須藤靖・伊勢田哲治『科学を語るとはどういうことか』

掲題の本は、ものすごい本である。というのは、物理学者の須藤先生の「つっこみ」が恐しいまでに、徹底的だからだ。そういう意味で、この本は、「科学哲学」が

  • なにをやっているのか?

を考えるとき、非常にいい「橋頭堡」となる。
以下では、科学的反実在論に焦点を絞って議論をしてみたい。おそらく、掲題の本は、この「科学的反実在論」の「解説」として、今読めるものでは、一番に「啓蒙的」な本であろう。つまり、物理学者の須藤先生の、まさに「物理学者」という役割を演じてくれて、徹底的に、追及してくれるので、どうしようもなく、この「科学的反実在論」の「肌触り」のようなものが感じられてしまうわけである。
例えば、以下のブログでは、科学哲学者の伊勢田先生は「マジ」じゃない、と分析して、この議論を「まじめにとりあげるべきものではない」ものとして、軽く読み流している:

しかも自分の立場だけ守ればいいのではなく,(いろいろなトンデモの人がいるのはどの業界でもある中で)科学哲学全体の擁護に回るのは大変不利な状況だ.
「科学を語るとはどういうことか」 - shorebird 進化心理学中心の書評など

ところが、伊勢田先生は以下のようにも言っているわけである:

伊勢田 どうなんでしょうね、私は割と反実在論にシンパシーを持っているんですよ。もともとの認識論の問いを出発点にしているところから五感というものをとりあえずある種特権化するというのは、この議論の哲学的な背景から考えたならば、一応整合性はあると私は思うんですよ。

つまり、確かに伊勢田先生は基本的には反実在論の立場をとっていないのかもしれないけれど、ここまで「整合性」を感じられているということでは、ほとんど

  • コミットメント

しているのと変わらない(し、そう勘違いされてもかまわない)と思っている、ということなわけです。
このことは、例えば、以下の論文を見ると、近年の科学的実在論論争が、むしろ

であると強調されていることの意味を考えさせられるわけです:

科学的実在論の論争において科学的実在論者(以下、実在論者)は次のことを最良の説明への推論(inferenc to the best explanation、以下IBE)によって主張する。科学理論の成功から導いたその真理性、科学理論が措定する対象物が存在すること、実在論の立場が科学の営みを一番良く説明できること、である。反実在論者からの批判はこうした各主張に向けられている。現状では実在論者たちは非常に苦しい立場にある。
(野内玲「科学的実在論の論争と最良の説明への推論」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』第35号目次

この「苦しい立場」というのは、多くの人にとって、物騒な話に、ひとまずは聞こえるのではないか? 反実在論? 実在論じゃない? 何を言っているのか、と思うのではないか?
そして、だからこそ、掲題の本で、物理学者の須藤先生は、何度も何度も執拗に、反実在論を追及する。この、あまりにも

  • 粘着質

かつ

にも負けないような、その追及の激しさが、この本を「重要な本」に昇華した。私たちは、この本を読まないで、反実在論を、この日本では語れない、というくらいに「価値」ある一冊にしたわけである。
まず、この議論に入る前に、そもそもの「大前提」を確認しておく必要がある:

伊勢田 「目に見えるものがある」ということを受けいれる理由は、受け入れないという選択肢がほとんどないからです、もつちょっと正確に言うと、これを受け入れないとしたときに選択肢(『マトリックス』的なイメージ)は矛盾しないように展開するのが難しい。

ようするに、ひとまず「五感」で感じられるものの存在までを疑うことはやめようね、という「仮定」を、この科学的実在論論争においては設定されている、ということである。
その上で、じゃあ、反実在論がどういった主張であるのかについては、いったん物理学者の須藤さんが、暫定的であれ「納得」をされている個所を確認する形で検討してみたい:

須藤 その状況設定を伺ってやっと誤解が解けたのかもしれません。単なるものの言い方の問題ではありますが「目に見えるもの以外は信じられない」として科学理論を批判する立場なのか、あるいは「五感で捉えられないものについてのコミットメントが科学をする上で本当に必要なのか」と問う立場なのかによって、科学者側の受け取り方もずいぶん違います。

須藤 (中略)ただし、科学において実在だと考えられていたものが、その後実は間違っていたという例があるのは認めますし、これからも同じことがあるかもしれません。その意味において、私はその時点での科学が常に正しいなどという主張をするつもりはありません。むしろ、誤りを修正しつつ、より正しい真の世界観へ近づいていく、しかもそれは直観的ではなくジグザグに進む、それこそが科学という営みであると信じています。
それを考慮した上で考えるならば、伊勢田さんから教えていただいた(私が納得した)反実在論の立場と同じく、実在論は「科学が扱う対象には必ずその対応物が実在するという信念で進む立場」であると定義すれば良いのではないでしょうか。

