二重過程理論は「真実」なのか?

これから書くことは、私には少し憂鬱だ。それは、ようするに、

  • 文系

を批判する、ということを意味しているからだ。文系と理系はなにが違うのだろう? それは一言で少し誇張して言ってしまえば、文系は

  • 証明を読まない

で、理系は

  • 証明しか読まないw

となるだろうか。ようするに、理系は「なぜそう主張するのか」の理由を、その本の中から探そうとするのに対して、文系は「なぜそう主張するのか」を<心理学的トラウマ>で説明しておけば、

  • 相手が納得する

という「成功体験」をあまりにしすぎたために、<特別な自分>をかっこつけることばかりに目が行ってて、そんなものが本の中に書いてあるわけがねえじゃねえか、とべらんめえで大見得を切っとけば、「かっこいいオレ、決まったぜ」と、だれもがほれぼれしてくれる、ってなファンタジーの中を生きている人たちで、そもそも、大抵のことには

  • 普通

の「理由」がある、ということがよく分かっていないんじゃないだろうか。
私が批判したい本は以下なのだが、この本が何を主張しているのかは、以下の引用の個所に<全て>が言い尽されている。

進化的観点からみれば、人間もほかの生物固体と同じように、自身の複製にしか興味がない利己的な遺伝子を運ぶ乗り物にすぎない。動物行動学者のリチャード・ドーキンスがいう意味で、人間も虫や犬や猫と同じようにロボットである。「私たちは、遺伝子という名の利己的な分子をやみくもに保存するべくプログラムされたロボットの乗り物----生存機械なのだ」。この意味において、人間がロボットであるかそうでないかということは問題ではない。どのようなロボットであるかだけが問題である。
では、どのようなロボットなのか。認知心理学者キース・E・スタノヴィッチは、人間はロングリーシュ型のロボットだと説明する。リーシュとは引き綱を指す。長い引き綱によって操縦されるロボットという意味だ。引き綱を握るのはもちろん遺伝子である。

ようするに、この本は

  • ドーキンスの「利己的な遺伝子」は「真理」である(少なくとも、科学的に正しいと扱っていい「仮説」である)。
  • スタノヴィッチの「二重過程説」は「真理」である(少なくとも、科学的に正しいと扱っていい「仮説」である)。

と、

  • なんの説明もなく

語り始める本なのである。いや。この著者だけではない、社会学者の大澤真幸さんも、ほとんど同じようなことを言っている。

大澤 (中略)しかし、進化論に即して原理的に考えれば、究極的には、すべての適応は、遺伝子レベルの適応に還元できなくてはならない。つまり、いわば、一神教であす。遺伝子はたくさんありますから、それらのあいだの均衡はありますが、遺伝子にとっての適応の他に、他の何かにとっての別の適応というわけにはいかない。
人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

そもそも、上記の引用にあるような「考えれば」って、なにを言っているんだろう? なにかの文系の「ポエム」を言っているんだろうか? そもそも、ここで主張していること、まあ、「利己的な遺伝子」説もそうだけど、完全な

  • 還元主義

ですよね? 文系の方は、それでいいんですか? 還元主義が「真実」でいいんですか?
ちょっと、話が脇道にそれたけど、上記の著者が基本的に「参照」している人は誰なのか、つまり「ネタ元」はどこにあるのか、となるのですが:

こうした新しい人間本性論にもとづいた人間論、社会論を早くから展開し孤軍奮闘しているのが作家の橘玲である。
人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

いいんだが、この作家の方も「文系」ですよねw いいんですか、そんなことで? 文系同士で、よく分からない「ポエム」を読み合って、お互いでお互いの「美文」を褒めあってって、それでいいんですか?
私が、いわゆる「進化論」というより

  • 適応主義

について、カルチャー・ショックを受けたのは、その批判として書かれた

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

  • 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松本俊吉,網谷祐一,森元良太
  • 出版社/メーカー: 春秋社
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を読んだときであり、その繋がりで、この本の翻訳者である科学哲学者の方の本の紹介で、ドーキンスの「利己的な遺伝子」仮説の批判については、

進化という謎 (現代哲学への招待Japanese Philosophers)

進化という謎 (現代哲学への招待Japanese Philosophers)

という本の紹介を、以前に、このブログで書いたことがあるので、そちらについては、ここでは省略する。
ただ、一つだけ言っておくと、エリオット・ソーバーが書いていることは、ようするに、

  • 「適応主義」が正しいことを証明するためには、何が言えなければならないのか?

