カントと「反カント哲学」

少し歴史的な哲学の話から始めてみたい。
私たちが「哲学」と言うとき、そのほとんどは「ニーチェ」のことを言っていると考えてよいだろう。しかし、このことが何を意味しているのかを考えるとき、この話は少しも自明ではなくなる。
さて。ニーチェは何を言ったのか? それは一言で言えば、

  • カント批判

であった。ようするに、どういうことか? これ以降、哲学とは

  • カント批判

のことと相場が決まっているわけである。

  • 哲学=カント批判

なぜ、そうなったのだろう? そのことを考える上でも、ニーチェのカント批判とはなんだったのか、が重要になる。ニーチェは確かに、カントを批判した。しかし、このことを本気で信じている人はいない。というのは、ニーチェは、まず確実にカントを読んでいなかったから。というか、ニーチェはカントがよく分からなかった。ニーチェが読んでいたのは、カントではなく、

  • ショーペンハウワー

であった。ようするに、どういうことか? ニーチェのカント批判は、ニーチェが「ショーペンハウワーの本の中に見出したカント」の批判であって、ようするに、ニーチェとは

  • ショーペンハウワーの「口パク」

なのだ! しかし、そのことが何を意味しているのかは重要である。ショーペンハウワーは確かにカントを批判した。しかし、その場合、ショーペンハウワーがこだわったのは

  • 仏教=東洋哲学

なのだ! ショーペンハウワーはカントを「東洋哲学」の視点から批判した。では、東洋哲学とは何を主張しているのか?
それは、インド哲学そのものなわけであって、ようするに

  • 科学

である。「悟り」とは「科学」である。神経科学である。脳の中で起きている現象である。ようするに

  • 物質

である。カントは、この一点において、

  • 時代遅れ

だとショーペンハウワーはカントを考える。人間は物質であり、物であり、自我であれ、意識であれ、主体であれ、

  • 物質から生まれる

と言っているわけである。カントは、人間のこの、物質と魂の

  • 連続性

を無視した。よって、その一点において、カントは批判されなければならない。カントは東洋哲学によって「乗り越え」られなければならない。こうやって考えてみると、確かに、ニーチェの言っていることって、「科学主義」なんだよねw 人間は物質だ。カントの言う、主体だとか、自由だとか、啓蒙だとか、人権なんて

だ。そして、こういった「態度」を、ニーチェ以降、宗教と対立する形で「哲学」と呼ばれるようになる。
こうやって考えてみると、見事にこのフレームにはまるんだよね。ヘーゲルはヴァガバッドギーターなどのインド哲学を非常に意識していたことが分かっているし、ハイデッガーは、三木清が彼のもとに留学しているわけで、日本の禅を強く意識している。
そして、この流れは、分析哲学や科学哲学のクワインの「自然主義」であり、「実在論」と完全に直結している。
こういった一つの「流れ」を見て、なにか違和感を覚えないだろうか? そう。一つだけはっきりしていることは、彼ら全員が

  • カント批判

にこそ、全勢力を注いで取り組んできた、ということなのだ!
うーん。
なんで、こんなんことになっちゃったんだろうねw おそらく、この滑稽なまでの「喜劇」を引き起こしているのは、ショーペンハウワーの「カント解釈」なのだと思っている。つまり、彼ら全員に言えることは、全員、カントを仮想敵にしていながら、彼ら全員に言える共通の特徴が

  • ほぼ間違いなくカントに<無関心>

だということなのだ! 彼らはカントを読まない。読まないのに、カントは批判したい。おそらく、彼らは「ショーペンハウワー」について語りたいのだ。もっと言えば、彼の「カント論」を語りたい。そして、ずっとそれを続けている。
上記では挙げなかったが、もう一つ、同じ現象がうかがえるのが

である。彼ら功利主義者も「カント」を仮想敵とする。おそらく、ここに、この問題の「本質」があるのだろう、と考えている。
ところで、最近、社会学者の宮台真司先生は以下のように、

