「けいおん」型アニメにおける「仁」

以下のアニメの共通点を考えてみたとき、そこには、ある専門性(オタク的と言ってもいい)と、その分野に新規で参入する「にわか」の関係があることが分かってくる:

こうやって見てみると、見事にその「構造」は一致している:

  • 主人公 ... イノセント、どじっ子、アホの子、「にわか」、その専門を情熱をもってのめりこんでいく
  • 主人公の周りを固める「友だち」 ... 少なからずその専門に通じている、この専門を極めることに快楽をもっている。危なっかしい主人公を周りで心配そうに眺めている

この構造において、重要なポイントは、主人公の「主観」で、基本的には世界観が描かれるところにある。私たちは、この「専門」の世界に飛び込んできた主人公と同じ視点で、その

  • 不安

  • 快楽

追体験する、という形になっている。ひとまず、こういった構造のアニメを「けいおん型」と呼んでおくことにしよう。
さて。この「けいおん型」において、その典型的かつ対照的な例を、二つ挙げておこう:

  • 「ろんぐらいだあす」における、主人公がチームジャージをみんなに作ることを提案する場面
  • こみっくがーるず」の最終話における、漫画家寮の「友だち」が先に実家に帰ってしまったことで、一人で寮に残されて寂しくなる場面

前者は、始めて主人公が「みんな」に自分の「わがまま」を提案する場面であるが、ここのなにが重要かといえば、つまり、主人公は最初、その「専門」の「おもしろさ」にはまっていた、と思っていたわけである。確かに、自転車に乗ることは気持ちいいし、楽しい。しかし、通りのアイス屋のアイスを食べるときも、

  • 一人

で食べgると、あまりおいしくない。彼女が「おいしい」と思っていたのは、周りに「仲間」がいたから、と気付く。その悟りの「主体性」がチームジャージである。みんなが同じ服を着て、チームで自転車に乗る。

  • だから

彼女はここまで「うれしい」わけである。ここには、孔子論語における「仁」の思想の本質がある。
これと対照的な場面が、上記の後者になるわけだが、主人公のかおす先生は、みんなが実家に帰ってしまって、寮に一人ぼっちで置いてかれて、まったく漫画が描けなくなってしまう。そんな彼女を元気づけてくれたもの、みんなからのLINEやケータイからの電話であった。そこで彼女は、自分が

  • なに

に助けられていたのかに気付くわけであって、これも、孔子論語における「仁」の思想の本質がある、と言ってもいいのではないか...。