大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』

けっこう最近の記事だが、ブロゴスというキュレーションサイトで、(まあ色調としては「嫌韓」と分類していいと思うがw)、二つの韓国における「桜(さくら)」の記事が載っていた。
まあ、両方とも韓国の済州の王桜と、日本のソメイヨシノが遺伝子解析によって、まったく別種であることが分かった、といったことに端を発しているわけだが、それぞれで、少し観点が違っている。

そしてもう一点は、韓国「起源」ではなかったことが証明された韓国中に植えられてしまった何十万本ものソメイヨシノの将来です。
韓国の専門家は韓国内のすべてソメイヨシノは伐採せよと訴えます。

北東アジア生物多様性研究所のヒョン・ジンオ所長は「韓国国内に庭園樹や街路樹として普及した王桜の大半は済州の王桜でなく日本のソメイヨシノである可能性がある」とし「日本のソメイヨシノを済州の王桜に変えていかなければいけない」と指摘した。

いや、すごいです。
こうして韓国のソメイヨシノは2度目の殲滅危機を迎えているのであります。
ふう。
「韓国起源でないなら国内のソメイヨシノを全て殲滅せよ」(韓国人専門家)

こちらは、韓国において戦後、日本のソメイヨシノの「起源」が、済州の王桜だと解釈されて、積極的に韓国中にソメイヨシノが植えられ、日本の「花見」を真似たかのように、韓国においてもその慣習が普及してきた過去の経緯を踏まえながら、韓国の専門家が、今回の科学的な事実の判明を受けて

と主張し始めたことの「剣呑さ」を、(このように、韓国起源じゃないことが分かった途端に、てのひら返しをしたことを)皮肉っているのに対し:

実は日本の外交の一つに、「桜外交」があります。アメリカのワシントンなんかが有名ですが、各国と友好関係を築くため、桜を寄贈し、毎年「桜祭り」を開催するのですね。昔から韓国は「ソメイヨシノは韓国産」としてこの日本の「桜外交」にタダ乗りしようとしてきたのですが、失敗してきました。で、数年前から方向転換したわけです。

「日韓の「桜の起源論争」は収束今度は「日本軍国主義の象徴」と攻撃」2015年7月16日
韓国紙最大手「朝鮮日報」の日本語電子版(2015年7月14日)のコラムによると、オランダ・ハーグの国際刑事裁判所ICC)新庁舎建設に当たり、14年に日本が庁舎の周囲を桜の木で囲むことを提案してきた。そのため韓国は「絶対反対」と声を上げ外交合戦を繰り広げている、という。反対の理由は、日本の桜が軍国主義の象徴だからで、帝国主義国日本は「天皇のため桜の花びらのように散れ」と扇動し、若者を戦場に送ったり、学徒兵に桜の枝を渡して戦場に送り出したりした。また、「神風特攻隊」の戦闘機には桜の花が描かれていたし、軍人の階級章も桜だ、と説明した。
日韓の「桜の起源論争」は収束 今度は「日本軍国主義の象徴」と攻撃 - ライブドアニュース

狙うのは、第二の「旭日旗は戦犯旗」運動であります。ご存知の通り旭日旗の図案は、戦争関係なく大昔から使用されてきました。朝日新聞も社旗に使ってるくらいですから。もちろん朝日新聞の社旗の図案も、戦争より遥か昔からあの図案であります。しかし、この「戦犯旗」運動はそれなりに成果を収めていますので、これをソメイヨシノにもやってやろうとしているのですね。
つまり「ソメイヨシノは戦犯花」運動であります。でも、そのためには韓国の王桜が「ソメイヨシノと同じもの」では困るわけです。当たり前ですね。「戦犯花」「戦犯花」って叫ぼうとしているのに、自分たちの国にある桜が同じじゃ本末転倒です。どうにかして「王桜はソメイヨシノより上だ」という形にしなければ。
韓国との桜起源論争が決着? これから本格化する「ソメイヨシノ『戦犯花』」策動を見逃すな

こちらの記事は、韓国における「第二の旭日旗」と同じ扱いのものとして、今度は日本の「桜外交」を「戦犯花」として糾弾していくべきだ、と言い始めていることを(このように、韓国起源じゃないことが分かった途端に、てのひら返しをしたことを)皮肉っている、という対応になるだろう。
まあ、別に私はこの両方の記者のように、なにかこれに対して「嫌韓テイスト」なことを言いたいわけではないし、こういった日本であれ韓国であれの

を、ある種の「御用学者」として批判してきたわけで、日本だろうが韓国だろうが「やれやれ」とでも言っておけばいいのか、といった感想をもたざるをえないわけだが、ただ、一つだけ看過できないことが、この両方の記事にはあるわけで、それは

