小坂井敏晶『神の亡霊』

科学にはある欺瞞がある。それは「普遍性」とでも呼ばれる性質に関係していて、もっと言えば「真実」のことだ。科学はこの「真実」に

  • 関係している

と考えられている。
しかし問題は、実際に科学が「真実」に関係あるのかないのか、にあるわけではない。これが「ある」と考えるのが、ヘーゲル哲学だと言ってもいいし、概ね、現代哲学はこの延長にあると言ってもいいが、ここで問題にしているのはそういうことではない。科学が「真実」であると言うとき、それが

  • 言語

で書かれる、ということはなにを意味しているのか、が不分明なのだ。つまり、問題は科学が真実かどうかにあるのではなく、科学が「言語」で書かれるということが何を意味しているのか、の方にある。
私がここで、科学には「欺瞞」があると言うとき、私はこれを「私が発見した」という意味で使っているわけではない。そうではなく、そもそも現代における科学とは

であり、

  • カント

が「定義」したものを言っているのであって、そして現代の人々は自分が「科学」と呼んでいるものが、あくまでも

  • カントが定義した意味

でそう呼んでいると思いもしていないし、その場合に、カントがあえて科学を定義したときに、さまざまな細かな

  • 隠蔽

を行い、その「おかげ」で現代の人々が自分が科学という言葉を使うときに、そういった隠蔽の問題にかかずらうことを避けられている、ということを意識していない。つまり、私はデカルトやカントが、その当時に黎明期に入っていた、近代科学を

  • 安全なもの

にするために、さまざまにめぐらした「テクニカルな隠蔽工作」を見事なまでに意識せずにいられている、という意味において、

  • 現代の私たちが科学の「隠蔽」を意識せずにすんでいるのは、カントが後世の人たちが、科学に対して「自明」性を高めることで余計な「煩悶」に陥ることを免れるようにするために、この構造を「シンプル」に擬制したから

まあ、もっと直截に言ってしまえば、カントによって現代人は騙されているから、科学を「シンプル」に扱えている、と言いたいわけである。
しかし、いったんそのカントの「隠蔽」が完成してしまうと、今度は、人々は科学を「真実」と同一視するようになり、科学を「神の代わり」となりうる存在として、一つの形而上学を夢想するようになる。
カントにとって、こういった「擬制」は、彼の意図した「科学の発展」にとっては、人々を「シンプル」に突き動かすという意味で、大きな意味があると考えられたが、ひとたびこのプロジェクトが成功「しすぎる」と、人々はいわば「カント教」「科学教」に入信した信者のように、今度は科学を

として、あがめ始める。人間とは「遺伝子」のことであり、その遺伝子の「情報」のことであり、つまり、この「情報」の「優劣」によって、人間の「優劣」が決定する。それは、神である科学が真実の下に、決定していることで、つまり

  • 生得的

に決定していることで、よって、人間をこの「優劣」で差別的に扱うことは正当化される。劣った人間の「人権」は、優れた人間の「人権」に劣る。よって、劣った人間を、優れた人間のために犠牲にすることは正当化される。優れた人間は、劣った人間を殺してもいい、というわけである。
すでに、人間は生まれる前から、「遺伝子」によって、その優劣が決定されているのだから、進学する学校も、「遺伝子」によって振り分けられる。一切の、進学テストは廃止され、すべては遺伝子の情報で、

  • 優れた子どもの行く学校

  • 劣った子どもの行く学校

に分けられる。それだけではない。大人になって働き始めても、私は「本質」において、遺伝子によって、「優劣」が決定されている。初任給に始まって、生涯賃金、退職金と、私たちは、その会社に働き始める前から、遺伝子の能力によって、

  • 決定

される。優れた遺伝子のサラリーマンはより多くの給料をもらい、劣った遺伝子のサラリーマンはより少ない給料をもらう。
まず、「民主主義」は廃止される。より正確に言うなら、民主主義は

