中山康雄『示される自己』

(最初から、なかなか掲題の本の話に入らなくて、すみません。)
私はあまり、永井均先生の本に、いい印象をもっていない。それは、

「魂」に対する態度

「魂」に対する態度

に収録されている、「世界宗教の外部へ」という、柄谷行人の『探究1』『探究2』への批判を読んだときの印象からそうだった。
なぜ私がこの論文に、いい印象を受けなかったのかというと、それは、例えば、東浩紀先生が、『存在論的、郵便的』において、柄谷の議論を

として否定したことにも近いのかもしれない。このことについて、東先生は最近、こんなことを言っている。

東 いま振り返るに、ぼくの哲学は基本的に『存在論的、郵便的』の挫折から出発しているんだと思います。千葉さんのまえで言うのは申しわけないのだけど、あの本は要は、哲学を勉強した結果、哲学では自分がやりたいことは無理だと知ったというドキュメントなんですよ。哲学は不可能なものに直面すべきだと主張する。でも哲学をやっているかぎり絶対に不可能なものには直面できないんではないかと。だからぼくはいま、こうやって聴衆の前で話す仕事をしている。
(千葉雅也・東浩紀実在論化する相対主義」)

ゲンロンβ29

ゲンロンβ29

これについて、私は以前、このブログで東浩紀先生が「理論」から「身体論」への

  • 転回

を行っていることを注意した:

そこで上記の二つの引用なのだが、一方はオースティンの言語行為論であり、他方は柄谷の『探究1』のウィトゲンシュタイン解釈だが、両方に共通するのは、いわゆる「理論」とか「形式化」といったものの外にあるような

  • 身体論

の領域を、なんらかの「悟り」のように示しているところになる。つまり、どういうことかというと、上記の3番目の問題が何をやっているのかというと、「ゲーデルパラドックス」が起きるのは、

  • 身体論

を考慮せずに、「閉じた理論」で、つまり言語「体系」で完結させようとしているからだ、という「悟り」っぽい主張になっている、ということなのである。つまり、この「問題」は、あえて「心理学」的に「解決」されなければならない。理論の「外」から、解決される構造になっている、ということが言いたい、というわけである。
東浩紀先生の「否定神学」批判と「科学哲学」 - martingale & Brownian motion

ここで、東浩紀先生は、そもそも柄谷が「理論」にこだわっていること自体に、違和感かつ嫌悪感を隠さない。「理論」が「嘘」であることは、今さら分かっているのに、なんで「嘘」にこだわるのか。もはや「理論」は不可能なのだから、だとするなら

  • 身体論

しかない。つまり、東浩紀先生は、そもそも最初から柄谷の議論に

  • コミットメントする気がない

わけである。
私は、これと似た印象を、永井均先生の上記の論文に対して感じたわけで、それは、そもそもの、それまでの柄谷が、この論文を書くに至るまでの

  • 思考の過程

を、結果として踏まえていないじゃないか、という不満なわけである。

第一部の冒頭で、柄谷行人は次のように書いている。これは『探究』全体を通じて、私が全面的に共感しかつ賛成できる唯一のパラグラフである。

私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それを主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。それらは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。.....(九ページ)

その通りだ、と思う。私もまったく同じことを感じてきた。しかし、その後に次のような文章を読むとき、そこにはすでに小さな離反が始まっているのを感じざるをえない。

...肝心なのは、「この私」の「この」の方であって、私という意識のことではない。だから、哲学的な言語の中に「この私」が抜けているというかわりに、「この物」が抜けているといいかえてもかまわない。たとえば、私が「この犬」というとき、......(九--一〇ページ)

ここでは、「デカルトスピノザ化」の一歩がすでに始まっている。真にデカルト的な見地からみれば、肝心なのは「この私」の「この」であると同時に「私」である。
永井均世界宗教の外部へ」)
「魂」に対する態度

「この私」の「この」と「この物」との間には、根本的な違いがある。「この犬」が(犬集合に属するその一例としての「ある犬」ではなく)他をもって替えがたい「この犬」であるのは、柄谷の言うとおり、その単独性によってであり、それは固有名によって表現することができる。同じことは「この人」についてもいえる。「この人」が(人集合に属するその一例としての「ある人」ではなく)他をもっては替えがたい「この人」であるのは。この単独性によってであり、それは固有名によって表現することができる。しかし、「この私」は違う。
永井均世界宗教の外部へ」)
「魂」に対する態度

この二つの引用における、永井先生の態度は、まったく上記の東浩紀先生の「身体論」と同型の態度のように思えてしょうがない。
まず、最初の引用の前半で、永井先生は、柄谷の発言を引用して、この個所には、諸手を挙げて賛成を示す。確かに、この引用は、ほとんど永井先生が『<子ども>のための哲学』で行った、子どもの頃の素朴な哲学的疑問の

