「表現の自由」の日本国憲法における「内在的関係」

言論の自由」や「表現の自由」は、日本国憲法で認められた無謬の権利として私たちは考えるわけだが、こと日本国憲法を全体として内在的に眺めたとき、その他の「権利」との関係で論争になる。
それは、ある意味において「当然」なわけで、私たちが目指す権利が「言論の自由」と「表現の自由」だけであるなら話は早いわけであるが、そんなわけはないわけで、言うまでもなく、人権や「人間の尊重」といったことを憲法は認めるわけで、そうである限り、そういったものとの「内在的」な関係が問題にならわないわけがないわけである。
(ちなみに、そんなネットの議論を見ていて思うのは、少し前の、筒井康隆による「芸術聖域論」を完全に反復していることが気になるわけで、まあ、そういった人の中には、ディープな筒井読者もいるのだろう、と思うと、少し憂鬱になる。)
ネットの議論を見ていて、あまりに「異様」だと思うことは、彼らが「言論の自由」のことばかり言及していて、なぜか「表現の自由」という単位で発言しないことだ。言うまでもなく「表現の自由」ということは、あらゆる芸術作品を発表する自由を含意しているわけで、ここでは

  • なにを言ってもいいかどうか

といった範囲ではなく、

  • なにをやってもいいかどうか(どんな芸術作品を発表してもいいかどうか)

といった範囲で考えないから、議論が変な方向に行ってしまうわけである。
例えば、こんな例を考えてみよう。表現の自由とは、「あらゆる」芸術活動を認める権利だと考えるとして、ある人が

  • 人を殺すこと

  • 死体という「芸術作品」を作成すること

と主張するなら、表現の自由は「人殺しの自由」を含意する、ということになってしまう。
ネットの議論のもう一つの違和感は、

  • 今、議論をしている「文脈」はなんなのか?

がよく分けられていないんじゃないのか、といった印象を受けるわけである。例えば、次のように考えてみよう。私たちは日本人である。つまり、私たちは日本に属している。だとするなら、本質的に私たちはだれもが「日本」なのだから、私たち一人一人が日本を「表象」している。憲法に「言論の自由」が書いてあるということは、私たち一人一人という「日本」の「表象」は、他人の「言論の自由」を守る「義務」がある。その場合、政府と国民の区別は無意味である。なぜなら、両方とも

  • 本質

において「日本」であることは変わらないのだから、と。
しかし、言うまでもなく、憲法に書いてある「言論の自由」とは

を前提にして行われている議論である。つまり、ここにおいては、「立法権」「行政権」「司法権」がまず分離されている、ということが本質として理解をされないと、議論にならないわけである。
立法府、つまり、国会は、法律を作る場所であり、つまり代議士とは国民の代表であり、基本的にこの三権分立システムにおいて、国民を「表象」するのが立法府と考えてよい。他方、「行政権」とは、ここで問題になっている「言論の自由」で規制される「対象」を意味しているのであって、政府は「検閲」をしてはならない、や、「通信の秘密」を守らなければならない、などは、基本的にこの「行政権」に対して

  • 命令

しているわけで、つまりこの文脈ではこの「国民」と「行政府」の二つは明確に

  • 区別

されていることが前提なわけである。
つまり、「言論の自由」や「表現の自由」と言う場合、その対象が「行政府」であり、「行政府」の行動を「規制」していると言うとき、いや、国民だって、

じゃないか、みたいな議論が何度も何度も蒸し返される。それは、この「国民」と「行政府」を

  • 区別

している今の「文脈」を、その度に無視して行われている、と解釈せざるをえないわけで、それではまともな議論にならないわけである。
ようするに、憲法における「表現の自由」とは、行政府は、国民を「表現の自由」をもった存在として扱わなければならないし、それと矛盾した行動をとってはならない、という規制なわけであろう。
このことは、ひとまず、ここでの論点は行政府の行動指針なわけであって、この段階では、それぞれの表現内容そのものには関係していない、形式的かつ外形的な法的権利の話なわけであり、個々の表現の

  • 内容的

な判断は、別のレベルで裁かれる、と整理できるだろう。
そもそも、現在の日本の法律で、明示的にこの「表現の自由」を制限していると思われるものとして以下が挙げられる:

これらをどう扱うのか、ということになるわけだが、例えば、

差別表現は表現の自由の対象外か ――枠組の整理+α - Togetter

において、「差別撤廃法案」に反対している人のロジックは、そもそも同じロジックによって、上記の4つの規制に対しても

  • 同じ理由

で反対しなければ、整合性がとれない、ということになることについて深く考えていない印象を受ける。
上記のトゲッターでのコメントでも多く見られるが、「差別撤廃法案」の成立に反対の意見を述べている人の多くが、その理由として

  • それによって「表現の自由」が行政府によって制限されることが懸念される

と述べているのは興味深いわけで、しかしもしもそのように言うのなら、なぜ実際の法律の運用において今でも、「表現の自由」の制限と思われる場面が、このように存在するのか、ということに対して、なんらかの見識を示さなければならないわけであろう。
例えば、このように考えてみよう。国家の「使命」がもし、この世界から「犯罪」を少なくさせることにあるのならば、国家は事前に人々の「発言」を「検閲」して、その中の「犯罪」にあたる発言が、この世界に出てこないように「フィルター」をかければいいんじゃないのか、と。そうすれば、この世界は今以上に「きれい」になる、と。
事実上、これと同じことを行っているのが中国で、今日本で議論されている、漫画村などへのアクセスをフィルターして排除しようといった動きも、同じ意図だと言うことができるであろう。しかし、多くの日本の知識人が反対をしているのは、端的にこれが、「検閲」の禁止や、通信の秘密の保持に反している「憲法違反」だから、というわけで、審議会は紛糾している。
例えば戦前を考えてみよう。戦前の日本、大日本帝国憲法には「不敬罪」があった。ようするに、天皇に対する「不敬」を行ったら、端的に犯罪が成立した。では、これは戦後なくなったのだろうか?
おそらく、憲法学的な正統な解釈としては、なくなったというより、現代における「名誉毀損罪」「侮辱罪」に代替された、と考えるべきなのだろう。天皇人間宣言から、当たり前ではあるが、天皇憲法が定める「権利」をもっているわけで、天皇だって他の国民と同じようにこういった訴えを行うことができる(まあ、本人がその業務を行うわけではないのだろうが)。いずれにしろ、その権利をもっているということなわけで、

はこれを認めるべきでない、という考えなのだろう。
例えば、子どもの世界で最大の問題と考えられる「いじめ」に対して、この

  • 物理的暴力

だけが問題なのであって、これに対しては子どもだろうが「法的」に裁きさえすれば、「いじめは<解決>する」なんて言っていたら、相当な「お花畑」だと揶揄されるだろう。それは、言うまでもなく、

  • 言葉の暴力

のことを言っているのであって、事実として多くの「いじめ」られた子どもが

  • 自殺

をしていることによって、その端的な「事実性」において

  • 問題

になっているわけで、それに対してたんに

がなんの解決にもなっていないことは自明なわけだ。こんなにたくさんの子どもたちが自ら死を選んできた「事実」を前にして、今だに、「いじめ神秘主義」を語っている人は、そもそものこの現実社会を考えていると言うには、あまりにナイーヴなわけで、そこまで人間は

  • 幼稚

ではない、と思いたいわけである...。