千葉雅也先生によるある「隠蔽」

メイヤスーの言う「充足理由律」を反転させた、その否定が、なぜ

  • (彼の理論にとって)必要なのか?

という問いは、非常に鋭いところを突いている、と私には思われる。それは、そもそも『有限性の後で』の翻訳者の千葉さん自身が以下のように述べているからだ。

メイヤスーは、「神の不在」と題された博士論文をいまもなお改稿し続けており、それは今後著作化が予定されれいる。そこでは、絶対的偶然性の議論と結びついた形で、「全人類の復活」という途方もない主題が論じられる。
(千葉雅也「序文 メイヤスーの方法」)

亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

  • 作者: カンタン・メイヤスー,千葉雅也,(序)千葉雅也,岡嶋隆佑,熊谷謙介,黒木萬代,神保夏子
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2018/06/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「神の不在」プロジェクトの練り上げこそが、実はメイヤスー本来の仕事である。メイヤスーのあらゆるテクストは「神の不在」の内部で読まれるべきなのか、それとも、独立に読めるものは独立に評価してよいのだろうか?......どのような読みを採るかは、読者に任されている。
(千葉雅也「序文 メイヤスーの方法」)
亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

メイヤスーはそもそも博士論文で来たるべき神の話をしていたのですが、そこには触れずに『有限性の後で』を第一作として出版しています。つまり、来たるべき神による全人類の復活が、仕事の核心としてあるんですね。しかし私は、復活の話抜きのメイヤスーを日本に紹介することをやってきました。
(千葉雅也「絶滅と共に哲学は可能か」)

思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集

思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集

これは、よく考えてみると「驚くべき」ことである。『有限性の後で』は、最後に訳者による長い解説が付されていて、それによって本文が

  • まとめ

られている、という構成になっている。ところが、読者は「訳者の<野望>」によって、あえて、メイヤスーの博士論文からの「目的」である

  • 神学

の問題を、無視して、紹介されていた、というのである。
これは、一種の「デマ」なのではないか?
日本のメイヤスー理解は、翻訳者による「ミスリーディング」によって、歪な形態になってしまった。なぜメイヤスーの「相関主義」が、意味不明なのか、なぜメイヤスーによる、ライプニッツの充足理由律を反転させた、その否定がメイヤスーにとって、そこまでして主張されなければならない命題だったのか、これらは全て彼の

  • 神学

に関係していた、ということが分かってしまえば、ずいぶんとこの見通しは分かりやすくなる。ようするに、翻訳者たちによる、ある「隠蔽」が日本におけるメイヤスー理解を、ある方向に意図的に曲げられた。つまり、「デマ」によって。
さて。メイヤスーの言う「相関主義」批判は、私の整理では、ポストモダンの「文化相対主義」に対しては、完全に正しいと思われるが、彼がその「起源」として仮想敵としている

  • カント

であり

  • バークリ

に対しては、一定の留保条件付きで、「言い過ぎている」と思っている。そのことが、なぜメイヤスーの「思弁的唯物論」が、現在においてさえ、まったく、世界中の哲学者の一大関心事となっていないのか、つまり、多くの哲学者が彼の議論に興味を示していないのか、彼の議論を無視しているのかの、大きな理由になっている、と考えている。
メイヤスーの言う「相関主義」の問題を考えるときに、彼が仮想敵にした

  • カント

であり、

  • バークリ

でありの、いわゆる「観念論」批判については、そもそも、

といったように、いわゆる「(科学的)実在論」の「擁護」という文脈において、まったく「同様」に仮想敵として、まず最初に「たたきつぶす」相手として扱われていたことが、私には、まったくの「相同」のものとして、興味深く思われた。
なぜ、ここまでの「同じ」振る舞いが、この三つの本では、繰り返されたのだろう? それは、言うまでもなく、