  • ネタ元

ではないかと言いたくなるほどに、似たようなことを言っている。ところが、永井先生はその後半で違和感を示す。つまり、ようするに柄谷がずっと考えていたことは

  • 固有名=単独性

の問題だったのだが、永井先生が、その最初の柄谷の引用で「わが意を得たり」と喜んだ含意は、その中の「特殊例」である

  • この私

だった、というところにある。ようするに、永井先生は柄谷の「関心」が最初から

  • 固有名=単独性

にあることを、ある意味で分かっていながら、徹底して無視して、持論を展開している。なぜこのような「違い」が起きているのか? それは、ひとえに、永井先生が、そもそも柄谷が今まで、なにに関心をもって言論活動を続けてきた人なのかを、こうやって柄谷論を書きながら、さっぱり理解しようともしていなかったからではないのか?
柄谷は、この『探究』を書き始める前、ポール・ド・マンの「アレゴリー」の問題から始まって、ゲーデル不完全性定理や、自己言及性の問題といった、「理論」の必然的な

  • 不可能性

の問題への閉塞状況に苦しめられていた。そういった中で、そのブレイクスルーとして書き始められたのが『探究』だったわけで、そもそも柄谷の関心は、最初から

  • 理論

だった。理論。ようするに、柄谷はずっと

  • 科学

のことを考えているわけである。柄谷にとって、理論=科学を

  • 固有名=単独性

で相対化することは、非常に重要な意味をもっていた。なぜなら、それは「理論」の「自己言及性」に対する、一つの答えだったからであろう。
対して、永井先生の議論には、この論文だけでなく、そもそも「自己言及性」の話など少なくとも私は一度も見たことがない。しかも「この私」というのは、柄谷のような文芸評論家を仕事にしてきた人にしてみれば、

を思わせるような、チープな主題について語っているようにしか思われない。大事なポイントは、柄谷にとっては

  • 「この私」より「固有名=単独性」の方こそが本質的

だった、というわけであって、ここが本質なんだと思うんですね(そして、今だに柄谷がなぜ、永井先生の仕事に言及しないのかを理由づける)。ようするに永井先生は、この柄谷の態度に

  • コミットメントする気がない

わけである。
例えば、上記の一つ目の引用の最後で、永井先生は「デカルト」を解釈する。しかし、そもそも、デカルトにしても、カントにしても、柄谷にしても、この三人に共通した態度は

  • 「自然科学」を根拠づける

という動機をもっていた、というところにあるのではないのか? 彼らがやりたかったのは、なぜ自然科学は「うまく行くのか」、そして、その自然科学の「発展」を保証するような形での、それを理論的に内包した形での哲学とは、どういったものとして構想できるのか、といった動機があったはずで、もっと言えば、この三人にとって

  • それ以外はどうでもよかった

とすら言ってもいいのではないか?
私が永井先生の上記の「デカルト評」に違和感をもつのがここのところであって、永井先生はそういう意味で、この三人とは、まったく「あさって」の方向を見て、なにかを語っているように思われる。
そのことは、例えば、柄谷を考えるなら、『探究3』が、前半がカントの科学論で、後半が後期フロイト論であったことが、よく示していると思うんですね。ようするに、柄谷は、この単独性の問題を、『探究1』『探究2』以降、まったく再現していないわけですね。つまり、ここで示したのは、「科学」では掴まえそこなってしまう「単独性」の差異性のようなものだったわけだけれど、そのことは必然的に、だったら「科学で扱える範囲のものとはなんなのか」といった問題を徹底してやらなければならない、という動機が生まれる。そこから、『探究3』のカントの科学論が始まっているわけでしょう。じゃな、なんで永井先生には「科学論」がないのか? それは、東浩紀先生の否定神学論がそうだったように、基本的に、柄谷とは違った問題意識で、違った方向を見ていて、違ったことを今でもやっているから、と言うしかないわけでしょう。
さて、そろそろ掲題の本の議論に入っていきたいわけだが、その議論に入る前に、

古田徹也「「ウィトゲンシュタイン独我論」の構造と意義」
「ウィトゲンシュタイン的独我論」 の構造と意義

という論文の議論から入っていった方が分かりやすいだろう。まあ、永井均先生が、ウィトゲンシュタイン研究の第一人者として、

という本をだしているわけだが、この本のタイトルにもなっている「誤謬」とは、おだやかでないわけで、ようするに、掲題の論文は、この本でウィトゲンシュタインの「誤謬」とされているのは

  • 妥当

なのかどうかを判定しよう、といった観点で書かれている(同じウィトゲンシュタイン研究者として、そういう問題意識をもつことは必然だろう、と)。
そういったわけで、最初の文脈ではこの本が何を主張しているのかを解説していくわけだが、それが一区切りついたところで、第二章からは、この本の批判として書かれた、掲題の本の該当個所の解説が書かれている。この個所で述べられていることは、ようするに、永井先生の独特の「独我論」に対して、

