社会学に対する「疑い」

私は社会学が嫌いだ。いや、それはたんに嫌いなだけでなく「害悪」だと思っている。つまり、これは「科学」なのかが怪しい、と言っているわけである。そして、それは、つい最近も、社会学の大御所が、まったく査定論文を書かない、ピア・レビューを受けない「駄文」ばかりを書いている連中であることが話題になったことからも分かるように、基本的に社会学

  • 御用学者

の巣窟であることがはっきりしていると考えるわけである。
しかし、それは例えば、宮台真司自身が、マックス・ウェーバーになぞらえるような形で語っていたように、基本的に社会学という学問の「性質」が強いているようなスタンスなんじゃないのか、とは言いたくなるわけで、つまりは彼らの

  • 処世術

について文句を言っているだけのことで、この学問の本質とするのは言いすぎなんじゃないのか、とは思われるかもしれない。
例えば、シノドスというポータルサイトがあった。そして、その編集長に荻上チキ先生がいた。ところが彼は、よく分からない経緯で、編集長、その他の関連職を辞任したそうである。
彼の一つの研究課題には「デマ」論があった。そしてそれは、3・11と関連して行われた。そして、明らかに今回の辞任の経緯には、「Fact Check 福島」といった、原発推進派をさかんにシノドスで執筆させ続けてきた「経緯」と切り離して考えられない。
もちろん、この人を社会学者と言うのは正確ではないのかもしれない。しかし、いずれにしろ、その程度の「総括」でいいのだろうか、とは思わずにいられないわけである。
私がこういった「社会学者」を疑っていることにおいて、下記の、非常に分かりやすい「メルクマール」があると考えているからだ:

  1. 消費税 ... 逆進性
  2. 原発推進 ... 福島の被曝
  3. 子宮頸がんワクチン ... 副反応
  4. 豊洲市場 ... 腐敗臭

ようするに、財務省と対立したくない社会学者は一つ目を「タブー」にするし、電力会社や電通と対立したくない社会学者は二つ目を「タブー」にするし、医療ビジネス関係と対立したくない社会学者は三つ目を「タブー」にするし、東京都と対立したくない社会学者は四つ目を「タブー」にする。
そこには、なにが「真実」なのか、ではない。

  • 自分が何(の「トラブル」)に関わりたくないのか?

の「真実」が一貫しているだけに過ぎない。ようするに、「護教的な」国家主義としての「社会学」の本性が垣間見える。そもそも、社会学が何を目的として作られてきた学問なのか。そしてそれが、高木仁三郎が言っていたような「市民科学」とどう違っているのか。私たちはいい加減、もう少し

  • この社会がどのようにできているのか(=社会学者が、どのような「社会」に包摂されているのか)

に注意をしなければならないのではないか...。