「自由」とは何か?

そもそも自由とは、奴隷が足に鉄鎖を付けて、逃げられなくさせられている、といった状況が象徴しているように、「何か(の拘束)からの自由」を意味していた。ようするにそれは、本来の有り様を「外部」から制限している、という事実を端的に言っていたものに過ぎず、そこに観念的な意味はなかった。
ところが近代になると、この「自由」という言葉は、

  • 主体

とか

  • 主観

と関係したものと考えられることで、非常に重要な概念に変貌する。もしも私が「自由」でないということは、私を「縛って」いる誰かが、どこかにいる、ということになる。よって、その「縛っている」人には、その人を「縛っている」ことに対する

  • 責任

が発生する。その拘束行為は正当化できるのか? できないということは、法律違反を意味するわけで、罪を裁かれなければならないし、その人をその「縛って」いる状態から解放しなければならない、ということになる。
しかし、このことはある意味で革命的な主張ではある。
というのは、この議論を全て「反転」させてみれば分かる。あなたが「罪を問われる」ということは、あなたは「自由」でなければならない、ということを意味するからだ。なぜなら、自由でなければ、それは「あなたの責任ではなく、あなたを縛った人の責任かもしれない」ということを意味するのだから。私たちは、それぞれの人の責任を追及するためには、その人が

  • 自由

であってくれなければ困る、というわけである。
さて。ここまで議論をしてきて、今さらながら、これをひっくり返すようなことを話そうと思う。と言っても、これは昔からある古典的な議論なわけで、つまりは

  • 自由は存在しない

というわけである。この世界は物理法則で「決定」されていて、ある状態が一秒後にどうなるかは、その物理法則によって、決まっている。つまり、私たちが感じている「自由」というものは、端的に嘘だ、ということになる。
しかし、こんなふうに言って、納得する人はほとんどいないだろう。じゃあ、なぜ世界の法律は、人々の自由を前提にして、刑法などによって罰則が行われているのか? 理不尽じゃないか、と言うわけである。おそらく、功利主義者なら、こう言うだろう。理不尽だ、と。法律が間違っている、と。人間は誰でも無罪。なぜなら、その犯罪を犯した人を、そのように強いた、過去からのコンテクストがあるのだから、そうである限り、一切の罪を問うことはできない、と。よって、功利主義者は、

  • 悪人を含めた「最大多数の最大幸福」

を目指す、とする。彼ら功利主義者は、そういう意味で、悪人とケンカをしない。まあ、犯罪被害者には嫌われるのかもしれないがw
まあ、そうは言っても、認知神経学方面から、そういった証拠らしきことを言われることがある。
私たちがなにかを選択しているときには、実は私たちは「そう選択した」後から、「私はそう選択したのだ」と心を「捏造」している、と。つまり、常に選択より「行動」が先であって、私たちがなにかを「選択」していると考えるのは

  • 幻想

なんだ、と。
しかし、である。よく考えてみると、これは「パラドックス」なのだろうか?

大澤真幸『生きるための自由論』(河出書房選書、二〇一〇年、四三頁)は別の解決を提案する。

野球では、党首がボールをリリースしてから、そのボールが打者のところに到着するまで、〇・五秒程度の時間しかかからない。打者は、たとえば「シュートだとわかったので、腕をうまくたたんで、はじき返した」等と報告するが、意識的な自覚に関していえば、はじき返した後にシュートだったと気づいていたはずだ。しかし、身体は、シュートであることを即座に検出して、適切に反応しているのだから、この説明は、まったくの虚偽ではない。というより、意識は、実際に起きたことを、事後的に報告していると解すべきではないか。このとき、この打者は、自由な行為、自由意志の発動と見なすことはできないだろうか。

神の亡霊: 近代という物語

神の亡霊: 近代という物語

ここは少し、おもしろいことを言っているわけで、ようするに私たちの判断には、意識運動と無意識運動の二つがある、と言っている。ボールを打つときはそれを、無意識運動のレベルでやらざるをえないが、そこにおいては、その「判断」に

  • 意識運動

は関与していない。しかし、

  • 事後

において、私たちはそれを「意識運動」だったと捏造しないでは生きていられない。
こんなふうに言うと、「やっぱり自由なんて存在しないじゃないか」と思われるかもしれない。しかし、私はまったく逆のことを考えさせられる。それは、こんなふうに考えてみればいい。
カントは、実践理性批判において、人間の道徳は「定言命法」の形になっている、と考えた。ようするに、「禁止命題」の羅列である。これは一見すると(功利主義者がそう言っているように)不合理のように思われる。なぜなら、人間が

  • 自由

に選択するのなら、その合理性を計算しなければならないはずで、なぜそんな「直観」に従って行動しなければならないのか、と。それでは、「自由」ではない、と言っているのと変わらない。もしも人間が「合理的」に判断し生きるのなら、そんな「直観」命題に反射的に従って生きることが、合理的であるはずがないわけで、矛盾だ、と。
しかし、そうだろうか?
むしろ、人間のこと「行動」という側面においては、あらゆる行動は

  • 反射

なのではないか? 反射以外で、人間がそもそも行動なんてできるのか? よく考えてみてほしい。あらゆる人間の行動は、上記の引用における、バッターがバットを振る行為となにも変わらない。人間がなにかを行う、体を動かしているということは、バッターが来た球に向かってバットを振る行為と完全に同型なわけで、それらを分ける、なんの合理的な理由もない。
じゃあ、私たちが普段考える「自由」とはなんなのか? それは、そのバットを振る行為が、まさにカントの言う「定言命法」によって、一定の

  • 制限

の範囲で行われている、ということを意味する。つまり、この制限の範囲で、この誤差の中で、私たちのこのバットを振るという行為は、

  • ランダム

に行われている。じゃあ、なぜこの「誤差」の中に収まるのか? それは、まさにカントの言う「定言命法」が一定の

  • 条件文

のような形になっていて、「こういった場合は、こうする」とか、「ああいった場合は、こうする」といった形で、多くの制限を、

  • 普段生きている日常

から意識しているから、その起きた場面によって、その中の

  • どれか

より、今の状況に適合的な「ルール」がより強力に発動して、わざわざ「それ」を意識しなくても、反応してしまう、という形になっている。
しかしこれは、そんなに「自由」な選択と違っていることだろうか?