ということであり、ようするにこれは

の深い理解を無視しては、まったく考えることは不可能だ、ということなのだ。何かが「正しい」と言うなら、それが正しいためには、なにが証明されなければならないかを、すぐに思考し始められなければ、それは考えていることにならない。というか、それが「理系」なのであって、そうでなければ、まず、科学の一歩すら踏み出したことにならないわけである。
ということで、スタノヴィッチの「二重過程説」なのであるが、そもそも、『モラル・トライブス』のグリーンが以下のように言っている:

"二重過程理論" は判断や意思決定についての理論のなかでも支配的なものとなっていますが、この理論を批判する人もいます。一部の人々、特に神経科学を研究している人は、二重過程理論はあまりにも単純化され過ぎていると考えています。脳について研究している批判者たちは、脳とは複雑であることを認識しています。脳の活動とは動態的で相互作用的であると認識しているので、意思決定や判断の回路が二つだけしかない訳がない、だから二重過程理論は間違っているのだと主張します。しかし、私からすれば、説明の仕方や特異性のレベルが違うだけであるように思えます。二重過程理論の基本的な考え...判断や意思決定をする際には自動的な過程と調整の必要な過程の二つがそれぞれ別個の役割を果たす、という考えそのものを再検討する必要を感じさせるほどの証拠には、まだ私は出会ったことがありません。
道徳に関する意思決定と感情の関係について、心理学者兼哲学者のジョシュア・グリーンへのインタビュー - 道徳的動物日記

しかし、ここでグリーン自身が

  • 二重過程理論には神経科学の研究者による「批判」がある

と言っていることは重要である。確かに、上記の引用の後半では、自分はその主張を止めなければならないとまでは思ったことはない、という信仰告白をしているわけだが、むしろ、そこで付されている「条件」は、正直何が言いたいのか分からない。
例えば、以下のホームページの日記を見ると、この「二重過程理論」と「反応速度」との関係を、さまざまに実験をした論文についての紹介が載っている:

意思決定プロセスの研究は、二重過程説の観点に立ち[直観的・自動的過程と熟慮的過程、Type IとTypeIIってやつですね]、ある行動はどっちの過程の結果か、と問う。それを区別する手段のひとつが反応時間(RT)の検討である。直観的過程は熟慮的過程より速かろうという理屈である。
読書日記: 読了:Krajbich et al.(2015) 直観的判断は速く熟慮的判断は遅いと考えられているが、では速い判断は直観的で遅い判断は熟慮的だといえるか

要約しよう。ある行動が二重過程理論でいう直観的コンポーネントによって支配されているかどうかを推論する際に、決定タイミングを根拠とするのは問題がある。選択タイプによるRTのちがいは、背後にある過程のちがいのせいではなくて、選好強度や弁別性のちがいのせいかもしれない。意思決定のモデルを比較しようとするみなさん、反応時間データはもっと注意して扱いなさい。
読書日記: 読了:Krajbich et al.(2015) 直観的判断は速く熟慮的判断は遅いと考えられているが、では速い判断は直観的で遅い判断は熟慮的だといえるか

えっと。二重過程理論が「正しい」とするなら、その二つは何で分けられるのか、という話になるわけで、当然、その第一の候補は「反応速度」になるだろう。というか、反応速度で分けられなかったら、この区別の「実証」って、なにをやってるのか自体がよく分かんなくなってきませんかね?
いや。いいんです。信じたい人は信仰みたいなものですから、いつまでも信仰してくださって結構なんですけれど、結局

  • 現象

として分けられないのであれば、この「仮説」は一体なんなんですかね? 科学なんでしょうか?
(まあ、私の印象としては、二重過程理論もまた、一種の「還元主義」に思えますけど...。)