遺伝子と「決定論」

物理学で「ラプラスの悪魔」という言葉がある。ある一瞬の「初期条件」さえ分かれば、この世界のそれ以降に起きる

  • すべて

を予言できる。ようするに世界は「決定」されている、というわけである。たとえば、この「初期条件」を宇宙創成の最初に置けば、この宇宙の開始から終了までが「予言」できる、というわけである。
しかし、この「仮説」は、そもそも成立しないことが知られている。それが「量子力学」である。量子力学的「実体」である、電子や光子や素粒子は、位置と運動量の両方を「測定」できないことが分かっている。つまり、どちらかを測定するという行為(そこには、光子が媒介するのだが)が、もう一つを攪乱してしまうために、その二つは同時には決定しない、というわけである。
ふーん、と思うかもしれない。
しかし、こうは言っても、最近はやりの「存在論者」は、こう考えるんじゃないか。でも「神の視点」からは、神はその両方を「知って」いるんだから、やっぱり、この世界は「決定」しているってことになるんじゃないか、って。
しかし、ね。考えてみてほしい。もしもその「視点」なるものがあるとして、それは「どういうもの」なのかが、よく分からないんだよね。ようするにこの説明って、「思弁的」であり、

なんだよね。おそらくは、カント主義者はこう思うだろう。認識「できない」ものについて、なにかを想定することには限界があるんじゃないのか、と。
さて。この世界は「決定」しているのだろうか? しかし、ここで「決定」している、と言うことに、一体なんの意味があるのだろうか? なぜなら、「それ」を認識できないことだけは、少なくとも分かっているのだから(それは、カントが物自体を認識できない、と言っていることと基本的には同値なのだろう)。
なぜ私が、この問題に、ここで、こんなにこだわっているのか? 例えば、「キリスト教」を考えてみよう。プロテスタントの例えば、カルヴァンの予定説にしても、多分に「運命論」的なわけで、もっと言えば、個人の努力を否定している、とさえ言いたくなるものがあるわけでしょう。もう世界は「決定」している。
つまり、近代科学(=ラプラスの悪魔)は、プロテスタンティズムの教義の範囲内にある、ということになる。そして、このことを各人間個人を表象する形で使われるのが

  • 生得的

という言葉だ。これは、カントであれば「アプリオリ」といった用語に対応するものだが、これが、こと生物学の文脈に近づけて語られるとき。これはほぼ

  • 遺伝子

と同義の言葉になる。これを、より物質的に表現するものとして、広義には「ゲノム」という言葉が使われ、狭義には「DNA」をそれ、と語られることも往々としてある。
私たちは

  • 産まれる前

から、自分が「何」であるかが決まっている、と言われたとき、どう思うだろうか? しかしここで「決まっている」とは、どういうことだろう? 「決まっている」のは私だけじゃない。すべての人間が「決まっている」。ようするに、人間の

  • 序列

が決まっているのだ。それだけじゃない。いつ、どんな病気になるか。これも「決まっている」。それはどこか、近年の「遺伝子診断」を思わせる:

テレビ、新聞、雑誌では遺伝子情報について頻繁にとりあげられる。遺伝子検査では、遺伝病に限らず、ある病気のかかりやすさ、犯罪や事故捜査での被害者や加害者の同定、生れた子どもと両親との関係を調べる親子鑑定などに用いられており、いくつかの遺伝子検査はすでに商品として売られている。それらはいわゆる遺伝病の検査というよりも、アルコール依存症になりやすいか、肥満になりやすいか、喫煙によってがんなどの病気にかかりやすいかなどの遺伝的素因を調べる検査である。実際に、口腔粘膜をこすりとった綿棒を郵送するだけでさまざまな遺伝子検査を請け負う会社が、日本にも登場している。
いところもてはやされた遺伝子治療は、いまのところ技術的な理由によって限定的にしか使われていないが、将来的に応用範囲が広がる可能性はある。
(拓殖あづみ「序文」)

テクノソサエティの現在 (1) 遺伝子技術の社会学

テクノソサエティの現在 (1) 遺伝子技術の社会学

さて。

  • あなたは30%の確率で、30代までに乳ガンになります

こう言われたとき、もしも乳がんになるのならば、乳がんになる前に乳房を切除してしまえば、乳がんに「なりようがない」わけで、しかし、それをするかと聞かれれば、悩むわけであろう。なぜなら、乳がんにならなければ、そんな手術は必要ないから。
この場合、ここで言う「確率」とはなんだろう? これは、おそらく、なんらかの

