上野千鶴子の人生相談は「ハラスメント」か?

朝日新聞に掲載された、上野千鶴子先生の人生相談が、少し炎上している(とはいっても、有料記事なので、ほとんどの人は本文を読んでいないと思われるので、なんとも迫力不足wであるが)。

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そして、いつもの、東浩紀先生は、どうも昔から、上野先生がお嫌いのようで、機会があれば、つっかかって行ってるようですが(そもそも、相手にされた場面を私はついぞ見たことがないですが、まあそれは、柄谷行人にしてもそうか)、今回も以下のような難癖をつけているようである。

高校生の男性相談者を男性というだけでバカにするこの語り口はハラスメントにならないのかな。個人的には不快。上野さんはいつもこうなので、この相談を彼女に割り振る編集部にも悪意がある。 母のスマホの位置情報がホテル 高校生の私はどうすれば:朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles/ASL9X43M1L9XUCFI004.html ...
@hazuma 2018/10/22 20:18

まず、ここで問われなければならないのは、ここでの上野先生の「回答」が果して、「ハラスメント」なのか、にあるわけであろう。
しかし、よく考えてみてほしい。わざわざ、この「朝日新聞」の人生相談の欄を「選んで」、応募してきている時点で、採用された場合には、その回答者の一人に上野先生がいるのだから、当たり前だけれど、この高校生は、上野先生が回答される場合だって、想定しているわけであろう? つまり、この相談者は、上野先生がフェミニストの一つの立場として、そもそも「家族」に批判的な立場の方であることを、薄々ではあれ、感づいていながら応募してきているわけであろう。だとするなら、そうであるのに

  • 偽物

かつ、余所行きの「おためごかし」を上野先生が書いたら、それこそ「失礼」なのではないか?
そこで、具体的な内容に入っていくが、なぜ上野先生がここで「(笑)」のような記述をしているのか?(この態度に、東先生は「バカにする」と言っているわけだが)であるが、それについて、そもそも、上野先生自身がその

  • 理由

を書いているわけであろう:

だってあなたが冒頭に書いてあるとおり、とっくに「夫婦はすれ違い」なんでしょう?
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これは、「自分でそういう書き方をしておいて、そういう質問している」こと自体の「滑稽さ(可笑しさ)」を言っているわけであろう。つまり、この推論において、少しも男がどうとか、関係ない。それを、男性だから云々というのは、勝手な自分の先入観を相手にあてはめているだけではないか?
さて、この質問者の立場になってこの回答を読もうとされる人は、まず、質問者が自分で「何を書いているのか」について、注意されなければならない。ようするに、こういうことを自分で書いているのに、果して、回答者になにか他の「回答」がありうるのだろうか。いや、それ以外の回答なるものは、結局は「ごまかし」でしかなく、正直に相手に向き合っていない、ということになりはしないか?
むしろ、この回答者の文章を細かく読めば読むほど、上野さんが

  • この質問者の文章

を隅々まで読んで、その意図を考えられて、細かく「丁寧」な回答を書かれていることに気付かれるのではないでしょうか?
上野先生が言っていることは、父親だろうが、母親だろうが一人の「人格」なんだ、ということでしょう。だから、まず、人格として「尊重」することを促している。
つまり、ここで問われているのは本当に「家族」の価値というのは、なにものをも優先してまでの大事なもののか、なのだ。上野先生は、家族である前に、質問者もその父親もその母親も「人格」をもった一人の人間なんだから、高校生の質問者にも、そういった扱いをしてもらえませんか、ということであろう。
そもそも、母親は月1の「同窓会」ということを、家族の中では「パブリック」にしているのだから、この質問者と同様に、父親も「なんかおかしい」くらいは思っているわけでしょう。しかし、父親はこの質問者のように、スマホの位置情報を「勝手」に見たりしない。LINEのGPS共有とかを使ったのだと思うが、少なくとも、なんらかの設定を、母親の承諾なしにやらないとできないことで、これが

  • 他人

であれば、プライバシー保護に反した立派な

  • 犯罪

になる。しかし、この場合に、そうなってないのは、質問者が「子ども」だからと、「家族」だからでしかない。だとするなら、なにかが「おかしい」と思わないと、しょうがないんじゃないでしょうか。なぜ、こんなことになっているのか? 「家族」なら、「他人」と違って、なにをやってもいい、と思っているからじゃないんですかね? しかし、家族だって一人の「人格」なわけでしょう。プライバシーも尊重しなければならないし、だから、父親はこういったような一定の線を超えてまでのことはやっていない。しかし、質問者はそれをやったのですから、その

  • おとしまえ

は自分でつけるしかない。よく読むと、上野さんはなんと言っているか:

苦しいでしょうが、母をひとりの女性として認めてあげてください。そして母が懸命に秘密にしているものを、守ってあげてください。
母のスマホの位置情報がホテル 高校生の私はどうすれば:朝日新聞デジタル