ようするに、どういうことか? 反実在論は、「目に見える」ものしか、「実在」と呼ばない。では、測定機械によって測定される、ニュートリノのようなものはどうなるかというと、その「計算」とか、その「測定結果」とか、そこに見出される「物理法則」という「数学的方程式」といったものは「認める」わけです。ただ、そのニュートリノを「実在」と呼ばない。同じように、「電子」や「光子」も「実在」と呼ばない。なぜなら、「目で見えない」から、というわけです。
これだけの「違い」でしかない、と言うわけですw
なんか、拍子抜けしてしまうわけですが。
しかし、これに対する実在論者の典型的な批判の一つを考えてみよう:

たとえば電子顕微鏡という装置に対する疑いが経験主義にはあるのだろうが、それをいうならば裸眼もまた様々なメカニズムによって構築された装置である。前者には信頼性がなく、後者にはそれがあるという根拠はどこにもない。
(野内玲「科学的実在論の論争と最良の説明への推論」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』第35号目次

確かに、「自然主義」的な観点に立てば、人間の裸眼が、どういった「物理的メカニズム」になっているかは、かなり分かってきている。だとするなら、その「相同」性において、この二つを区別することの合理性を疑うことに、一定の疑問をなげかけることには理由がある、ということになるだろう。
しかし、そういうことではないわけである。
反実在論は、「目に見える」ものでない限り、その「裏」に、なんらかの

  • 私たちが想像していない

カニズムが存在していたって、全然不思議じゃない、というところにこだわっているわけである。むしろ、「目に見える」から「実在」だっている方だって、疑ったっていいくらいなのだ(まあ、こっちは、みんなで決めたルールで疑わないと決まっているから疑わない、というだけ、とも言えるわけでw)!

フラーセンが実在論を拒否するのは、実在論が非合理だからではなく、それに付随するインフレ的な形而上学(法則、因果等の解釈)を拒否するからである。
(野内玲「科学的実在論の論争と最良の説明への推論」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』第35号目次

上記の須藤先生の最後の引用で述べられていることは、少し「キリスト教」に似ている。科学は「真実」に、少しずつ近づくというのは、まさに「千年王国主義」そのものなわけであろう。そして、事実上、この引用は、須藤先生自身が、科学的実在論における

  • 最良の説明への推論(IBE)

に反してしまっているという意味で、半分、反実在論に足を踏み込んでしまっている、と解釈されてもしょうがない主張になっている。
ところで、伊勢田先生はフラーセンの立場の分かりやすい例として、以下を紹介している:

ファン=フラーセンの立場を「不可知論」と特徴づけることに対する疑念は前にも戸田山氏に伝えたことがある。ファン=フラーセンは観察共同体にミクロの目を肉眼としてそなえたエイリアンが加わることでミクロの対象が「知りうる」対象になる可能性などは許容しているので、ミクロの現象について「知り得ない」というのは、あくまで現在の観察共同体に相対的に、である。これを「不可知論」と呼ぶのは私の語感としてはミスリーディングである。
Daily Life:戸田山和久『科学的実在論を擁護する』書評

うーん。なんとも評価の難しい主張ではありますが...。
さて。このやりとりは、たんなる「思弁的」な問題でしかないのであろうか?

非実在論(non-realism)とは、知覚から独立して存在するとされる実在を否定する、または不可知であるとする立場。歴史的にはジョージ・バークリーの現象主義から実在論批判が始まる。現象主義や観念論は非実在論の極端な立場であり、現代では支持する者がほとんどいないが、近年の科学的実在論を巡る論争においても、経験主義的な哲学者は実在への言及を避けようとする傾向があり、この非実在論の立場に近い主張を行っている。
実在論論争 - 心の哲学まとめWiki - アットウィキ

まあ、この話の最初に戻るなら、デカルトとか、バークリとか、カントとかの「観念論」から始まっているわけですよね。そういった「経験論」の議論から、この

  • 経験

ということに焦点を搾るなら、この「実在」かどうかといった議論は、ほとんど不要なんじゃないか、と思われる。つまり、なぜ「それ」を

  • 区別

しなければならないのか? 「経験論」においては、すべてが「現象」なのだから、その「現象」の「構造」を素直に分析されればいいんじゃないでしょうか? それが「有限なる人間」ができる、せいぜいの成果なのであって、それで満足ができないということ辞退が「傲慢」というものなのでしょう...。