I・ブルマ&A・マルガリート『反西洋思想』

私が大学で学生をやっていた頃、よく英語の教科書や論文を読むことがあった。そう言うと、英語の本なんて、そうそう読めないんじゃないのか、と身構えるかもしれないが、案外、複雑な文法は使われてなく、だんだんと、むしろ、日本語で書かれているものより、簡素で読みやすいとすら思うようになった。
それは一つには、数学という独特の分野にも関係していたのかもしれない。しかし、こういった体験を経るにつれて、ある「感覚」が自分を覆うようになった。それは、例えば

ガンジーの危険な平和憲法案 (集英社新書)

ガンジーの危険な平和憲法案 (集英社新書)

という本が、私たちに、法律家としての「ガンジー」が、どのように植民地宗主国であるイギリスと「対決」したのかを思い浮かべさせる。私たちは、こうやって英語で教科書や論文を書いてくる連中と

  • 対決

しなければならない。彼らの言っていることに納得がいかなかったら、彼らの「言葉」で反論するし、ということは基本的に彼らの「レトリック」に習熟することを意味する。
植民地で弁護士をやっていたガンジーなら、なおさらそうであろう。ガンジーはイギリスの法律に習熟する。そして、彼らの「レトリック」を逆に

  • 利用

して、インドの国民の福祉を彼らに提供させなければならない。それは、彼らが「言っている」ことを彼ら自身に「実践」させることを意味するわけであり、ようするに、ガンジー自身が彼らの「論理」に、ひとまずは従うことで導かれる「結論」に彼らを巻き込むわけである。
こういった「思考」手段は、日本の近代化とも関係して、興味深く、かつ、実用的にも意味を感じるかもしれないが、一つ、ある「懸念」がある。それは、エドワード・E・サイードが言った

の問題である:

しかし、エドワード・サイードは、その著書『オリエンタリズム』で、「オリエンタリズムとはオリエントを支配し、再考し、威圧するための西洋の様式」(サイード1993a:21)であると主張した。つまり、西洋が政治的・社会学的・軍事的・イデオロギー的・科学的に「東洋」を、管理し、生産するという支配の影には、詩や小説、また絵画にいたるまで、東洋に代わって西洋が東洋を代弁するという「東洋に関する言説」がその装置として働いてきたことを指摘したのだ。
(竹内聖乃「ポストモダン人類学の代価について」)
ポストモダン以降の文化人類学環境

西洋がアジアに訪れて、アジアを「理解」しようとする過程は、そのイノセントの意図において受け入れられることはなくなり、それは常に、

  • 「東洋」を、管理し、生産する

という観点から解釈されるようになる。ヨーロッパの人たちは「優しい」。しかし、その優しさは、本質的に

  • この「自然」を支配し管理する

一貫において、アジアの人々も、「自然」も変わらないのだ。彼らは、そもそも、優しい以前に「強い」わけである。彼らは「生きる」ために、自然を支配するし、アジア人を「支配」する。しかし、それは彼らの「生きる」手段なのであって、それ以上でも、それ以下でもない。
例えば、私の上記の大学での体験を敷衍してみよう。そこで、「翻訳」された教科書や論文を読めばよかったのだろうか? 少なくとも、自分の書く論文は「日本語」で書けばいい、ということなのだろうか? その、どちらも間違っている。翻訳された日本語は、オリジナルの英語の「構造」を引き継いでいる時点で、その影響関係から逃れられないし、自分の書く論文を日本語にしたところで、この「構造」において、その影響関係から逃れられない。
ここで、二つの立場が現れる:

  1. 普遍主義=本質主義
  2. 文化相対主義

前者は、そもそもこういった「差異」を無視する立場である(フラット主義者と言ってもいい)。近代科学が分かりやすいように、自然科学をなんの言語で記述するのかによって、本質的な「差異」なんて、あるわけがない。だったら、いっそのこと

  • 西欧中心主義

でいんじゃね、と言うわけである。そして、こういった立場をとる人に、もともと大学で西洋思想を学んだ人が多い。西洋には、なにか、日本人を「超えた」神秘があるし、価値がある。だから、自分は西洋思想を学んだのであって、それに気付いていない、日本国民を「啓蒙」することは、自ら西洋思想を選んだ、自分の「使命」だ、というわけである。
対して、後者の立場は、そう簡単に滅びることはない、と言うことができるだろう。というのは、自分のことを考えてみればいい。ある日、お腹が痛くなった。自分にとって、この痛みがどれだけ

  • 自明

であっても、それを人に言わなければ伝わらない。いや、それどころか、言ったとしても、相手が本気にするかはさだかでない。むしろ相手は、

  • お前の顔色を見れば、「科学的」に、お前が仮病を使っていることは明らかだ

とか言い始めて、自分の日常を「邪魔」されたことへの仕返しをしてくるかもしれない。もしもこの腹痛が生命の危機に関わっていたら、あなたの人生は終わっていただろう。
言ってみれば、私たちはこの二つの間の「グラデーション」を生きている。相手に伝わらない「差異」に対して、

をとるか、

をとるか。しかし、掲題の本は、この戦術はそんなに単純ではない、と主張する:

それでも、現代におけるバビロン的大都会のイメージは、西洋と強く結びついている。それは、最初のオクシデンタリストたちがヨーロッパ人だからである。

西洋の直接支配から逃れたごく少数の国々----日本、そしてある程度は中国----において、西洋を寄せつけない方法は「西洋そのものから思想を借りてくること」以外になかった。

余談であるが、ウィキペディアの「オクシデンタリズム」の項目を読むと、最初の一行で書かれている「西洋的」という定義と、それ以降に書かれている内容が、まったくの反対になってしまっている。なぜこんなことになっているかというと、ようするに、後半の内容は、掲題の本の「紹介」になっているからだ。
明治以降の日本の「哲学」を考えてみてほしい。そこにあるのは、必死に西洋の哲学を勉強した学者たちの、日本への

  • 西洋思想の紹介

の山があるだけである。これはなんなのだろう? これは「日本の哲学」なのだろうか? まあ、日本人が考えたものなのだから、そうだと言わないわけにはいかないのだろうが、しかし、本質的に「西洋の書物の翻訳」であることは変わらない。
日本は、西洋を勉強した。しかしそのことは、私たちが

になったとか、そういったことではなく、そこに

  • 私たち

を探したのだ! つまり、どういうことか? 西洋の中にある

  • 遅れた地域

こそ「私たち」だったのだ。それは例えば、具体的にはドイツなどが当て嵌まる。イギリスなどで産業革命が進む頃でさえ、ドイツは国内の封建領主たちの権力競争によって成立していた「遅れた」地域だったわけで、この状況は日本と似ているわけである。
しかし、こういったアプローチはより混乱を招いている、と言いたくなる部分もある。それは、もしもそうだとするなら、

  • あらゆる萌芽はヨーロッパの「中」にある

ということになって、より

  • 西洋中心主義

が強化されているんじゃないのか、と皮肉も言いたくなるからだ。そして、こういった「対立」は、さまざまな形で反復されている。日本における、

  • 東京中心主義者

  • 地方出身者

の「他者」、「差異」問題。これを「ポストモダン」と呼ぶかどうかはともかく、私たちは今だに、この問題に対する「解決されたアプローチ」のようなものを、見出せていない、ということになるのではないだろうか...。

反西洋思想 (新潮新書)

反西洋思想 (新潮新書)