戸田山和久『知識の哲学』

前回も少し書いたが、いわゆる「哲学」がどうのこうのと言っている人たちは、結局のところ

  • 科学

  • 数学

をなんだ、と思っているのか、ということが私の考えていることであって、つまり、科学や数学は

  • なぜここまで「成功」しているのか?

ということを問うているのであって、私がよく分からないのは、なにか、それ以外に考えるべきことがあるんだ、といった「しぐさ」なのである。
いや。もちろん、それ以外にいろいろ語ってもいいのだろうが、少なくとも、この命題に対して、それなりの「おとしまえ」をつけることなくして、なにかを語る資格はないんじゃないのか、と思ってしまう。
そう考えると、正直、掲題の本は私には読むに耐えられないなにかを感じてしまうんですよね。

しかしこの本は、たんに歴史上のいろいろな哲学者が知識というものについてこれまでどんな説を唱えてきたかを順繰りに解説したものではない。その手の「教科書」はこれまでゲップが出るほどたくさん出版されてきたから、いまさらもう一冊付け加えることもないだろう。むしろ私が目指したのは、認識論を壊すことだ。

確かにことで、「認識論を壊す」という、一見、ラディカルな議論を展開しようとしている掲題の著者の姿勢に、どこか警戒的になる感覚を覚えるかもしれない。
しかし、そもそもこの著者がここで言っている「認識論を壊す」というのは、分析哲学の文脈で言えば、

  • ノイラートの船

の議論のことを言っているに過ぎない。そして、実際に、この本の第8章「認識論の自然化に至る道」の内容は、そのクワインの1968年の論文「自然化された認識論」の議論を、ある意味で、かなり丁寧にたどっている。
そして、ここまで読んできて、「なーんだ」と思うわけである。
上記の引用にあるように、掲題の著者は、偉そうにも、既存の規範的な議論に立ち向かう、ラディカリストとして、根底から哲学を疑ってやる、と戦いを挑んでいるのかと思ってみてみたら、むしろ逆。完全な、

なんだよね。むしろ、隅々まで丁寧にクワインの議論を跡付けしよう、といった文献学的な「律儀さ」ばかりが目立って、

  • いや。その説明は、このクワイン「自然化された認識論」という論文を読めば書いてあることだよね?

といった、まあ、どうでもいいような感想しか湧いてこないわけで、なんなんだかな、といった、げんなりした印象を受けてしまう。
それは、私が大学でそれなりに数学をやってたこともあって、数学基礎論とかの本も、よく読んでいたこともあって、こういった「科学哲学」の人たちが書く

  • 数学の哲学

といったものが、いや、それって、数学者や論理学者が「言っていたこと」だよね、といった、結局、この人たちは、なにがやりたかったんだろう、といった素朴な幻滅のようなものを感じて終わる、といった感覚を感じてしまうことに関係しているのかもしれない。
つまり、ちょっと待ってほしいわけである。
なぜあなたは、「なぜ数学が科学が<こんなにうまく行くのか?>」を語らないで、そんな衒学的な議論を始めるのか、といった、かなり本質的なところから疑いが湧いてくるわけである。つまり、それは

  • どうでもいい

から、まず、科学や数学の「本質」に向かったらどうなんだ、と。
まず、クワインが言ったことは、ようするに、ウィーン学団と呼ばれる、論理実証主義者と呼ばれた連中の主張と戦った、ということを言っているにすぎない。それが、「科学は数学に還元できる」「数学は論理学に還元できる」というわけで、ようするに、科学を「演繹的」に証明できれば、「真理を演繹的に証明できる」となる。
これにクワインは以下のような議論で対決した。科学における「決定実験」によって、二つの仮説のどちらが正しいのかを決定しようとしているとき、なぜその実験結果は、そのどちらかが正しくて、どちらかが間違っている、と示すのか、と疑った。なぜなら、この決定命題において、これ以外の

  • 無数の仮説

が隠れているからだ。つまり、ここで否定的な実験結果になったことが、なぜそれらの仮説の中の一つが問題だったから、と言えないのかの根拠がないから、と推論した。ようするに、クワインは理論における

を唱えたわけである。
クワインが言いたかったのは、論理実証主義者が言うような、「窮極の根拠」となる、ほんとに数えるほどの、「有限なる公理」による、科学の「真理」推論は、本質的に成立していない。そんなものがあると思うことの方がどうかしれいる、ということにすぎない。

伝統的認識論はいかにしれ信念に到達すべきかを教えてくれる。そのような認識論的理論を立て、それにしたがって科学を進めていくことによってはじめて、われわれは世界についてきちんとした知識を獲得することができるようになる。こうして、古い考え方では、認識論は個別科学と独立なばかりか、すべての科学に先立って展開されなくてはならないことになる。規範的認識論が完成したあとにだけ、正しい科学を築くことができる。このように、いかなる科学にも先だって、それに従ってやっていけば真理に到達できることが保証されるような「正しい認識の方法」を整備しておくこと、これが哲学的認識論に求められ、哲学者が果たすことができると誤解した課題だった。デカルトではこうした任務を負った認識論のことを「第一哲学(ラテン語で primmia philosophia)」と読んだ。こうした第一哲学としての認識論という考え方が、セカルト以後三〇〇年間の哲学を支配することになってしまった。