  • 重み付け民主主義

に代替される。一票は平等ではなくなる。各一票は、その「遺伝子」の優劣によって、それぞれの価値に「重み」が付けられる。そこで必然的に起きるのが、

  • 遺伝子差別

である。言うまでもなく、この社会では遺伝子差別は「憲法違反ではない」。なぜなら、憲法には人権より上位の法として、「遺伝子による重み付け」が正当化されているから、あくまで人権は、この「重み付け」のグラデーションの中でしか機能しない。遺伝子差別は、むしろ「憲法における人権よりも上位の最高価値」として機能するわけで、この「差別」は「やっていい」というわけである。
例えば、江戸時代には、武士階級による「切り捨て御免」が許されていた、と言われている(実際には、そんなに単純な話ではなかったようですが)。武士は気にいらない庶民を、好きなだけ殺していい。それは、武士は庶民に比べて「優れた遺伝子」だから、この「差別」は正当化される、というわけである。
科学は神である。その科学が「遺伝子」という「情報」を「真実」としてもたらしたわけであり、ということはつまり、この「真実」における、人間の優劣の差異は

  • 神が、人間をそのように<差別>的に扱え

と命令している、ということを意味する。神は人間に、「遺伝子」の「情報」にもとづいて、人間を差別的に扱え、と求めているのであり、だから、「遺伝子」の「情報」という「真実」を科学は発見したのだ、というカラクリになる。

<私>はどこにもない。不断の自己同一化によっれ今ここに生み出される現象、これが私の正体だ。比喩的にこう言えるだろう。プロジェクタが像をスクリーンに投影する。プロジェクタは脳だ。脳が像を投影する場所は、自らの身体や集団あるいは外部の存在と、状況に応じて変化する。ひいきの野球チームを応援したり、オリンピックで日本選手が活躍する姿に心踊らせる。あるいは勤務する会社のために睡眠時間を削り、努力する。我が子の幸せのために、喜んで親が自己を犠牲にする。これら対象にそのつど投影が起こり、そこに私が現れる。私は脳でもなければ、像が投影される場所でもない。私はどこにもいない。私とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスである。
三人称の死は他人事であり、一人称の死は疑似問題にすぎない。だが、愛する人や家族の死は違う。これが二人称の死であり、人間にとって死の本質がそこにある。

一見すると、「<私>」は私たち人間にとって本質的なように思われる。しかし、本当にそうなのだろうか? それを問うているのが上記の引用個所である。
よく考えてみてほしい。
私たちが日々生きている時点において、私たちが行っていることとは、その時々の、「<あなた>」と話しかける(ここは実際に話しかけたかが問題ではなく、なんらかの相手へのアクションを行おうとしたかどうかが問われている)行為と、その行為によって応答される相手の反応に対して、また

  • 「<あなた>」と話しかける

この「行為」に尽きている、ということを。つまり、人間が実践的に日々を生きるということは、この「二人称」の関係のことを言っているのであって、ようするに

  • 二人称が本質的

なのである!

気が向いた時だけ可愛がるが、毎日のエサや糞尿の始末は召使いに任せる金持ちを考えよう。当人は犬を好きなつもりでも、犬が死んだ時、それほどの感傷を抱かないだろう。自分の子を家庭教師と執事に任せ、月に一度しか子と会話を交わさない富豪は、子どもが死亡した時に慟哭するだろうか。

親子の親近感は生物学的繋がりから生まれるのではない。一緒に育った記憶、そして家族概念・規範など社会的要素に起因する。産院で取り違える。血液型や皮膚色の違いなど誤りが明らかでない限り、両親も子どももその事実を知らずに一生を終える。それぞれの子どもは「養父」と「養母」の愛を受けて育つことだろう。

ここは非常に重要なことを言っている。私たちが毎日の生きる実践において、深く感情を揺さぶられたり、慟哭したりすることは、常に、「<あなた>」と呼びかける関係において起きているのであって、実際に