ということに関係している。つまり、なによりも、この三人にとって、全ての出発点としての「実在」の確からしさから、自らの「哲学」を始めないわけにはいかなかった、ということなのだろう。
そう考えたとき、カントの主張は、彼らにとって「不可解」であった。つまり、何を言っているのか分からなかったし、たんに「間違い」のようにしか思えなかった。
しかし、例えば、以前読んだ、山川という人のバークリの解説書を読むと、この方の言うバークリーの「観念論」に対して、ずいぶんと違った印象を受けるわけである。

若い頃のバークリがロックの『人間の知性に関する試論(An Essay concerning Human Understanding)』(一六九〇年)からおおいに刺激を受けたことは周知のとおりである(以下、本文中では同書のことを『人間知性論』と略す)。
バークリが批判するロック的な「物質論(materialism)」は、当時の先端の科学理論である「粒子仮説(corpuscular hypothesis)」に基づき、世界の諸現象を説明するために「物質」の存在を想定する立場である。
バークリは、日常生活において、われわれが感覚によって経験的に知覚し、そこに色や大きさや形や味や匂いなどが備わっていると素朴に考えるようなさまざまな対象(具体的には、われわれの環境世界やそこにおける動植物といった自然物、人間の身体、あるいは、机やパソコンといった人工物)の存在を否定しているわけではない。そうではなく、彼がその存在を否定する物質とは、われわれが経験的に知覚する諸対象を生み出す原因となり、それ自体は、色や匂いや味などを持たず、形や大きさなどを持つと想定されるもののことである。したがって、バークリが物質の存在を否定しているからといって、日常的にわれわれが常識的な意味で身の回りの物とみなしているさまざまな対象の存在を否定しているわけではけっしてない。

孤独なバークリ

孤独なバークリ

バークリーの観念論は、子ども向けの哲学の教科書を見ると、「頭のおかしい」哲学者の主張の筆頭のように書かれている。しかし、上記の引用を読むと、むしろ彼は「常識」を擁護するための理論的な可能性を模索したのだ、と書かれている。これは、どういうことだろう? ここには、ある「倒錯」がある。それは、バークリが批判したロックの「原子論」は当時の、言わば科学的「流行」である。しかし、言うまでもなく、現代物理学から見れば、まったくの古くさい、

  • 間違い

でしかない。ということは、どういうことだろう? 彼はそういった「科学」の「仮説」の流行に流されて、結局はなにも焦点を結ばない空虚な言葉遊びを拝し、「常識」的な意味での、日常の「対象」を扱えるような理論的な基盤を模索した、ということなのではないか?
いや。しかしこれは、バークリーだけだろうか? 同じようなことが、カントに対しても言えるんじゃないのか?
例えば、メイヤスーのインタビュー「思弁的唯物論のラフスケッチ」の訳者解題において、訳者は以下のように、メイヤスーの哲学の特徴を強調している。

すなわち、メイヤスーが説く「思弁的唯物論」においては、思考(主観)から独立した思考以前の存在が人間とは徹底的に関係なく存在するのに対して、「新しい唯物論」ではその発展過程において人間の身体をモノとして捉え直すことに力点があるがゆえに、そこで想定される人間の思考以前という観点もまた意識以前ではあるものの人間の身体という次元を含んでいるという点である。つまり、「新しい唯物論」が人間身体からモノへと向かうことで(またそれによって人間の中心性を無効化し、そのように脱中心化された人間を含むさまざまな存在者の対等な関係性の豊かさが考え直されることで)議論を発展させたのに対して、メイヤスーは初めからいかなる人間ともまったく無関係に存在するものを想定しれいるということが(もちろん、メイヤスーの議論においてもモノとしての身体は超越論的主体の発生の条件として非常に重要な意味を持つのであるが)、このインタビュー全体を包む両者のやりとりの微妙なちぐはぐさの一因なのではないか。
(黒木萬代「訳者解題」)
亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

