矢嶋直規「カント道徳哲学における定言命法の意義」

この「哲学若手研究者フォーラム」第21号を見ると、最近亡くなった大庭健さんの論文と(というか、よく知らないが、これは、彼が死ぬ前の、ほとんど最後のジャーナリスティックな「論争」なんじゃないか?)、彼の論敵でもあった、永井均さんの論文が載っていて、いわゆる

  • Why be moral?

問題の「再現」が行われているわけであるが(以前の議論は、

道徳の理由―Why be moral? (叢書エチカ 1)

道徳の理由―Why be moral? (叢書エチカ 1)

にまとめられている)、ここでとりあげたいのは、その最後の方に載っている、掲題のカントに関する論文だ。
しかし、その議論に入っていく前に、すこしこの「論争史」的な概観を見ておこう:

密室状態であるならば、悪びれずに殺し・盗むことによって価値あるオノレ固有の生を充実させてよい・するべきであって、そこにおいてさえ道徳を「気にする」理由はない。こう断ずる「合理的な無道徳主義者」とは、非道徳的な行為を行う人のことではない。合理的な無道徳主義者は、道徳的に正しい行為を重ねる人でもありうる。彼が無道徳主義者であるゆえんは、ひとつには、美なり快なり聖なりを追及する自分の格律に回収できぬ「なかれ」を気にしない。つまり、そうした「なかれ」に背反したときの制裁を、正当な非難とは受けとめず、もっぱら他人の出方を読み違えたという「間違い」ゆえの不利益としてしか受けとめない、というところにあり、ひとつには、自分の格律を導く価値は、なんら道徳的な「善」とか「正」とかいった述語による正当化を要しない、と自己正当化するところにある。
大庭健「道徳に従うわけ(理由)」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』目次

ようするに、大庭さんが受け入れられないのは、永井が示唆しているような「アモラル」な倫理学だというわけで、そういったサイコパス的な要素を倫理学が「包摂」することに、著しく「警戒的」な態度を示している、と言える。
では、それに対して、永井さんがどのような態度を示しているのかは、それほど難しい議論ではない:

「合理的な無道徳主義者として生きるということは、他人の真面目さに依拠しながら、しかし、それを足蹴にして利用しつくす、という以外のなにものでもない」(28頁)。大庭はこれを議論の結論として語るが、問題はまだしくここから始まるのではないか。Why be moral? とは、まさしくそのように「足蹴にして利用し」てはいけない理由を問う問いだったのではないのか?
永井均大庭健「なぜ道徳を気にしなければならないか」の批判」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』目次

永井さんの反論は、たんに大庭さんの「反論」が反論になっていないことを指摘しているにすぎない。ようするに、お互いの議論は噛み合っていないし、そもそも、お互いがそれを噛み合わせることにそこまで積極的なのかも怪しい。
さて。そのこととは別に、永井さんはこの論文の注で、ある「訂正」を行っている:

これに関連して、『道徳の理由』所収の拙論のカント批判の箇所(八九 - 九〇頁)を訂正したい。そこで私は、「行為の概念そのものに含まれている道徳法則の『べき』」と「それを為すべきか否かの Why be moral? の水準の『べき』」を直接対立させたが、それは誤りであった。両者の中間に、カント風の道徳法則の存在を前提として為される(「別の場所」からの)更なる道徳的配慮の「べき」を設定し、それを設定し、それをせってい しなかったことでカントを批判しつつも、更にその上にそれを為すべきか否かの「Why be moral?」水準の「べき」があるという、三段階説を主張すべきであった。
永井均大庭健「なぜ道徳を気にしなければならないか」の批判」)
哲学若手研究者フォーラム - 『哲学の探求』目次

これは、なんのことであろう? しかし、いずれにしろ、ここで注意しなければならないのは、永井さんの視野には

  • カントとの対決

といった主題がある、ということであって、その延長で、この大庭さんの議論も考えている、ということであろう。
しかし、そうだとすると、当の「カント学者」の側から、こういった「Why be moral?」に関連した主張に対して、どのような反応があるのか、ということが気になってくるわけだが、それが掲題の論文だと言えるだろう:

それに対して私の主張はの要点は、定言命法は何が道徳的行為かを具体的に導き出すための道具ではないということであり、また、定言命法の主要な意義はある行為が道徳性にかなっているか否かを判定するためのテストとしての側面にはるのでないということである。しかカント論理学を義務論とみなしてそれに反駁を加えようとする論者たちはもとより、カント論理学を継承して普遍性に基礎をおく論理学を提示しようとするカント主義者たちにとっても、定言命法はカントによって道徳的判定の規準として提出されているという解釈がしばしば自明のこととされている。

カントの定言命法が道徳的判定のテストであると考える人々からの反論として、『基礎づけ』においてカント自身が行っている実例の考察があげられるかもしれない。よく知られているようにカントは、失意の末に自殺を考えようとすること、困窮の末に偽りの約束によって借金を申し込もうとすること、歓楽を求めて自己の才能を錆付かせること、困窮した他人を助けようとしないこと、が道徳的に許されるのかどうかを、普遍化した時に自己矛盾を生じないかどうか、そして自己矛盾が生じないとしてもそれを意志することが可能かどうかを自問することによって判定しようとしている(IV 421 f.)。
『基礎づけ』のこの箇所は理解が容易なだけに多く引用され、彼の道徳的考察の典型的な表明として受け取られるが、そうした解釈は彼の道徳哲学の本質的な部分を正確に受け取ることにはならない。カントがあげている事例は、十八世紀にケーニヒスベルクに生きていた彼自身が『基礎づけ』第一章でいう常識の立場において具体的な道徳的反省をどのようにして行なっていたかを一部述べているものと解すべきではないだろうか。その箇所でカントが行なっている義務の分類は、彼の実践哲学全体にとって重大な問題となるが、純粋な意味での彼の道徳哲学の本質的部分をなすものということはできない。