  • 福祉は無理

を主張する。

宮台:後で出てくる議論だと思うんだけれども、いわゆる、ネオリアクショニストたちっていうのが、要は、民主主義というのは、もう終わりだと、なので、僕と同じ動機ですが、民主主義はもはや終わりだということを明かしするためにトランプが勝つ必要がある、しかし、トランプが勝った暁には、やらなければいけないことがあって、民主主義が終わった後、もはや、再配分はできない、したくもない、しかしそうすると、秩序が保たれなくなってしまうかもしれない、だったら、テクノロジーを使え、っていうのが、ピーター・ティールって、新反動主義者の中核にいるIT長者ですよね。彼等が言う技術っていうのは二つの方面があって、一つは、インターネットを含めた、ネット環境、サイバー環境。まあ、ゲーミフィケーションとも言ってもいいし、拡張現実、仮想現実の世界。で、もう一つは、まあ、カナリスですね。大麻、ですよね。で、こういう、ドラッグの技術や、ITの技術を使えば、再配分、つまり、物やリソースを、貧しい人に配るという、これから、ますます不可能になることをやるまでもなく、人々はハッピーになれる、と。ね。映画で何度か描かれてきた世界。そういう流れの中に、インターネットが入っているということを考えると、神保さんの言う、たらればを言ったところで、どのみち、これ、今、人文系の最先端の話題になっている、統治コストがどんどん上がっていくので、統治コストを下げる必要から、テクノロジーを使う。テクノロジーを使うと、民主主義が機能しなくてもいい、っていう話になる。あるいは、民主主義を機能させるために、あるコスト、教育のコストとかね。さまざまな、アドヴォカシーのコストとかも、もう、たまらん、無理、って、主張している人たちがいるってことだよね。そう考えると、インターネットがもともとけっこう、全体としては、そういう流れの側に加担しているかなって気がしていますよね。
VIDEO NEWS トランプ現象は着実に進行していた

宮台先生は、もともと昔から「天皇主義者」を自称している。しかし、天皇主義者は、その本性からして、

  • 天皇の「世界一強い」軍隊

の必要性と切っても切れない関係にある。宮台先生は、また「重武装主義者」だと言っているわけで、このことがそれを証明している。
しかし、「重武装」をするためには、どうしても

  • 邪魔

なものがある。それが、

  • 福祉

である。日本の軍事費を上げる方法は簡単で、

  • 福祉

を止めればいい。消費税を上げて、

を行えばいい。「消費税増税」賛成派なのだから、堂々とそう言えばいいんじゃないか? 宮台先生は金持ち増税に反対だ。なぜなら、金持ちを増税したら、お金持ちが日本から逃げてしまうから。それが「グローバル・スタンダード」なのであって、このルールは天地がひっくり返っても変えられないのだそうであるw
こんなことを、東京の高級住宅街に住んでいる、富裕層の代表である、大学教授に言われたくないよね。
上記の引用で、

  • 反左翼

が何を言っているか? これが「功利主義」である。大衆は

の対象である。大衆を絶対に「政治の意志決定」に関わらせてはならない。つまり、上記の引用にあるように「民主主義」は否定されなければならない。では、大衆の民主主義を「奪う」代わりに、彼ら

  • エリート

が大衆に与えるのが

  • VRとドラッグ

である。どういうことか? これが「最大多数の最大幸福」である。エリートは大衆を

  • ハッピー

にする。ドラッグで薬づけにして、バーチャル・リアリティで、現実にはありえなかった「幸せ」な人生を追体験して、大衆を

  • ハッピー漬け

にする。これが「功利主義」であるw
最初にも言ったように、「反カント主義者」である、実在論者たちは、結局のところ、人間は

  • 物質

だと考えている。だから、どういう形であれ、「快楽物質」を脳にあふれまくれさせれば、それが「幸福」の

  • 定義

なのだ! この一点において、エリートによる大衆の「奴隷化」は

  • 正当化

される。
例えば、ポストモダン哲学者のリチャード・ローティの晩年の代表作の『偶然性・アイロニー・連帯』について、その日本語の「訳者あとがき」で、彼の主張を、以下のように、まとめられている。