  • 遺伝子

がどうのこうのはまったく

  • 関係ない

のだ! それは「科学主義」とか「物質主義」とか「物理主義」とか「自然主義」と呼ばれるものであるわけだが、結局のところ、こういった「形而上学」は、あくまでも、カントが敷いたレールの上で仮構された

  • 科学主義

が導いているにすぎない、一つの物語なわけである。
上記の引用において、最初は「二人称」を「愛する人」「家族」をその例として記述しているが。最後の二つの引用は、こういった「遺伝子主義」は、二人称の本質ではない、と示唆している。
しかし、そのことはある意味において、「遺伝子主義」によっても担保される、と私は解釈している。例えば、ある、長い年月をかけて、「近親交配」を繰り返してきた村人を考えてみてほしい。この村の人たち一人一人に、言うまでもなく、親がいて、おじいちゃんがいて、という形で、「遺伝子」の「ツリー」があるというわけだが、素朴に考えてみたとき、果して

  • この村人の間の遺伝子の差異

  • この村人の「外」の人との遺伝子の差異

を考えたとき、果して、この村人の間の遺伝子の差異といったものは、相対的にどれほどの「大きな違い」だと言うのだろう? つまり、この村の人々全員が一つの「家族」だと、外の人から考えて、解釈しても問題ないくらいに、この村人同士は「似ている」ということが起きうるのではないか?
同じようなことは、もっと大きな単位においても、それぞれのレベルで考えられるだろう。
私はそういう意味で、現代における「家族(まあ、核家族)」とは、「科学主義」すなわち、「遺伝子主義」の別名だと考えているわけで、本質的に、それを唱導している連中の意図を疑っているわけだが、それは上記のような文脈を意識して、ということになる。
最後に少し、上記の文脈とは関係ない話を書いておきたい。
現代日本のアニメの隆盛は、手塚治虫に始まり、一種の

  • 反子ども向け

の作品郡の成功にこそ、その本質がある、と思われる。それは、今だに、ハリウッド、例えば、ディズニーアニメが、あくまでも「子ども向け」に特化して作られ続けていることが象徴しているわけだが、反転して、そのことと日本のアニメにおける

  • 幼児ボルノ的側面

への寛容な態度が深く結びついていることは間違いないだろう。
例えば、現在、アマゾン・プライムで、アニメ「花咲くいろは」が見れるわけだが、この作品こそ、脚本家、岡田麿里の最高傑作だと言っていいだろう。
主人公の高校生の松前緒花は、母が、母の恋人と夜逃げをするのを契機に、母と一切の「つきあい」を断絶していた、祖母が女将として経営する田舎の旅館で、住み込みのバイトという扱いで、その旅館で働きながら学校に通うことになる。
主人公の、松前緒花(まつまえおはな)は、当然この「いきさつ」のため、働くことを理不尽と考えていたわけだが、さまざまな経験をするごとに、次第に旅館で働くことに、彼女なりのアイデンティティをもつようになり、それに誇りをもって生きるようになる。
例えば、アニメ「ペンギン・ハイウェイ」は、まだ、小学校5年生が主人公の物語だったため、監督はこれを「子ども向けアニメ」として作成せざるをえない、という制約を意識していた(そういう意味で、このアニメは、基本的に、ディズニーアニメの多くがそうである、いわゆる「子ども向け」のカテゴリーに分類される)。
それに対して、アニメ「花咲くいろは」は、明らかに「子ども向け」ではない。ここには、基本的に

  • 人間ドラマ

を描こう、という作成者側の意図が窺える。なぜその旅館で働くのか、なぜそう生きるのか。大人とは常に、そういった命題に葛藤しながら日々を生きている存在なのであって、そういった問題は、絶対に上記で示唆したような

  • 二人称

の関係の中からしか生まれない。ようするに、一人称と三人称は

  • 科学

が生み出した「客観」とか「普遍」という「擬制」なのであって、人間の本質はあくまでも「二人称」という日々の「実践」にしかない、と言いたいわけである...。

神の亡霊: 近代という物語

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