  • 統計

のことを言っている。そもそも遺伝学とはなんだろう? メンデルの法則に代表されるように、なんらかの「表現型」が、完全に遺伝の「法則」に対応するとき、その「対応物」としての、遺伝子の存在が

  • 想定

されるわけであるが、そもそもメンデルの時代においては、これが「なんなのか」は分かっていなかった。これは、それ以降、分子生物学の発展に伴って、一般的には

  • DNA

のことであると解釈されるようになっていった。しかし、ここで少し立ち止まって考えてみてほしいのである。
本当にDNA「が」私たちを「決定」しているのか? 言うまでもないが、精子卵子が受精卵となるとき、その受精卵は

  • 母親の体内

で行われるプロセスに関係しているわけで、多くの「もの」を受精卵は、卵子または母親の体内から継承する。それは言うまでもなく、DNAだけではない。なぜそういったものが、この受精卵が産まれて、人体が「形成」されていく段階で「決定的」な役割をしないと言えるのか?
つまり、それを決定的に分割する「方法」がないのだ。
DNAとは、人間を構成している「タンパク質」を生成する過程で使われる「情報」である。DNAのある部分が、そのようなタンパク質の生成過程を発動することを命令する。しかし、だとするならその過程で、そのDNAの「命令」を促した「何か」があるはずではないか。ではそれはなにか? 言うまでもなく、そのDNAが浮遊している細胞内の「環境」の何かである。
DNAの動作が、その細胞内の「環境」に依存するということは、環境の「変化」が人間の

  • 形成過程

に大きく影響することを意味する。ある瞬間に、どこのDNAが発動するかは、その時の細胞内環境の分布に依存する。その分布の違いによっては、それぞれの生成過程でのDNAの発動の「種類」は違っているかもしれない。
このことは、コース料理を注文する比喩で考えられるかもしれない。DNAとは、それぞれの「単品」の料理を作る「レシピ」と考えられるが、それらはコース料理「全体」を作るレシピではない。ではそれは何か、といえば

  • 自然

と名付けることしかできない。受精卵が産まれ それが自己増殖していく過程そのものは、なにか「メタ」の視点で「設計」されたものではない。これは、「自生的秩序」なのだ!
しかし、そのことは何を含意しているのだろう?
さて。「あなた」は実在するだろうか?
なにを馬鹿なことを言ってるんだ、と思うかもしれない。当たり前じゃないか。事実、こうして、ここにいるんだから、と。しかし、ある意味で、「生物分類学」や「生物系統学」は、こういった問題を真剣に考えてきた。
「あなた」が実在する、と言うとき、問題はその

  • 個物性

のことを言っているのではない。個物としての「あなた」がいることは自明なのだ。そうではなく、ここで問題にしているのは、人間を「生物種」として考えることの妥当性にある。
「あなた」は人間である。しかし、そもそも「人間」を

  • 定義

できるのか? 当たり前じゃないか。なにを言っているんだ、と思うかもしれない。事実、「実在論者」は、そもそも

  • 概念

  • 実在

する、と言っているのだ。つまり、実在論者においては、内包的な定義が「可能」であることと、「実在」はほとんど同値のことだと解釈される。実在論者にとって、それは「今」どうなのか、ではない。はるか未来において、「定義」されるのなら、その定義が今あるかないかは大きな問題ではない。それは

  • 自然科学

が今は「真実」に辿り着けていないとしても(ラプラスの悪魔にはなれなくても)、はるか未来の「千年王国」において、それを達成できるなら(その予兆、つまり、奇跡の萌芽を神の恩寵として受け取れるなら)、この二つを区別しないわけである(まあ、典型的な、デイヴィッドソンの「合理性」問題ということになるかw)。
グールドがこだわったように、恐竜の大絶滅が起きたような、隕石の地球への衝突が起きたとき、急激に地球の「環境」は変わる。すると、生物はどうなるだろう? 人間の受精卵からの「生成過程」において、上記で示唆したような、

  • コース料理

のレシピの

  • ルート

が変わってしまうわけである。普段なら、あるDNAのタンパク質の生成の後は、別のDNAによるタンパク質の生成が行われるはずだったのに、環境の変化によって、そのタンパク質を生成する種類の材料の何かが足りなくなっている。すると、その部分のDNAは