ようするに、永井のカント批判は、ほぼヘーゲルのカント批判の反復であり、それ以降の分析哲学からなにからが反復してきた、カント批判のエピゴーネン的な反復にすぎない。
それは、ようするに、永井であれ大庭であれ、彼らが

  • 道徳

の定義を避けていることに、その本質がある、と言わざるをえない。なぜ彼らはそれを避けたのか? それは、この概念の「歴史」的な文脈を掴み損なくことのリスクに、薄々ではあれ、気付いているからであろう:

さらにい、定言命法が道徳的判定および道徳的行為の識別として用いられるべきものではないという主張の論拠として、カントによる「適法性(Legalitat)」と「道徳性(Moraitat)」の区別(V 81)の意義との関連を指摘することができる。カントにおいて道徳性はどの行為を為すかにかかっているのではなかった、たとえある行為がそれ自体正しいものであったとしても、そのことは道徳的にはたかだか中立的な意義を有するにすぎない。道徳に適った行為そのものとその行為の道徳性とは厳格に区別されなければならない。道徳性は道徳的行為が義務から為されるところにのみある。もし定言命法が数ある行為の中でどの行為が道徳的であるかを定めるためのものであるとするならば、それは適法性の原理に止まるものとなる。それ故、定言命法を道徳的行為導出の規準と解釈することは、道徳性の最高原理としての定言命法の意義を貶めることになるのである。こうした観点からも、定言命法は道徳的な意志のあり方だけを問題にしているものと解釈すべきであり、義務に適った行為が何であるのかを知るための規準とされるべきではないと考えることができるであろう。

ようするに、カントはそれ以前の「道徳」という概念と、まったく違うことを「道徳」という言葉を使って意味するようにしたわけで、その差異について、上記の二人は無自覚な印象を受けるわけである。
太古の昔の、村共同体において、道徳とは

  • 掟(おきて)

のことであった。この社会においては、そもそも上記の「無道徳主義者」は、過激かつ不穏な思想をもつ人物として

  • いずれこの村を滅ぼす畏れがある

として、村人によって抹殺されていたであろうし、その可能性は少ないと考えれば、その村から放り出されて、村八分にされていただろう。ようするに、その時代においては、道徳とは今の意味とは

  • 反転

していたのだ! 現代社会においては、そういった「思想犯」は、

を理由にして、リベラルによって「保護」されるし、そうやって保護されることを、「無道徳主義者」はなにも疑ってない。自分にはその権利があるし、人々は自分に「親切」にしなければならない、と「本気(マジ)」で思っている。
では、この「反転」はいつ、なにによって起きたのか、ということになるが、それこそが

である。ようするに、キリスト教であるし、近代啓蒙思想であるし、コスモポリタニズムである。一つ一つの村社会は、それ以降は

によって解釈されるようになり、その「範囲」での普遍性が問われるようになっていった。
ようするに、カントは、

  • この時代

における、それ以前の村共同体がもっていた

  • 道徳=掟(おきて)

に相当するものが、「なければならない」と考えたのだ! しかし、それはそう簡単には与えられない。なぜなら、グローバリズムの社会においては、もはや、そういった、さまざまな「慣習」をもった各共同体を

  • 通底

するような、「共通」性はもはや、簡単には見出されないからだ。

カントの道徳哲学は道徳的世界を構成する純粋実践理性の構造を描いた形而上学であり、それは道徳的意志の持つ本質的な構造の釈明を主眼としている。道徳とは何かを考えるに際して、道徳的であるということがいかなる事態を意味するのかを不問にしたままで、何が道徳的行為であるかを尋ねてはならない。

上記の永井さんもそうだし、多くの分析哲学者もそうだが、結局彼らは、道徳を「経験」によって認識できる対象として、科学的にアプローチすることを前提にしている。その上で、カントは間違っている、と嬌声を上げている。ようするに、道徳は「科学」に「還元」される、ということを前提に議論している。しかし、カントがやっていることは

だ。なぜカントは形而上学でなければならなかったのか? それは、そもそもそういう形でしか「道徳的」であることを定義できなかったからだ。このことをよく考えなければならない。
それは、「世界宗教」が、そもそも「可能」なのかを問うことと同型の問題だと考えることもできる。そもそも宗教とは、村共同体における土俗的な儀式のことであって、それ以上の拡張性を考えることは不可能なのではないか。しかし、それがもしも「不可能」であるとするなら、今度は

  • 人間共同体の存続性の危機

に直面することになる。一体、人間の存続可能性を何によって担保できるのか? この課題を考えるにおいて、カントはなんとしてでも、太古の村共同体において連綿として存在した

  • 道徳=掟(おきて)

の「延長」に、この課題を託せるような「形而上学」的な構築物を用意せざるをえなかった。それは、ほとんど不可能と変わらないような「反語」的な構築物であるが(この事情は、「自由意志」を「叡知界」という「形而上学」で強引にでっちあげた経緯に似ている)、とにかくも、それが「ありえない」ということを許すことはできなかったわけである。
ではこのカントの「野望」は成功したのだろうか? しかし、この疑問はアイロニカルである。なぜなら、なぜ上記の「無道徳主義者」が村共同体によって殺されないのか。彼らが、なぜ「リベラル」によって、「保護」されているのか。ようするに、彼らの「存在する場所」でさえ、このカントの理念は、与えているわけであって、もはや答えは明らかであろう...。
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