  • 日本における桜

が、そもそも戦前の日本にとって、どのような意味をもっていたのか、といったことに一切、この二つの記事は触れていないことだろう。
そもそも、桜は、飛鳥時代古事記日本書紀律令制の頃から、米に並ぶ、重要な植物として扱われてきたことは、以下で、掲題の本は指摘する。

日本最古の二大文書、『古事記』(七一二[和銅五]年)と『日本書記』(七二〇[養老四]年)に、米は、もっとも重要な、そして神聖な食物として登場する。国家形成の時期、古代王朝の初期において、『古事記』は、日本国家と天皇制の歴史的正当性を確立する意図の下に天武天皇(六七三--六八六在位)の勅命により編纂が始められたものであるが、両書において、民間の農耕宇宙観にまつわる諸要素が朝廷の公的な「史実」として編纂されていく過程を明白に見ることができる。また、記紀には、中国人とは違った日本人のアイデンティティ−を確立しようとした天武天皇の精力的な努力の跡が見える。その背景には、当時、中国の「偉大なる文明」が日本を飲み込もうとしていたことがある。朝廷は、民間の口承伝統を採用し、アジア大陸伝来のものである米を日本原産のものであるとし、日本人のアイデンティティー確立に努めた。これにより、元々外来の要素であった米は、日本人のアイデンティティ−の象徴に変えられたのである。

記紀において米が主要な地位を占めることについては議論の余地はないが、両書における桜の花の重要性については、これを全く認めない学者がいる。確かに米ほど頻出しないが、記紀に桜の花は登場する。後年現れるほど明瞭ではないにしても、桜の花と後年結びつく主要な象徴的意味の多くは、この二つの歴史 / 神話のなか にすでに現れている。
まず第一に、米と桜の花の象徴的結びつきは、天孫瓊瓊杵尊の結婚に表現されている。彼は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と称する美しい女性を妻とするわけだが、多くの学者は開耶を桜と解釈し、この媛神を桜の花と同一視している。また、桜井満は開耶姫は、巫女であり、桜の花の生まれ変わりだと考えている。この木花開耶姫が、稲を象徴する天孫と結婚するのである。天孫は米と稲作を主とする農耕宇宙観の中心的存在であり、桜の花は、後述のごとく、秋に収穫される米の、春における相応物と考えられるわけだから、その桜を体現する女性と天孫が結婚するということは、理にかなっているように思われる。

ここで重要なのは、日本の律令制国家の樹立の過程で、日本国内の

  • 民間の農耕宇宙観

を積極的に受容した、というところにある。ようするに、日本の「創成神話」は、そもそも、農耕「文化」そのものなわけである。おいうった文脈で、米と桜が「特権化」された。桜そのものは、この東アジアを中心に広く見られた植物なわけだが、そういう意味で、日本における「桜」

  • 特異

な文脈は、あまり海外の国では見られない印象がある。
しかし、その印象は二つの意味で、現在の私たち日本人が感じている「自明性」とは異なっていた。
一つ目は、桜での「花見」は、例えば、平安時代の貴族たちが行っていたものは、徹底して庶民とは「隔離」された、階級的文化だった、ということ。
二つ目は、そもそも江戸時代まで、日本に咲いていた桜は「山桜」だった、ということで、今、日本中の「ほとんど」のところで咲いている「ソメイヨシノ」は、明治以降に植えられたものだった、というところにある。
そして、ここで重要なのが、この二つ目の「ソメイヨシノ」という桜の特殊性なわけである。言うまでもなく、ソメイヨシノは「豪快」に咲く。いや、咲くだけじゃない、豪快に咲いて

  • 散る

わけである。つまり、桜は

  • 国家に殉じて死ぬ「若者」

の「美しさ」の象徴として、明治以降「再解釈」されてきた、といった事情がある。
そもそも、なぜ私たちは、上記の二つの記事に「嫌悪感」を抱くのか。それは、私たちが子どもの頃。小学校や小学校に通う通学路には、どこでも、ソメイヨシノが植えられていたからなのであって、私たちは自然と「親近感」を、ソメイヨシノに持っているからであろう。それは言うまでもなく、文部省があるイデオロギーの下で「植えた」のであって、まったく無関係ではないわけである。
例えば、本居宣長が桜を好んだことは有名であるし、日本の戦前の小学校の教科書には必ず、松坂の出会いのエピソードが載っていたわけであるが、有名な彼の「大和魂」の和歌は、そもそも

  • 山桜

を詠んだもので、ようするに彼の考えていた桜は、ソメイヨシノのような若者が命を「豪快」に「散る」といったようなものでは全然なく(それなら、漢心(からごこと)になってしまいますねw)、山の奥に

