東京とは何か?

2020年度から大学の英語入試の方式が大幅に変更になるそうだ。「読む・聞く・書く・話す」というわけであるが、民間の英会話教室の力を借りて、「聞く・話す」を「テスト」しようということなのだろうが、さまざまな批判が行われている。
日本の英語教育は、基本的に「読む・書く」しかやってこなかった。しかし、これは非合理なことなのだろうか? というのは、日本で生きて生活をしている限り、「聞く・話す」の機会もなく、需要もなかったからだ。
日本は、フィリピンなどと違い、英米の植民地だったわけでもなく、上の階級にあがるのに、英語が必須だったわけでもない。そもそも、大学でされ、日本語で授業をする。この環境で、「聞く・話す」ができるようになると思う方がどうかしている。
しかし、逆に言えば、「聞く・話す」は、その必要さえでてくれば、必然的にできるようにならざるをえないわけである。アメリカで暮らすようになればそうであろうし。
なぜ、今までの日本の英語教育が「読む・書く」に特化していたのか。それは、単純に言えば、大学で英語の論文を読むためだ。読めないと、学問にならないからだ。つまりは、この「基礎」を重視していた、ということであって、これにはこれで一理あるわけである。
さて。
多くの日本人があまり知らないこととして、ここ2年ほどで日本への、中国、韓国、台湾からの「観光客」が2、3倍に増えている、というのがある。
素朴な話として、「なぜなのか」というのがあると思う。おそらくは、端的には、いろいろな面で旅行がし易くなっているのが大きいのだとは思うが、ようするに、なぜそんなに人数が増えるのか、というところに集約されているのであろう。
さまざまな側面があると思うが、端的に、海外の方が日本で「働く」というケースが増えている、というのは間違いない。多くのコンビニや、ファーストフード店で、海外の方を見かけるようになったものその一つで、現在国会で議論がされている、研修制度なるものも、多くの外国の方が日本に来ることになっている一つであることは間違いない。
こういった傾向は、一見すると、それまでの

  • 昔は鎖国をしていた日本

といったイメージからは大きく隔たったように思われるかもしれないが、おそらく日本には昔から、そういった「構造」はあったのだと思っている。そして、それを象徴していたものが

  • 東京

だ。戦後の日本の復興は、地方からの東京への労働者の一極集中によって実現されてきたし、それは今も変わっていないと言えるだろう。東京には、多くの企業が「本店」を置き、東京「で」意志決定をする、といった形が一般的になる。しかし、これは歪(いびつ)な形である。よって、なんらかのパッチを当てなければならない。つまり、これを「維持」していかなければならない。
その最たるものが、住宅問題であり、交通問題であった。つまり、これだけの人を「さばか」なければならない。
しかし、これは世界的に見れば、

  • 都市

の一般的な問題であったと言える。
東京が選択したのは、鉄道網の整備であった。とにかく、毎日「満員」なのだから、本数を増やすしかないし、路線も増やすしかない。そしてこれが、途切れることなく、ずっと続けられてきた。
なぜ自動車でなかったのか? まあ、言うまでもないだろう。東京で、そんな人数が自動車を運転できるほどの道路がないわけである。とにかく、人の移動は鉄道で行うしかない。しかし、いくら作っても作っても、きりがない。後から、また、外の人が入ってくる。
しかし、このことは逆説的ではあるが、日本の

を推進した、とも言える、というのだ。

カナダでは、車を運転できないと自由に行動できず、ずっと両親の世話になっていました。東京の公共交通機関は、実はバリアフリーの観点からはたいへん素晴らしく、日本に来て「自由になった」感じがしました。
外国出身で障害者、二重マイノリティーが見た日本 「ガン見され…」 - ライブドアニュース

そもそも、東京は自動車社会を維持できなかった。よって、東京で自動車に乗っているのは、仕事関係か、富裕階層となった。他方で、そもそも鉄道とは、鉄道会社の「利益」に関係して維持されているに過ぎない。満員で儲かれば、本数を増やすし、路線も増えるが、逆であれば、一気に衰退する(それは、地方の実情に現れている)。
東京は今も、満員電車だらけである。それが非人間的と言うことは簡単だ。東京の人口一極集中を止めればいい。まったく正論だ。しかし、現実として、こうして膨大に流入してくる人の数があり、作っても作っても、朝夕の満員電車の現状があり、しかし、他方において、この人口の層の厚さが、上記の引用にあるような

を可能ともしている...。