絓秀実『「超」言葉狩り宣言』

この、1994年の初版の本について語ろうと思うのは、ここでとりあげられている問題が、むしろ

  • 現在

論じられている、「言論の自由」の

  • 原点

のような議論が見られるからだ。そのことは、別に「偶然」ではない。なぜなら、こういった「言論の自由」を主張している人たちが、ここで問題になっている

の「ファン」であったりするわけで(そのことは、広い意味での「SFファン」であることを意味している)、おそらく、彼らにとっても意識的であれ、無意識であれ、「繋がっている」と考えるべきなのであろう。
掲題の本で著者は、筒井康隆の短編小説「無人警察」に関連した

の総括を行っている。

彼女たちは、ここぞとばかり、最近のジャーナリズムにおける言葉の「規制」を嘆いています。確かに、「規制」にはとんでもないものが多々あることを、ぼくも知らないわけではありません、しかしそれなら、彼女たちはその場その場で、まず担当編集者と闘えばよいのだし、納得できないのなら----そういうことも多々あるでしょう----原稿を引きあげればよいのです(その後の対応も、いろいろとありうるでしょう)。そういうことをしないで、筒井問題が起こると、ここぞとばかり「やたらと『表現の自由』を叫ぶ」のは、醜悪以外のことではありません。筒井康隆を擁護する側の人たちは、日本的なジャーナリズムの環境では、なかなか編集者と闘えない(「闘う」と、仕事がこなくなる)と言って、"言葉がり" の責任を、自主規制するジャーナリズムの側にではなく、「差別糾弾」の側(たとえば、部落解放同盟)に転化する場合がありますが、本末転倒もはなはだしいと言わねばなりません。

掲題の著者は、そもそもの話として、筒井のケースについて論じる前に、筒井のケースを奇貨として、「表現の自由」をまくしたてる「ジャーナリスト」たちに

  • そもそもお前は「当事者」として現場で「戦った」のか?

と問いかけるわけである。しかし、これは私たちが、BTSの「原爆Tシャツ」の議論が行われたときでも、ラノベ二度目の人生を異世界で」の問題が議論されたときも感じていた「いらだち」なわけで、そんなにこの処置が不満なら、表現者自身が、

  • 現場で闘え

ばいいんじゃないのか、と言いたくなるわけである。BTSはミュージックステーションには二度と出演しない、と宣言すればいいし、ラノベ二度目の人生を異世界で」の作者も、この出版社から今、出版しているラノベの原稿を全て「ひきあげ」て、別の出版社に売り込みに行けばいい。
そんなことができるわけがないと思うかもしれないが、それが「言論人」として生きるということなのではないか?

無人警察」における「癲癇」記述について、それが差別的表現であるという日本てんかん協会の指摘は、それ自体としては、全く正しいものでしょう。簡単に言えば、筒井は癲癇という病気について無知だったというに過ぎません。そして、無知だったということについては、それを知ったなら----ひとは知らないことなどたくさんあるのですから----率直に謝罪し訂正すれば済むはずです。てんかん協会が要求していることも----当初はいろいろと過剰な要求や糾弾があったようであり、そのことに筒井康隆も過剰にナーヴァスになったようですが----基本的にはそのレヴェルのことのように思われます。

掲題の著者は、筒井の「てんかん問題」とは

  • これだけのこと

だと主張する。つまり、これは、たんなる「知識」の話に過ぎない、と。だとするなら、なぜこの問題はこんなに「もめた」のか?

この意味において、てんかん協会が自らの批判を文学レヴェルのものではないと自己限定していることは、間違いです。ぼくの考えでは、てんかん協会の側の謝りは、自らの提起を、非=文学的なものと自己限定したところにあり、この度の議論の混乱の一端もそこにあります。
てんかん協会は、そのことによって、「差別」と「(文学)表現」という、あの惰性的な対立項を回帰させてしまったのです。"確かに差別は悪いが、筒井の作品はそれをこえる文学的=芸術的な問題だ"という言説が、筒井の「断筆宣言」以降、たとえば小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」をはじめとしてあちこちからなされた理由は、てんかん協会も文学を何か特権的なものと思っているところがあるからではないでしょうか。

最近の報道によりますと、てんかん協会は十一月(九三年)に開いた全国大会で、筒井に対する批判を教科書問題に限定したと伝えられています(協会内には、それを不満とする意見もあったようですが)。しかし、このような処置も、これまた誤りであることは、以上述べたところからも明らかでしょう。

私も基本的には、ここに、それ以降のこの「差別」問題に対する、非常に大きな禍根が残ったんじゃないのか、と考えている。
てんかん協会は、本来なら、最後まで、筒井の「無知」を問題にすべきだった。しかし、彼らは、その姿勢を貫けなかった。彼らは、この議論の過程で、筒井が主張していた

  • 文学(芸術)の「聖域」性

を結果として認めてしまった。そして、それを象徴していたものこそ、この「てんかん問題」を、あくまで「教科書問題」に矮小化してしまうことであった。
ようするに、どういうことか?
日本の「差別」闘争は、ずっと、この時の「撤退」行動に呪われているのではないか? これ以降、筒井信者を中心として、「表現の自由」を、

  • 文学(芸術)の「聖域」性

と同一視し、そしてそれを

  • 不謹慎

の絶対的肯定、といった方向で解釈する、いわゆる「オタク」論が90年代、そして、00年代を通して隆盛を極めるようになる。そして、この傾向性は「サイコパス」を、功利主義的な解釈のもとで、肯定していこうといった「ラディカリズム」と深くからまって進むことになる。

てんかん協会が要求すべきなのは----もちろん本の回収・絶版ではないでしょうが----流布されている全ての「無人警察」について、筒井の自己批判の添付を求めることでしょう。

この指摘は確かに、現在の筒井のこの短編小説では実現されてはいないが、多くの作品において「一般的」になった

  • 作法

だとは言えないだろうか? 例えば、古典作品には、どうしても現在の視点からの「差別」用語が見られることがある。しかし、だからといって、この作品が日の目を見ないことが正しいのかは別だ、とは言えるわけであろう。だとするなら、この「添付」という形で、あえて「断る」形で、作品の出版を行うスタイルは、多くの作品で見られるようになっている。
さて。
掲題の本を全体として読むと、著者の関心が「全共闘世代」から始まっていることが分かるし、つまりは、さまざまな

  • 差別闘争

と、この「表現の自由」問題が、ほとんど同値のこととして扱われていることが理解できる。しかし、そういった視点で考えたとき、現在、主にツイッターで行われている

  • オタク

の「性的な表現物」を巡る論争において、そもそも

は自明なまでに存在するとして、この

  • <絓秀実>側

の論陣をはっている人がどれだけいるのか、と疑問に思うわけであるが、そもそも、この本を読んだことがある人って、どれだけいるのだろう?

「超」言葉狩り論争

「超」言葉狩り論争