  • 発動

しないわけだが、この「コース料理」レシピは、それであきらめたりはしない。なにか、別のDNAの個所が、別の物質の存在によって、起動され、それを

  • 代替

してしまう。しかし、ここで大事なことは、これによって代替されているのかどうかの前に、

  • ルートが変わってしまっている

ということなのだ! 違うルートを辿るということは、それによって形成される、タンパク質の「構成物」が違うものになっているのですから、当然、

  • 表現型が違っている

わけです!
さて。これは「同じ」人間なのだろうか?
生物系統学において、「同じ」生物の定義とは、「セックスして子どもが産まれること(または、これを繰り返せること)」となっている。しかし、この定義には欠点がある。それは一つは言うまでもなく、セックスしないと分かんないということで、実際には使えない規準であるということと、そもそも「世代」を超えて比較ができない(過去の人とも、未来の人ともセックスができない)ことであり、ようするに本質的に、時間軸を超えた「比較」の是非を最初から認めていない、ということなのだ。
また、単細胞生物を考えてみると、そもそも性別がないし、どこまでも「分裂」をしていってDNAは同一のままだし、いや、というか、まったく違った、他の単細胞生物と、当たり前のように

  • DNAが「混ざる」

なんてことも日常的に起きているわけで、そもそもこういった「生物」は、上記の定義からは一体、どっからが「同じ」で「違う」のか、さっぱり分からない、というのはあるわけであるが。
例えば、隕石の衝突から、恐竜の絶滅の後の、さまざまな哺乳類の種類の「大爆発」のようなことがなぜ起きたのかと思われるかもしれないが、一般的には、中立説という考えで説明されるようである。ようするに、上記のコース料理のレシピの「ルート」の変化が、環境の大変動によって起きたことで、DNAの今までは発動していなかった個所が、使われるようになったため、となるのだが、大事なポイントは、そのコース変更がDNAレベルでの、その種内での「一般化」が普及していたから、

  • 一斉

に、その「変化」が起き、まるで「種」の変化のように保存される、というわけで、こういった「爆発」的な種の変化が、中立説の特徴、ということになる。
しかし、よく考えてみてほしい。もしも、こういった「変化」がそれなりに日常的に起きているとしたら、と。
この場合の「内包的=概念的」な「定義」とは何を言っているのか?
上記で引用した、遺伝子検査を考えてみましょう。これは「統計」です。しかし、こういった「変化」が起きる前と起きた後では、その統計結果は違うんじゃないんでしょうか?
こういった問題に悩み続けたのが、生物分類学だったと言えます。生物を分類することは通常の場合、ほとんど「直観」によって自明のように思われます。しかしこれは「分類」です。ここで問われているのは、その分類が「本質的」なのか、なのです。当然ですが、分類学

  • 境界値問題

に悩まされました。つまり、どっちなんだか分かんない、「微妙」な奴らが自然界には、なんやかんかといるわけです。これらを、どうしたらいいんでしょう? 一般的な人はこう考えるでしょう。そんな「例外」は、無視すればいいんじゃね、と。しかし、そうでしょうか? なぜ、こんな「奇妙」な奴がいるのか? それは、むしろ、こっちの方が

  • 本質

だ、ということを言っているのではないのでしょうか?
ここまで議論してきたことは、「生物種」の「実在=存在」の問題でした。そして、実在論者にとって、このことは、「生物種」を「内包的=概念的」に

  • 記述できる

ことと同値の問題でした。しかし、この問題に、こと、生物学者たちが異論を唱えているわけです。
しかし、実在論者の言いたいことも分からなくはないわけです。事実、ここに私たちはいて、人間という「生物」がいることを疑っていないし、事実、その「区別」に苦労していないわけですから。
そこで、この問題は、そもそも違った「アプローチ」による解決がなされるべきなのではないか、と考え始めたのが、生物系統学者です。
ようするに、ここで「生物種」の概念を云々するのではなく、その

  • 歴史性

に注目すべきなのではないか、と。ある人がいます。その人は、だれか男の人と、女の人が、いつかどこかでセックスをしたから産まれました。では、その二人はどうかといえば、まったく同じです。つまり、ここに「系統図」が生まれます。つまり、これこそがこの「分類」の

  • 本質

だと考えるわけです。ある二人の人間がいるとする。もしも人間が、ある一体の生物から分岐してきたと考えるなら、その二人は、どこかの時点で「同じ人」から分かれて、それ以降、交わることがなかった、という地点があるはずです。では、それはどこか? その「分布」の近さ遠さを、「DNA」の分布から推測する、というわけです。
しかし、である。
この考えは、かなりラディカルな主張になっている。つまり、「生物種」といった考えを