自然主義の立場や、神経科学の知見から、永井先生の語っている「<私>」の問題に、どこまで迫れるか、と言えるだろう。
しかし、である。
そもそも、この「反論」には永井先生自身による「反論の反論」があるわけである。

永井均「哲学的「対決」はいかに為されるべきか」)

哲学の密かな闘い

哲学の密かな闘い

という本で、永井先生はこの批判に、こてんぱんにボロクソに、ごみのように批判している。

こうした異様な風土にあって、現代の日本の哲学者の仕事に対して果敢に「対決」しようとする中山の態度は評価に値するものであるとはいえ、その内容が「対決」の名に値するものであるかといえば、それはまた別の話である。
永井均「哲学的「対決」はいかに為されるべきか」)
哲学の密かな闘い

しかし、これは上記の古田という人の論文を読むと、むしろ逆なんじゃないのか、といった印象を受ける。

そして永井氏は次のように続ける。「ところで、この種のより重篤な病気の成立を「分析哲学」の成立と見なすことができ、その場合、そこでウィトゲンシュタインが果たした役割はひじょうに大きかったことになる」(ibid., 114)。
こうして永井氏は、分析哲学という手法そのものを哲学的病気と見なすのだが、その診断の成否は、氏の言う「端的な事実」なるものがそれとして認められるかどうかにかかっているように思われる。
「ウィトゲンシュタイン的独我論」 の構造と意義

本書で僕は、自己に関する(哲学的)概念分析だけでなく、自己に関する認知科学の研究成果をも考慮に入れて、哲学的に考察しようと試みる。このような姿勢は哲学では、「自然主義」と呼ばれるものである。それは、哲学という領域を超えて、他の諸分野の知識も総動員して問題を解明しようとするアプローチである。

つまり、ケンカを売ったのは永井先生の方で、その相手は

だった。だから、中山先生は控えめながら、分析哲学の立場から、こういった問題意識の問題を考えてみようとした(実際に、その議論の内容は、興味深いことに、柄谷の単独性論にかなり似ている印象を受ける)。ところで、分析哲学とはなにかと言えば、科学哲学が分析哲学に包含されるように、

  • 科学を包含する(説明する)哲学

の可能性をプラグマティックに探究し続ける学問なのであって、上記の文脈で言えば、まさにデカルトやカントの延長に位置付けられるような系譜の哲学運動だと言えるだろう。

まず、中山の「対決」に対する概括的な批判をしよう。私に対するものに限らず、概して中山の「対決」は、相手の議論の論脈を丁寧にたどってなされておらず、結論(であると中山が見なしたもの)に対して自分の「立場」から異論が述べられるという形を取っている。相手が何を明らかにしようとして、そのためにどのような議論を構成したのか、その議論の道筋を精確に辿る、という最も基礎的な前提条件が満たされていないのである。哲学的議論の批判として、これはほとんど無意味なものではないだろうか。
永井均「哲学的「対決」はいかに為されるべきか」)
哲学の密かな闘い

この指摘が興味深いのは、上記で見たように、同じことを、永井先生は柄谷に対して行ったんじゃないのか、と言いたくなるような、その「並行」した議論だ、ということだろう。しかし、中山先生が今回も平常運転かどうかはともかく、ここでの中山先生が、そこまで永井先生のテキストに沿った議論を展開していない理由は、永井先生の「文脈」が、中山先生が関心をもっているような

のような蓄積と交わっていかないからなわけで、中山先生の関心は永井先生の「議論のコンテクスト」の方にはない、ということなのでしょう。それだけ、この文脈を辿ることに

  • (その努力をしただけの)利益

を感じていない、ということを端的に言っているのであって、それ以上でもそれ以下でもない、身も蓋もない話のようにしか思われない。
ようするに、中山先生は永井先生の議論を「ドグマ」と指摘することによって、自らの「分析哲学」との「デタッチメント」をはっきりさせられればそれでよかった、といったところなのだろう。
さて。上記の古田という人の論文の結論ということになるが、非常に重要なことを言っている:

これだけでは論拠が薄弱であり、それゆえ私自身の決めつけをここで行うことになるが、ウィトゲンシュタインにとって消し去りたくても考えずにいられないもの(のうち、唯一のもの、ないしは最大のもの)、あるいあ、彼に「人生の選択」を迫るほど大きな問題が、独我論をめぐる議論であったとは、私には思われない。少なくとも、私が彼の議論から永井氏のように「哲学の世界で自分の援軍に出会ったと感じた」のは、この点に関してではない。
「ウィトゲンシュタイン的独我論」 の構造と意義

