものとして認識される。要するに、ヌーメノンとなるのである。ゆえに、フェノメノンいなされた物と、これの根底にあるヌーメノンの表象とのあいだにある違いは、私が遠くからみる人の群れと、私がひとりひとりを数えられるほど近くにいる場合の群れとのあいだにある違いと同じである。ただし彼は主張する。私たちは群れにそんなに近づくことはできないだろうと。しかしながら、この違いは、ことがらにおける違いではなく、ただ私たちの知覚能力の程度における違いにすぎず、ここでの能力は種としてはつねに同一のままにとどまる。[ibid., 208/22-34]

ライプニッツとエーベルハルトは同類である。両者は感性と知性を連続の相のもとに理解する。混濁 / 判明の疑似区別を導入するのはむしろこのためであった。より不完全で注意力の劣った感性が混濁したかたちで表象するフェノメノンを、より完全で注意力の優れた知性は判明にヌーメノンとして認識できる。ここでいう感性が知性と「種としては同一のまま」であるように、対象としてのフェノメノンは潜在的にはヌーメノンなのである。これがカントの指弾する「現象の知性化」にほかならない。感性を知性化する誤謬。これはしかし知性の横暴を許すことではない。逆である。感性が受け取る現象に、ここから物自体へといたる通路----ライプニッツでは「基礎」、エーベルハルトでは「第一根拠」と呼ばれる----を認めることは、まさに感性の僭越を容認することである。あやまちは、悟性が感性に介入することによってではなく、「感性が悟性にたいして隠微に影響をおよぼすことによって」[K-A 294/B 350=335/6-7]生じる。感性を知性からは「独立した」ものと、カントの言葉では「特別な源泉」[K-B 326=317/17-18]と、みなすことはなかったライプニッツのいわゆる知性主義は、逆説的に響くかもしれないが、感性にこそ甘いのである。現象を物自体とみなす誤謬の本元は知性ではなくて、その甘やかされた感性にある。
カントと無限判断の世界

こうやって見ると興味深いわけで、コーヘン、ライプニッツ、エーベルハルトがカントの「無限判断」を

  • 誤解

する形で、まったく違った「無限判断」の解釈を行い、そしてそれがライプニッツ流の「知性主義」であり、今の科学哲学における素朴実在論に繋がるような、

  • 全能の(神の真実に未来に向かって繋がっている)科学

といったイメージと同調しているというのが分かるのではないか。
カントの「無限判断」解釈を斥けた結果、まさにライプニッツが言うように、モナドは「裏側」で、その閉じた窓は繋がってなければならない、といった結果になる。つまり、「神の視線」によって、その絶望的なまでの「壁」を超える(連続律)。つまり、現象は物自体に「到達」する(これは、科学哲学の素朴実在論者が「物自体」を毛嫌いしていることともシンクロする)。ここで大事なことは、ライプニッツにとって、この絶望的な壁の「超越」は、神の「予定調和」がもたらしている、と言ってもいい関係になっていて、この世界の神の「合理的」な差配が、

  • なぜ科学が「成功」するのか?

を説明する形になっている。
しかし、である。石川求という人の『カントと無限判断の世界』で何度も断られているように、カントの言う「無限判断」はそういったものではない。もっと単純に「理性の越権行為」を禁止する、というルールに関係しているわけで、とても

  • 常識的

なことを言っているに過ぎない、ということが重要なポイントなわけであろう。
つまり、どういうことになるのだろう?
私がこの事情について、少し理解できたかな、と思ったのは、エリオット・ソーバーという人の『進化論の射程』という本を読んだときだったかもしれない。この本のおもしろいところは、例えば、進化論における

  • 適応主義

を、たんに反証可能性のルールに厳密に照らして「誤謬」で済ましてしまうのではなく、

  • リサーチプログラム

として、非常に長いスパンで、その是非が問われていくような「指標」のようなものとして、その機能を「肯定」している、というところにあったのではないだろうか。
ようするに、科学とはどこか「狂気」の運動の性格をもっている。それは「実験」という「実践」に私たちを突き動かす、といった性質をもっていて、たとえその「実践」が非合理で、どこか狂気を帯びたように周りからは見えたとしても、その実験の「結果」は、たとえそうであっても

