ピア・レビューのない文系は滅びろ!

以下のトゲッターであるが、どうも日本の社会学という「学会」には、査読論文がなくても大学教授になれる、という話でもりあがっているわけであるが:

社会学者、査読論文出してなくても教授になれるし、招待論文(依頼論文のこと?)があれば査読論文無しでも良いらしい問題(いろいろ追記有り) - Togetter

まあ、どうでもいいのだが、この記事を読んでいくと、最後の方で、稲葉先生と伊勢田先生のツイートが紹介してある:

論文が単なる研究報告ではなく同時に文芸作品でもあることを求められるような分野では、たとえ査読誌システムが確立していても単行本化されたモノグラフの地位は高いのです。歴史学とか人文系の多くはそう。ただ単行本にも査読があってしかるべき、とは言える。
@shinichiroinaba 2018/10/08 00:00

論文が「文芸作品」? そうか、稲葉先生の文章が、ちょっと衒学的で、厨二病っぽくて、ポストモダンっぽいのは(少なくとも、分析哲学っぽいスタイルではない)、彼なりに、なんらかの「芸術作品」を書いている、という意識があるということなのか...。
(というか、社会学って、この問題、あまりに根が深くないか? 宮台真司先生が、この問題を一度たりとも videonews.com でとりあげないのは、自分が査読論文を書かないからですよねw そして、最近の、古市憲寿の言説の「質」の問題や、開沼博先生の原発御用学者の問題など、ようするに、社会学には「査読」がないから、どんどん、こういった質の悪い連中が拡大再生産されていく、と。偉そうに、他の分野のことを云々する前に、自分の業界の自浄作用を働かせたらどうなんでしょうね...。)

日本の哲学系では査読システムが同僚評価において占める比重はだんだん大きくなりつつあるが、やはりまだ若手の評価が主だと思う。シニアの研究者の評価は著書に対する学会誌書評(新聞書評とはだいぶ違う)とか学会ワークショップ等での討論とかを通して事後的に共通認識が形成される感じだろう。
@tiseda 2018/10/08 05:22

この共通認識は外からは分かりにくい。ひとつの目安として、学会の依頼講演や依頼論文は(ちゃんと仕組みが機能している学会においては)ある程度そうした共通認識を反映しているので、依頼を多くうける人は同僚評価で高く評価されているんだな、という見方はできる。
@tiseda 2018/10/08 05:22

伊勢田先生のこの指摘であるが、実は最近読んでいた、以下の本でも話題になっている:

伊勢田 (中略)ちなみに、日本と英米でもずいぶん出版文化が違っていて、アメリカの大学出版会などは書籍もピア・レビューするんです。
須藤 当然そうあるべきですね。業績を本で評価するのであれば、当然ピア・レビューをしないとおかしい。それがその分野にいる人々の責任でもあります。
伊勢田 日本で書籍の査読というのはあまり聞きませんが、私が関わっている学会は、すべてなんらかの形で論文の査読をしています。たとえば引用している文献の引用の仕方が間違っているといった、技術的な指摘ももちろんありますし、同業者が読むと、「この人は何もわからずに書いている」というのが見えてきて、「リジェクト」という判断をすることもあるんです。そういう意味で、客観的な査読も可能です。

これで物理学者の須藤靖先生の「批判」は終わっているんだけれど、須藤先生は

  • 当然

ピア・レビューが<必要>だ、って言ってますねよね? その条件を満たしていないことに対する

  • コミットメント

はないんでしょうか? これ、須藤先生に馬鹿にされているんじゃないんですか? それでいいんでしょうか? 事後批評とか言ってるけど、これって非常に「害悪」があるんじゃないでしょうか(実際に、害悪があるから、上記の引用にあるように、伊勢田先生が関わっている学会は、査読をやってるんですよね)?
まあ、分かりやすい例が、伊勢田先生による、以下のブログ記事の書評なんじゃないでしょうか?

ところで『RATIO』の連載は、わたしのイントロダクションと戸田山氏の「感想戦」をつけて出版される予定だったのだが、戸田山氏が感想戦を結局書かなかったために出版計画が立ち消えになってしまった。そのときは戸田山氏も忙しいことだししかたのないことだと思ってあきらめていたのだが、こんな本格的な著書を書く時間はあったということであれば、時間がなかったのではないのだろう。まあわれわれの共著は戸田山それほど気乗りのしない仕事だったのだろうなと今になって思う。
Daily Life:戸田山和久『科学的実在論を擁護する』書評

まず、(私も以前、このブログで紹介させてもらいましたが)雑誌『RATIO』での往復書簡を、なぜか「忙しい」からという理由で、書籍化をいつまでも逃げてらっしゃるw戸田山先生が、なぜか、ほとんどその往復書簡の内容を踏襲している書籍を書いていたというのも衝撃の事実ですが(ようするに、戸田山先生は忙しくなかったんですねw)、しかし、それ以上にこのブログでの指摘の内容であろう:

このミスはそれ自体では些細なものではあるが、もし本当にファン=フラーセンの立場の変化を知らなかったのだとすれば、本書のような本を戸田山氏が書くことの適格性が疑われるし、また、いずれにせよ現在の論争状況について読者を大幅にミスリードする結果となっており、影響は大きい。
Daily Life:戸田山和久『科学的実在論を擁護する』書評

あのー。こういったことは、ピア・レビューでなんとかしてくれませんか? 当然、私たち素人は、戸田山先生のこの本は、業界の、それなりの「一定水準」を満たした内容であることを信用して買って読んでるんですよ! お金出して買っているんです! こういうの、業界の自浄作用でなんとかしてくれませんかね。
ちなみに、「お忙しい」戸田山先生は、ある講演で以下のようなことを言っているようです:

子どもの頃に出会った自分じしんの問題をトコトン考えぬくことは重要でしょ。ロマンでしょ?と言ったところで、「あっ、そうなの。でもそれって、人様の金を使ってやることじゃないよね。大学やめて趣味でやったら?」と言われちゃう。逆に人類の知的遺産の輝ける継承者って路線はどーだろう。この路線をとれば、ウパニシャッドやチョーサーの研究者がひっそりと存在を許されている程度には哲学者も生き延びることができるかもしれない。でも、「それにしたって、カントやヘーゲルやっているひとがこんなにいるのは異常だよね。日本に数人ずついればいいんじゃないの?」と言われるのことは必至。
戸田山和久「科学(者)の中の哲学(者)」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』目次

その手がかりを求めて、意識の科学と人口生命という二つの分野で現に哲学者が果たしている役割をケーススタディとして検討してみましょう。
戸田山和久「科学(者)の中の哲学(者)」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』目次

しかしそれにしても、こういう体たらくに哲学を追い込んだ人々の危機感のなさは...
戸田山和久「科学(者)の中の哲学(者)」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』目次

なるほど。実践家としての、戸田山先生は、もう科学的実在論なんていう瑣末な問題に云々している時間はないと。やれやれです...。