しかし、よく考えてみると、この議論は「うさんくさい」。というのは、なぜ私たちは「論理実証主義者」を

  • 仮想敵

にしているのか? ということだ。確かに、上記の引用では、すべての元凶をデカルトに帰結させている。しかし、この「伝説」は、本当なのだろうか?
というのは、少なくとも、カントの「認識論」を、『純粋理性批判』で読んできた私たちには、こういった論理実証主義者的な(ニアリーイコール、デカルト的な?)「基礎づけ主義」が、少しも自明だと思えないからだ。少なくとも、カントはこんなことを言っているだろうか? カントは当時の「科学」の成果を、それなりに意識して、少なくとも、それらと

  • 整合的

になるように、『純粋理性批判』を書いているんじゃないのか? 少なくとも、それなりに彼なりに勉強していたことは間違いないんじゃないのか? まあ、当時のものだから、たかが知れているとは言うことはできたとしても。
だから、もしもカントが現代の哲学者だったら、当たり前のように、現代の科学、認知科学脳科学の成果を勉強したに決まっているでしょう。そして、それらと整合的な、哲学理論を考えたに決まっているんじゃないんですかね。というかさ。少なくとも、カントを文献学的に精読して、私が今書いたことと、どっちが正しいのかをはっきりさせてもらえませんかね?
まあ、そう考えると、上記の引用の「伝説」は、うさんくさくなってくる。というか、この戸田山先生は、そんなにカントを精読するようなタイプの先生ではない感じで(まあ、それは科学哲学という、範囲の広い分野を扱っていることの宿命なのだろうが)、まあ、ようするに、こういった

  • はったり

かます、っていうことでしょう。
まず、少なくとも科学者集団は、カール・ポパーの「反証可能性」で、概ね、困っていない。細かくみれば、微妙な場合もあるのだろうが、運用としては、これで、だいたい進めていけてる。そしてこの「反証可能性」って、すべての科学命題は「仮説」であり、それが「偽」と分かるのは「反証」されたとき、としか言ってないのだから、ようするに、

  • (厳密な意味での)知識

とか

  • (厳密な意味での)真理

なんて、最初から科学は主張していないんだよね。ただ、この科学の結果が、さまざまに「テクノロジー」として、「工学」として、応用されてくると、いろいろと日常生活が便利になったりする、ということがあるというだけで、つまり、それって、その「命題」の

  • 真偽性

とは別だ、ということを言っているに過ぎない、ということなのだ。
いや、このことを、今度は「認識論」の方から述べることもできる。私たちは産まれてから、「意識」が芽生えて、今に至るまで、一つの「観測装置」として「機能」してきたわけだが、別にその認識は、「夢」だったのか、現実だったのかの区別をもっていない。私は常に、この「観測装置」の

  • 中の人

であって、その外に出ることは不可能なのであって、この観測装置を「主観」として生きるしかない。しかし、そうであるからといって、その一つ一つの体験を、「夢」だったのかどうかとか、他の人に聞いたら、別に裏で打ち合わせもしていないのに、同じような反応が帰ってくる、といったような「客観性」が担保されていたのかとか、そんなことが区別できないと「生きられない」かといえば、そんなことはない。それが、

  • 認識論

というものであって、そもそもの最初から、それで「困らない」ということが、認識論と「科学」の共存の意味だったはずなのだ。
だから、今さらのように、以下のようなことを言われると「戸惑う」わけであるw

これに対し新しい認識論は、認知科学脳科学の最新の知見との整合性を保とうとする。かりに、これらの研究の成果として、思考の言語仮説は間違っており、コネクショニズムの言うとおり、人間は思考の言語を操作して認知を行っているのではないことがわかったとしよう。このときは、スティッチの言うとおり、信念というものも心理的実体としては存在しないことになる。だとしたら、外界を心の中に正確に表象すること、つまり真理への到達が認知活動の目的でないかもしれないという可能性を受け入れる必要が生じてくる。

というかさ。これって、トマス・クーンや、マーク・フラーセンが、科学史

  • 進化論

との比喩で語ったことがすべてをあらわしていると思うんだけど。
ようするに、なんで話がかみあわないのかな、と考えてみたのだけれど、カントがやったことは、当時の「科学」の成果を前提として、その科学がまだ、説明に成功していない問題を、なんらかの

によって、整理してみよう。ということなわけでしょう。しかし、こうやってカントがなんらかの理論を作ってしまうと、これが「古くさい」とか、「現代の科学と整合的じゃない」とか言い始める連中があらわれる、というわけ。
しかし、ね。
だったら、彼らは、例えば「意識」を、神経科学や脳科学の、ニューロンの化学的な電気反応から

  • 説明

してみろ、というわけでしょう。でも、そんな簡単にできない。だから、結局は

  • カントと同じように

なんらかの「モデル」を作ることになる。なんだ、カントとやってること、同じじゃん、としか思わないんだけれどw
ようするに、神経科学や脳科学は、別に、「認識論」が過去から追及してきた「主題」だけしか扱わないわけじゃないんだよね。科学なんだから、興味深い結果なら、そんなの関係ないことでも、当然、その成果は評価される。
まあ、これだけの関係だよねw
ようするに、カントがやったことは、哲学というか、この世界というか、

  • なぜ「科学」や「数学」はうまくいくのか?

  • 認識論

の二つだけあれば、科学者が科学を行うことの、なんらかの「基盤」を与えられるし、その逆も言える。つまり、この二つで、私たちが科学を行うことで、少なくとも素朴な不安や悩みにとらわれない程度には、その科学者の科学行動の「地平」を整備できる、ということを、それなりには示した、ということなのでしょう。つまり、私たちに残されたのは、このマイナーチェンジくらいだ、ということなのでしょう...。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

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