  • 合理的

に解釈されていかなければならない、という性格を帯びているからなのだ。このことはまさに「プラグマティズム」のことを言っているわけで、そういう意味で科学は「前進」し続けるわけだが、ただし、そのこととカントが言うような意味での

  • 厳密な(概念的な)区分

に対して、カントを嘲笑して行われてきた、その「超越」の議論とは厳密に分けなければならないわけである...。
(最後は余談であるが、東先生はツイッターで昔、以下のようにつぶやいている:

いずれにせよ、ぼくは(当日も議論ではなかったと記憶していますが)ソーカルは基本正しくて、ただ、あのとき言ったのは、(1) たとえば、ラカンは完璧アウトだけど、ドゥルーズは中ぐらいで、デリダはちょっととばっちりじゃなかろうかとか、そういう細かい差異はあるのはあるのだということと。
@hazuma 2010-08-10 13:39:55
菊地誠と東浩紀とソーカルと - Togetter

(2) ひとには比喩を使う権利はあるし、(ここ大事ですが)そもそも大陸系の哲学の一部はとうの昔に科学ではなく文学になっているのだから、比喩を比喩として使っている人間をあまり暴力的に断罪するのもいかがなものか、という2点につきています。
@hazuma 2010-08-10 13:41:43
菊地誠と東浩紀とソーカルと - Togetter

たとえばフランスだとわかりにくいのでドイツの例で行くと、フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味があるけど、ハイデガーの誤謬は衝いても意味がない。あれはカルナップが同時代に正確に指摘したように科学よりも詩に近い言語だからです。
@hazuma 2010-08-10 13:43:17
菊地誠と東浩紀とソーカルと - Togetter

そしてラカンはそもそもが、「フロイトハイデガー的解釈」のひと、つまり「科学言語の詩的再構成」をやっているひとなのであり(そんな彼が精神分析という「科学」を標榜していたことは責められるべきでしょうが)、したがってあまり彼の科学的誤謬を衝いても意味がないのです。
@hazuma 2010-08-10 13:45:11
菊地誠と東浩紀とソーカルと - Togetter

ようするにどういうことかというと、このように言うことで、自らの『存在論的、郵便的』における、ゲーデル不完全性定理などの

  • 科学用語の乱用

つまり、それらを「比喩」として使ったことの弁護をしているわけであるw そもそもの対象である、ハイデガーは「詩的」にしかアプローチができないのだから、このように「科学用語」を比喩として「詩的」に使ってアプローチすることは「しょうがない」。そうである限り、この本でのハイデガー論も一つの「詩論」として読まれなければならない。だから真面目にこれを「科学」的に批判されても困る、と。
まあ、そんな感じでソーカルが批判した「科学用語の乱用」の典型的な例になっているわけだがw 私などの視点から言わせてもらうなら、だったらそれならそれで、ちゃんと

  • 断れば

いいんじゃないのか?、と思ってしまうんですよね。なんでこんな「まぎらわしい」ことをだったらやるの?、って。まあ、ラカン派の「ゲーデル不完全性定理」がたんなる「比喩」であることは、だれでも分かるでしょう。対して、柄谷の「ゲーデル不完全性定理」への言及を、そういった「比喩」で済ませていいのだろうか? 確かにそういった社会現象に適用したような使い方を最初から意図していたエッセイも当時から多くあったとは思うが、そもそも柄谷は、あくまでそれを数学の命題として紹介するところから、議論を始めていたことは確かなわけであろう。しかも、この命題の適用範囲は

といった程度の制限しかなく(もちろん、自然言語ではなく、制限された形式言語ではあるが)、そう考えれば、この命題は人文系の学問だろうと

  • 逃れられない

といった含意があったわけで、むしろそうだからこそ、なんらかの「学問の危機」と戦っている、という形で、この本の「価値」を主張していた、と言いたいって訳なのだろうから...。)