このインタビューにおいて、インタビュアーはメイヤスーに、あなたの哲学はハイデガーフーコーとなにが違うんですか、と不思議がる。それに対して、メイヤスーは

  • 全然違う

と興奮ぎみにキレぎみに応答する。しかし、ここで言うその「差異」とは、そもそもそんなに語るべき「内容」のある話なのだろうか?
カントの「超越論的哲学」を神秘化することは簡単だが、基本的にカントが「何を言っているのか」に限って考えるなら、話はそれほど難しくないのではないか、と思っている。それは、カントの言う「人間の有限性」に関係していて、つまりは、カントは「理性の越権行為」の問題を非常に重要視した。つまり、カントの「超越論的哲学」は、そもそも「理性の越権行為」の問題を含意した、あくまでも「有限なる人間」の「哲学」であることを意味している。
カントを含めて、それ以降のドイツ観念論哲学が主張している内容は、そもそも、それ以降のフロイトなどの「精神分析」が踏襲していった観点に関係しているのであって、別に、それ以上でもそれ以下でもない。
それはつまりは人間の

  • 幼児期

をどのように考えるか、に関係している。科学が宇宙を「観測」する、というとき、その「観測」する「能力」は、人間の「幼児期」に形成されたものであって、少なくとも

  • それ以前

にはなかったものであって、そういう意味において、科学は人間の「幼児期」における、ある「能力」の形成を

  • 前提

としている。カントが時間・空間の、「感性のアプリオリな直観形式」と言うとき、そのアプリオリ性は、受精卵(または、それ以前w)レベルの「アプリオリ」のことを言っているのではなく、この人間の「幼児期」に獲得される「能力」の

  • 起源

に関係して言われているのであって、ようするにカントは、この人間の「幼児期」の「経験」を彼の哲学体系において

  • 無視できないもの

として扱っている、ということが重要なわけである。
そもそも、科学において「客観」とはなにかといえば、

  • 自分以外の「他の人」も、同じことを言っている

ということを意味しているに過ぎなくて、つまり「そんな」みんなが同じことを言うなんていうことは、「偶然ではありえない」から、そこには、

  • 外部の同一の「原因」がある

ということを示唆している、という「推論」が行われているわけで、そう言われてみれば確かに「客観的」ということは「存在」するんじゃないのか、と言いたくなるのだろうが、最初にも言ったように、カントは、あくまでも「有限なる人間」の哲学(=批判哲学)を構想したのであって、別に、それ以上のこと(つまり、「形而上学」の「存在」)を、そこから

  • 示唆

したわけではないわけである。大事なことは、ここから「科学」はある「仮説」を提起し、カントはそれを「科学の活動の中」において

  • 肯定

をするわけだが、それ以上の「形而上学」をそこから「結論」づけているわけではない、ということで、そのことを二つの言い方で言い換えておくとするなら、

  • 人間の宇宙を「観測」する「能力」は、人間の「幼児期」に形成されたものである限り、この「形成」と「観測対象」との<内的な関係>を分離することはできない。
  • 「だれもが同じことを言っている」というところから「客観的」な「形而上学」の「存在」を考えることは、あくまで「科学」の「仮説」としては可能であっても、その科学を根拠づけるような「客観」としての「形而上学」にまで昇華することができない。なぜなら、結局のところ、あらゆる「観測」は最後の最後は「その人の経験」に依拠しているのだから(前先祖時代の化石にしたって、「それ」を経験することなしには「それ」を考えられないのだから)、必然的にそれを科学の根拠と考えることは「論点先取り」を避けられないから。

ようするにどういうことか? カントが言っているのは、人間は神ではない、ということなのだ。神じゃないから、神の視点から考えられない。よって、そういった

  • 思考

自体を自らの批判哲学の中から除去したのだ! それに対して、メイヤスーが言っていることは、そこに、再度「神学」を導入しよう、神の視点を導入しよう、という野望だ、と言うことができるではないか。そう考えれば、メイヤスーの

が、もう一度

を導入することと、不可分の関係にあることが意識されるわけで、そのことと「科学的実在論」における「実在」の確実さを求める態度とは、そんなに遠くないんじゃないのか(つまり、そこに「神の視点」の導入を野望しているのではないか)、という印象を受けるわけである...。