  • ひっそり

と咲く、その「ひかえめ」な感じを、「もののあはれ」といって「好ん」だわけで、そこには明確な

  • 歴史の偽造

があったわけである。

比較史的観点からみてここっでもっとも重要なのは、日本とヨーロッパにおける兵士の犠牲に関する概念の驚くべき相違である。ヨーロッパにおいては、長年の聖俗両王国間の拮抗にもかかわらず、キリストの存在は、第一次世界大戦中、モッセがいうところの「戦没兵士の礼讃」に非常に重要なものであった。兵士は神の国の実現のために戦う戦士として浄化され、戦場における兵士の経験は、キリストの犠牲・受難・復活に喩えられた(第十章)。これは、フランス、ドイツ、イタリアお兵士に対し、来るべき復活の希望と至福の約束だけでなく、自分たちの犠牲についての意味と慰めを与えた。このようなキリスト教の神の場合とは反対に、天皇は犠牲を捧げられる、さらには犠牲の儀礼を執り行うことはあっても、決して犠牲者になることはなかった。日本における従来の犠牲のモデルは、儒教の忠孝の概念が基本であって、この親への孝や藩主に対する忠が、時として犠牲を伴うことになる。明治政府は、フォン・シュタインの提案に従い、キリスト教における「神=父」のように、天皇を日本国民全員の「父親」たる存在として位置づけることにより、忠孝一致を確立しようと努めたが、私見では、この政府の試みは失敗であった。同様に、靖国神社の桜の花を、戦没兵士の生まれ変わりと概念化しようとする試みもむなしく終わった。それ故、若い特攻隊員は、自分たちの犠牲の意味を他に探し求めるしかなかったのである。若者たちが探し出した犠牲に対する唯一の論理的根拠は、愛国心であった。しかし、これは、彼らに何の再生の保証も与えるものではなかった。要するに、こういった日本の他国との比較は、日本においてどの程度「王 / 天皇即ち自国のために死ぬ」というモットーが成功、あるいは失敗したかを知るのに、もっとも示唆的であるということだ。

例えば、平泉澄が戦前、過激な皇国史観を策動したわけだが、そもそも彼は歴史学者として、

  • ヨーロッパ

に留学している。そこで、マイネッケやクローチェといった歴史学者と交流しているわけであるが、彼が明確に

を意識していたことは明らかなわけである。
明治において、日本が近代化していく段階で、知識人がどうしても解決しなければならなかったのが

  • 欧米のキリスト教に負けない、国民に国家への「犠牲」行為を行わせる

ことであった。そもそも日本の知識人はよく「キリスト教」を知っていた。それは、日本の歴史を見れば分かるように、日本は何度もキリスト教を受け入れてきた。その度に彼らは、いかに「キリスト教」が

  • 強力

であるかを理解されられたわけである。キリスト教徒は、自らを「犠牲」にする。それは、

  1. 神自身が人間のために自ら「犠牲」にした
  2. 死後に神の国での「復活」が約束されている

といった形で、彼らの文化として慣習化されていたからだ。
ところが、日本の「農耕宇宙観」は、そういった要素をもっていなかった。そのため、それに代替するものとして、中国の儒教が第一候補とされたわけだが、そもそも儒教は、皇帝と自らの「親」との優先順位を自明視しない。どんな将校でも、戦場で親の危篤の知らせを受ければ、当たり前のように戦場を去り、故郷に帰ることが何度も史実に出てくるほどで、いずれにしろ、東アジア文化からは

に比較できるような強度の、国家への「自己犠牲」を文化として発見できなかった。
そもそも天皇とは、キリスト教イエス・キリストと神の「代替」として、文部省に使われた。彼らには、天皇キリスト教の「コピペ」にするくらいしか、日本の田舎の農民を「戦士」に変える方法が思いつかなかった。日本が行ったのは、キリスト教のコピペ宗教を作ることであって、それがキリスト教に似てれば似てるほど、「うまくいく」と自信がもて、安心できたわけで、彼らはそれが外から見て、どれだけ「滑稽」に見えるかについて、まったく自覚がなかった。
よって、明治政府が「恐れた」のは、日本が欧米に「精神的に負ける」ことであった。
しかし、そもそもそういった知識人でさえ、なにが「問題」なのかを分かっていなかった。
彼らが執心したのは、

  • 日本が欧米並みに見える

ことであった。彼らは、自分たちが欧米から馬鹿にされることを恐れた。彼らは、欧米から「日本は欧米並みの兵士が<自己犠牲>で戦う」と褒めてもらうことを、唯一、この戦局を打開する道だと考えていた。そうすれば、彼らがいずれ「停戦」を求めてくる。その決定的差異は、日本の「精神」が、欧米に「恐れ」られることだと信じていた。
そういう意味で、彼ら日本の知識人は、そもそもそうやって、特攻隊として「自死」行為を行う一人一人の庶民が、一体、何を考えているのかに関心がなかった。というか、彼らは、そういった日本の田舎の農耕生活をしていた若者が、

