哲学の目的は「真理」じゃない!

そもそもさ。哲学の目的は真理じゃないんじゃないか? その意味は、いわゆる「真理の探究」は

  • 科学

が担うようになっているわけで、つまり、こういった「フォーミュラ」でやれる哲学的な課題は、次々と、それぞれの「科学の分野」として分派してきた歴史があるわけでしょう。
私が「くだらない」と思うのは、例えば、「もうカントは古い」とかいうような議論なわけで、じゃあ、それに代替される議論が、今の現在に用意されているのか、といったら、別に、見るべきものもない。カントはまだ、進化論を理解していなかった、とか、まだカントの時代には、量子力学はなかったから、カントの議論には見るべきものはない」とか、どうでもいいような、くだらない議論ばかりが再生産されて(くっだらない、教科書に何百回と書かれて、ページを汚すわけでw)、だからどうしたの? といった感想しかもたない。
クワインの「ノイラートの船」は何を言おうとしているのか?
科学の哲学の「認識論」による「基礎づけ」は、別にそれが「科学的」であるかが問われているわけじゃない。つまり、エビデンスからは演繹できないような、

  • 推論=仮説=空想=理念

が含まれているのは当たり前のことだ。つまり、そんな「細かい」ことにこだわっているわけじゃない。科学の「エビデンス」より大事なことがあるから、大胆な推論をしているのだろう。
こうやって、

  • モデルを作る=物事をシンプルな形で「構造化」する

ことが、まずもって、大まかな世界の把握には大事だし、有用だからであろう。
私が「認識論の自然化」とかいう議論を、馬鹿馬鹿しいと思うのは、ようするに、これって

  • 物理主義=物理学による「還元主義」

だからでしょ。なんで、神経科学・脳科学あ、さまざまな観測機器の発達にも関わらず、大してカントと違わないことしか言えていないかといえば、

で、哲学が関心をもっているすべての現象を説明しようとするとき、当たり前だけど、どうしても、なんらかの

  • レイヤー

での「モデル」化を頼りにしないといけない。
つまり、大まかな「グランドデザイン」を、まず提供することが、哲学であり、「認識論」がやっていたことであり、こういったものがなにもないところから、なにも始められないだろ、っているだけなんだよね。
じゃあ、なんで、

  • 物理主義=物理学による「還元主義」

がうまくいかないかというと、二つあって、
一つ目は、たとえば、物理学や化学のモデルから、生物学の現象の説明をしようとするときに、いわゆる

  • (数学的)「カオス理論」的現象

に直面してしまう。つまり、あまりにも多くの「原因」がからんでいるため、単純な「計算化」に移れない。だから、生物学は今でも独自のアイデンティティをもった科学分野となっているのであって、生物学に生物学なりの、独自の

  • アプローチ

の方法で、つまり「上位」のレイアーにおうぇる、諸関係の体系として、独立して研究されている。
二つ目は、このように、物理学層と、生物学層として、「レイアー」が分かれてくると、もともと、物理学層で起きる現象が生物学層のレイアーでのモデルで起きる現象によって、当たり前ですけど、

  • 影響

を受けることが、日常的であることが分かる。つまり、

  • 上から下

への「因果関係」が当たり前のようにありうることが分かるわけで、最も単純な

  • 物理学による「還元主義」

のプロジェクトが崩壊するから、と言えるのではないか。
カントの『純粋理性批判』、つまり、カント流「認識論」は、当時の「科学」を「含んだ」だけでなく、その当時の「科学」の、それ以降の「発展」をすら「正当化」するような、大きなグランドデザインを与えることが

  • 目的

だったのであって、なにかそれ以上の意味を見出そうという態度自体が傲慢なんじゃないか。私たちにできることは、せいぜい、「なにか」に対する理論的「正当化」であって、それがカントにとっては、その当時の「科学」であり、「科学活動」だったわけで、そういった観点で考えれば、カントの提供したフレームは、十分に機能するには十分な射程があったんじゃないのか? というか、それ以上ってなんだよ?