ようするに、ここで上野さんは少しも「上から目線」でなんて語りかけていないわけです。どうかお願いだから、あなたの母親を一人の人格ある人間として扱ってくれ、と半分、土下座してお願いしているわけです。
上野さんは「家族」に批判的です。それは、この場面においても、質問者の高校生が母親の「プライバシー」を犯すという、他人に行えば「犯罪」となる行為の一線を超えてしまっている、という「現実」を前にして、なんとかして母親を「助ける」には、ほとんど土下座と変わらないような「謝り方」において、懇願する以外に方法がない、と考えたからでしょう。この息子は、自らの「権力」を使って、いくらでも、母親を糾弾することができる。それは「家族」の「特権」として、社会的に許される。この、ほとんど絶望的な状況において、なんとか本人の、「感受性」であり「情」に訴えかける、という手段しか思い浮かばなかった。
ところで、質問者の質問文の最後は以下となっていました:

これから母とどう接していけばよいのか
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ようするに、母親が「なにを考えているのか」が分からない、と言っているのでしょう。母親の考えていることが少しでも分かれば、自分の中のぐちゃぐちゃした感情も少しはまとまるのかもしれない。それを教えてほしい、と言っているわけです。それが、上野さん流においては、上記の「土下座」のお願いなわけでしょう。そして、それは質問者の書いてきた文章から、ほとんど必然的にもたらされる結論なわけで、上野さんなりに真剣に、母親の考えていることを説明しようとしているその姿勢において、十分に

  • 真剣

だと思うんですけど。
(私の母親は、70歳を過ぎて、脳からの出血で、今も意識が戻っていませんが、思うことは、少しでも好きなように生きられるようにしてあげられたか、ですよ。人生は短い。本当に好きなように生きさせてあげられたのだろうか。自分が邪魔になっていなかったか。考えることは、いつもそんなことばかりですね。)
最後に、東先生の批判に入るわけだが、そもそも東先生は『観光客の哲学』でも、「ふまじめ」「不謹慎」の薦め、といったようなことを、「観光客」の態度として

  • 推奨

していたはずなのに、上野さんの「語り口」レベルで、もうこの看板を降ろした、ということなんですかね。表面的には「ふまじめ」「不謹慎」に見えても、その本質において、

  • 本気(マジ)

  • 誠実

に行っている、そういった「倫理的」な態度を語っていたんじゃなかったんですかね。その「ものさし」で考えて、上野さんのこの「回答」はそこまで「馬鹿」にしているものですかね?
そもそも、東先生の「家族」は、その著書『観光客の哲学』においても大きく揺れている:

加えて重要なのは、家族の概念が親密性の感覚としてけっして切り離せないことである(上野は家族愛など幻想だと言うかもしれないが、そのような幻想をぼくたちが抱き続けていること、その事実そのものが両概念の切り離しがたさを証拠だてている)。だれが家族でだれが家族でないかは、ときに私的な情愛により決められる。この点で、家族のメンバーシップは国家のそいれとは大きく性質が異なる。むろん、私的な情愛だけでいつも家族が拡張可能なわけではないが、情愛はときに原則や手続きを超える。養子縁組にしても、必ずしもイエの存続のためだけに行われるものではなかった。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

東先生はこのように、一方で「家族」概念の「拡張」のようなことを言っておきながら:

『何をなすべきか』では、男ふたりと女ひとりの共同生活が理想として描かれていた。それに対してドストエフスキーは、たんにそれが非現実的だと言っただけではない。男が女を取られていいわけがない、もしそういうことがあるとすれば、それはおまえが女がほかの男に抱かれるのを見て興奮する変態なだけだからだ、と残酷な観察を突きつけていたのである。
ゲンロン0 観光客の哲学

このように、「進歩的」な男女関係に

  • 警戒的

ドストエフスキーに著しい「共感」を示すことによって、本質的には

  • 古典的な家族概念

の「保守」性に、一周回って戻ってくるような構造になっている。ようするに、東先生は

  • 家族概念を捨てられない

わけである。だから、すべてが「家族」という言葉に戻ってきてしまう。東先生にとってはこの「家族」という言葉を中心に回る世界しか、想像できなかったわけである:

ユーロニュースの記事では、アイスランド婚外子の新生児の割合が多いのは、同国で進歩的な考え方が広まっているためだとしている。具体的には、アイスランドでは結婚すること・結婚していることを求める社会からのプレッシャーがなく、シングルマザーでいることに対しても人々が善し悪しの判断をしない点、そして結婚か未婚かにかかわらず福祉が充実している点を指している。
婚外子の割合が増えるヨーロッパ、70%の国も 変化する結婚への意識

私たちはなぜそれを「家族」と呼ぶのかに答えられない。しかし、「家族」と呼んだ時点で、なにかがすり抜けてしまうのだ! しかし、それはなんなのか? 
それは、もっとプリミティブな話で、結婚していようがしてなかろうが、だれかが子どもを「育て」るしかない。しかしその場合、0歳周辺においては、結局は母親の体内におり、母親と「密接」に切れない関係にあるわけだから、一次的には、子どもは、その段階では、母親と不可分に考えざるをえない、ということなわけであろう。
しかし、現実問題として、その範囲においては、母親は動くことすら、ままならない状況になるわけで、ようするに

  • 金銭的な援助

が本質的に、この時期周辺の母親には必要であるはずであるのに、それが

  • 家族

というパワーワードによって隠蔽されてしまうことによって、その「援助」関係が「曖昧」になってしまう。
おそらく、「家族」という言葉は東先生にとって、窮極のパワーワードなのであろう。だから、これを「汚さ」れることが我慢ならなかった。よって、必然的に、上野先生の主張は認められない、といったことなのであろう...。