この指摘は驚くべき内容なわけで、結局「ウィトゲンシュタイン論」なるものが、例えば、全集の細かいところまで読んで、その全体をイメージすることだったとして、そんなことは素人にはできないわけで、どうしても専門家の導きを大切にするわけだが、こうしてウィトゲンシュタイン専門家の中でも「意見が割れている」ということを、私たち素人が知っておくだけでも、随分と違ってくる、ということなのだ。
正直、永井先生自身がどういった哲学をもっていて、これからどういった活躍されるのかは、大きな問題ではないわけです。しかし、ウィトゲンシュタインは別です。ここで問題としなければならないのは、日本のウィトゲンシュタイン研究の「第一人者」の一人として、永井先生がいるのだとして、しかし、彼自身だって、さまざまな「バイアス」をもっている可能性がある、ということなのだ。あまり一人の解釈に執着すると、日本の研究レベルの偏向が、研究の停滞をもたらしかねない。あまりにも極端なコミットメントは、いずれにしろ危険ということなのだろう。
さて。最後に少し、自分なりにこの問題について考えてみたい。
私の立場は、上記の登場人物の中では、柄谷に比較的近いと思っていて、私も柄谷と同じように、永井の言う「<私>」よりも「固有名」の方が、本質的という立場になる。
それは、例えば、「日本特殊論」といった議論がアナロジーになるかな、と思っている。私は「日本人」なわけで、その自分から見たら、日本の「特殊」性と思われることを指摘することは容易なわけだが、そもそも、それらが世界各地で見られて、それらになんらかの「類似性」を指摘できるのではないか、といった「一般理論」を対置することは、そもそも必然であり、科学の立場としては後者となる、というわけであろう。
私が永井先生の議論に、ほとんど耐えられない不快感をもつのは、自分がエンジニアだから、と言ってもいいと思っている。つまり、例えばAIを考えてみてもらいたい。そうした場合、私たちは、

  • AIを設計する(プログラミングする)

わけです。ようするに、私たちは「<私>」をプログラミングするわけで、そもそもこういった問題は、テクノロジーの問題なんだ、ということをよく分かってないんじゃないのか、という印象を受けるわけです。
あるAIを作ります。つまり、外界を「観測」する機械です。当然ですが、一定の量産が行われます。そうした場合に、「彼ら」は外界の観測によって、

  • 自分と同じAI

を認識することになるでしょう。そして、その「自分と同じAI」たちと、なんらかの相互支援的な活動を始めることになるわけですが、そうした場合に、そのAIは、「自分」と「それ以外」のAIたちを、それぞれ、どういったものとして扱うことになるのか、これが問われてくるわけです。
この問題を考えやすいように、まずは普通の人間で考えます。まず、幼少期において人間の「観測」能力が完成するまでのプロセスがあります。大事なポイントは、この能力が、これから「形成」される、というところにあるわけで、その「形成」と「外界」を、そもそも区別できない、というところに特徴があります。これを比喩的に言えば、この「観測」能力を作る設計書に、外界が次々と

  • 落書き

をするのだが、その落書きと設計書書を区別できない、ということです。
しかし、いずれにしろ、この外界を「観測」する能力が形成されていきます。そして、この能力の特徴は、外と内の「区別」にある、と言えるでしょう。どういった形であれ、これを整合的に行います。実際に完璧にできているかはともかく、私たちが概ね「違和感」をもたないくらいには、自我をおびやかされない程度には、いい感じで処理されます。
まず最初に働くのが、

  • 主観モデル(リアルモデル)

になるでしょう、こちらは、

  • 観測者 <--> 被観測者

という対応になります。ここで、被観測者は以下の二つに分類されます:

  1. 観測者以外の被観測者
  2. 被観測者としての<観測者>

ようするに、自分自身も「観測」対象となる、ということです。ただし、これは特殊な性質をもっていて、

  • この観測が正常に行われているか?

といった「メンテナンス」的な独自の情報を含んでいるし、その逆の特徴もあるでしょう。
さて。この能力が一定程度に発達してくると、今度は観測者の「頭の中」で、あるモデルが作られます:

  • 客観モデル(外界モデル)

このモデルの特徴は、「客観」という言葉が示しているように、「<私>」という区別がないモデルだ、ということになります。つまり、自分を含めて客観的にチームを眺めている視点のようなものをイメージしています。そして、このモデルを形成するにおいて、以下の情報が徹底的に利用されます。

  • 上記の「被観測者」の理解に、「<観測者>」のアナロジーが使われる
  • 上記の「<観測者>」の理解に、「被観測者」のアナロジーが使われる

ただし、この「推測」は多くの「失敗」を含みます。つまり、そう簡単には相手のことも自分のことも分からないものだ、ということです。何度も失敗をして、多くの経験をつんで、よりレジリエンスに優れたモデルへの改善していく、ということになります...。

示される自己: 自己概念の哲学的分析

示される自己: 自己概念の哲学的分析