  • 内省的に国家を思う自己犠牲を行う「高尚」な戦士

になれると、まったく思えなかった。そもそも江戸時代からの延長で、農民階級が高尚な学歴を身につける人も少なく、彼らを

  • 野蛮人

と思っていた。彼ら日本の知識人は、こんな連中の「人権」なんて、どうでもいいと考えていた。彼らが唯一恐れていたのは、

  • 欧米の知識人

が、日本の兵隊を「馬鹿」にすることだった。だから、彼ら日本の知識人は、必死になって、そういった農民出の野蛮な日本人を、立派に振る舞っていると、欧米知識人に見せようとした。それが特攻隊だったわけで、とにかく、欧米の知識人から

  • 日本の兵隊は、なんか「すごい」ぞ

と思われることだけが、彼らの生き甲斐であった。
(こういった特攻隊が、キリスト教における「子ども十字軍」に似ていることに注意がいる。子どもたちが、自ら「神に殉じる」その、汚れない、イノセントな決断を、子ども自身が行うことは、その子どもの「聖性」を表象していることとして、高く評価されるだけではなく、感動的かつ神聖なものとして、一種の「(神の意志が子どもを介して、伝えられた)奇跡」として、重要視されるわけである。)

日本国外では、「カミカゼ・タクシー」は無鉄砲な運転をするタクシーを、「カミカゼ・ドリンク」は、物凄く強いアルコールを意味する。また、フランスの原子力発電所では放射能被爆のあまり気にしない勇敢な雇用人を「カミカゼ」と呼ぶ。「カミカゼ」という語句は、「命知らず」と同義となってしまった。外国人が特攻隊に対していだく固定観念の最たるものは、自殺ということでえある。これは、特攻隊が、アメリカのほとんどの辞書に「自殺的行為」「自殺的パイロット」と定義されれいることや、R・オニールの Suicide Squads(自殺隊)といった本の題名でも明白である。しかし、隊員たち自身も日本人の一般の人も特攻隊のとった行動を自殺的などとは捉えていない。隊員は、ちょうど歩兵が戦場で戦士するのと同様に、作戦行動中に殺されたわけである。彼らは、自分たちの国を救うためにアメリカの空母等に突入していった結果死んだ、というのが、隊員や日本人一般の考え方である。兵士、特に隊員の中には、自分たち自身の政府によって「殺される」と発言した者さえいるのだ。海軍士官学校出身の関行男は、レイテ沖海戦の最初の特攻隊攻撃を指揮するよう「命令」された。これは、士官学校出身者が誰一人志願しなかったからである。関は、海軍が、自分のような敵船を破壊しなおかつ生還できる有能なパイロットを進んで殺すのであるならば、日本に先の見込みはない、と新聞記者に語っている。隊員たちの日記が明らかにするように、彼らのほとんどは、生きたかったのだ。これは彼らが、名誉を守るため自分の屋敷で切腹した武士とは全く違った存在であったことを物語っている。

戦没兵士が祀られている靖国神社に属する編集者をはじめ、多くの国粋派の編集者は、「桜の花のように天皇のためによろこんで散る」といった考えを例証するような兵士の遺書だけを選択している。しかし、こういった遺書の多くは、模範的兵士の遺書は手本として壁に貼り出される、と聞かされた後で書かれた物である場合が多い。

まあ。身も蓋もない話なわけで、そんな調子だから、日本の特攻隊のほとんど全てが、

  • 生きたかった

わけである。ようするにこれは、「死刑」に似ているわけである。日本は、全国民的に、ある一定の年齢まで到達した子どもたちを

  • 全員、死刑にした

わけである。それが「特攻隊」であった。掲題の本の後半は、彼ら若い特攻隊の兵士たちが、

  • 膨大な本を読んでいた

その本の目録が参考資料として添付されている。つまり、彼ら特攻隊の若者たちは、全然「納得」していなかった。納得できなかったから、だから、必死になって、その答えを探そうと本を読んだ。彼らはなぜ自分が「死刑」にされなければならないのかを、つまりは、最後まで理解できなかったのだ。
これが日本という国である。
この前の、沖縄知事選で、自民党推薦の候補のネットでのデマ・サイトは、選挙に負けるやいなや、デマ記事を必死になって削除しているようである。まるで、敗戦時に、国の文書を必死になって「焼いた」行為の再現のようではないかw
自分が「発言した」ことに、なんのプライドもないから、ことごとく削除しやがる。こんな連中が日本の「民度」なわけであって、それは戦前も戦後もなにも変わらない...。

ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義

ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義