  • 放棄

しているとすら受けとれるのだから。
言うまでもなく、聖書に「神」が登場して、その神が「語りかける」のが「人間」です。いや、神は「人間」に向かって「人間」と呼びかけるし、そう呼びかけることに神は何も疑っていない。ようするに、キリスト教の「信仰」において、「人間」はその

  • 概念

において「存在しなければならない」わけです! つまり、上記の生物系統学的なアプローチは反信仰的な考えということになるでしょう。
私は、ある問題の周辺を、ずっとぐるぐると回っているのかもしれません。なぜ私がこの問題にこだわり始めたのか? それは、

  • 世界は「決定」しているのか?

に関係していました。
例えば、ニーチェを考えてみましょう。運命愛、永遠回帰。これは、インドの慣習的な思想ですが、世界が「繰り返す」ということの意味は、これから起きることを予言できる、ということです。そしてそれは、以前と「同じ」だから言えるわけです。超人もそうです。ニーチェの言う超人は、「貴族」ということですが、この概念には近代以降におけるような、「階級」的なエリート主義のような鼻につく高慢さは(ニーチェに言わせれば)ない、とされています。その意味は、産まれたときにはすでに

  • 遺伝子

として、その「人」そのものは「決定」している、という考えに関係しています。決定しているということは、そこに「順序」があるということです。だれかがだれかより「優れて」いる。ニーチェ主義者は、古代ギリシアにおける「貴族」たちは、そのことを

  • そのまま

の意味で、「喜んだ」と言うわけです。自分には「才能」がある。だれかよりも「優れて」いる。そして、そのことは自分は

  • 社会に貢献できる

ということでもあるわけで、他の村の人々よりも、より「価値」のある存在だ、ということになるわけで、「それ」が嬉しいわけです。
ニーチェはこう言います。たんに事実として、人間が他の生物に比べて「優れて」いることに対して、人間に産まれて「良かった」と思うことは、

  • 素直

な感情だ、と。そして、なぜ「キリスト教道徳」はそれを卑屈に咎めるのか、と。
しかし、である。
こういったことを主張するニーチェの思想の根底には、やはり上記の「決定論」がある。それは、キリスト教プロテスタンティズムカルヴァンの予定説が象徴するような

が、逆に、自然科学の「物理学的還元論」「物理学的決定論」を、証明「しなければならない」ものとして、強迫観念的に追い詰めていく。
ここで、もう一度、「遺伝」の「定義」のようなものを整理しておこう:

  1. 遺伝は「相関関係」であり、因果関係ではない。
  2. 遺伝における、DNAと表現型は、「多対多」であって、ものによっては「無対多」なのかもしれない。
  3. 遺伝は、DNAではない母体内のさまざまなものを受精卵が「引き継ぐ」ことによって、その発生に影響する。

ようするに、遺伝学において、メンデルの法則は、あまりにも分かりやすすぎたわけで、その「幻想」が多くのロマンティックなDNA一元論的な仮説を牽引してきた。
上記の引用における「遺伝診断」でもそうだ。まず、あるDNAの「プログラミング的な」並びと、表現型は究極的な意味で「相関関係」でしかない。そもそもそれを証明する方法がない。それが分かるとか言っているのは「神の視点」を導入してしまっている。ようするに、因果関係と呼べるような

を生物学では掴まえられないのだ。しかしそうすると、化学的にアプローチすれば、とか物理学的にアプローチすれば「科学の真実」に近づける、と喚き始める。もちろん、そういったアプローチで、ある特徴が分かることはある。しかしそれは、その生物の「全体」を理解するということでは、どうも違っているわけである。
こういった物理的化学的アプローチは、やればやるほど、ひとたび「生物」というものの全体の特徴を理解しようとするときには、なにかすり抜けていくような、あわを掴むような、本質から離れて行ってしまっているような、それじゃない感が漂ってくる。もちろん、物理的化学的アプローチは徹底的にやるべきだし、そこから分かってくることは当然ある。しかし、それは「生物」を理解するかどうかはともかくてして、あくまでも、「物理的化学的」対象の研究だと考えるべきなのだ。
というか、そもそもそうでなかったら、「生物学」などという分野は必要なく、すべて、「物理学」「化学」でいい、ということになるではないか。物理学、化学でない、なんらかの秩序や構造を考えるのだから「生物学」なのであって、そもそもこの

  • 還元主義

がうさんくさいのだ...。