ローティの議論の問題は、彼が、公共的コミュニケーションを共役可能な語彙にのみ関係づけ、そこにおよそ創造----新しい語彙の創出とそれによる政治文化の革新----の契機を見ていないという点にある。新しい語彙、革新的なメタファーの創造は、一部のアイロニストのみがなしうる事柄として描かれ、他方、それ以外の人びとには、アイロニストが創造した語彙を受け容れるか否かという受動的な役割だけが与えられる。
(「訳者あとがき」)

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

まあ、ローティの「大衆」侮蔑がよく分かるであろう。彼のエリート主義は、エリートが

  • 詩人

として、この世界を「ひっぱる」という形で、一切の大衆の「不要」を証明する。大衆は

  • 受容するだけ

ということは、上記の

と完全に対応する。頭を使って考えるのは、一部の「エリート=詩人」だけでいい、というのが彼の「ユートピア」なわけである。
ところで、現在地上波で放送されている、アニメ「ソードアートオンライン」は、ラノベ「アリシゼーション」編が放送されているが、次回はこの作品でも非常に重要な回となる。
というのは、このVR世界の「ルール」に関係して、ある事件が起きるからだ。
このVR世界は、キリトを除いて、すべてがAIであるが、その一つの特徴として、それぞれのAIが

  • 産まれたばかりの「幼児」段階

から、その人生を始めて、基本的に人間と同じように、寿命を迎えて亡くなる、ということだ。もちろん、その間に、各AIは男女であれば、結婚をして、子どもを産んで、育てる。
ようするに、この世界は「全体」が、人間社会を模して作られていて、そのようにして社会全体が「成長」するわけである。
しかし、この世界を特徴づける、ある特徴がもう一つある。それは、「禁忌目録」と呼ばれているものに関係しているもので、ようするにこの社会には

  • 自然化された「ルール」

があるのだ! しかし、ここで言っている「ルール」は、どうも現代社会でそう呼ばれているような「ルール」とは違っている。まず、

に、各AIは、このルールに逆らえない。つまり、そもそも、この「ルール」は、まるで、コンピュータがそう「プログラミング」されているかのように、この行動をとれないように「作用」する。各AIは、なんらかのトラブルで、そういった行動に強いられそうになると、VRの「アラート信号」が視覚に表示されるし、実際に不快になり、なんとかして避けようとする。
ようするに、こういった「ルール」は、どうも各AIが言語を習得していく、幼児期の段階で、親からの「命令」という形で内面化されるわけだが、それが、ほとんど「プログラミング」での、「コンパイルエラー」にも匹敵するような形で「内面化」されているわけである。
しかし、この例外となる場合がある。それが主人公のキリトで、彼だけは、VRとして、この世界に外から「参加」しているに過ぎない。外の記憶をもち、彼には、そういった「禁忌」のシステムが作動しない。
この世界には確かに、禁忌目録という「ルール」はある。しかし、そもそも、本当のなんらかの「偶然」でもない限り、このルールが破られないわけである。なぜなら、上記の「内面化」がされているから。
ところが、例外がある。それが「キリトからの影響」である。キリトと関わった人たちは、少なからずキリトの「心」に影響を受ける。どうしても、この「禁忌目録」と、

  • それよりも大事なもの

との比較を、キリトの「行動」によって強いられてしまう。そして、深い内省を行ってしまう。
このVR世界は、一見すると「完璧」のように思われる。なぜなら、これだけの「完璧」なルールがはりめぐらされているから。ところが、実際には、多くの人たちは知っている。この世界が何如に

  • 堕落

しているか、を。それは、「上級貴族」と「大衆」の対比において現れる。禁忌目録は、決定的に「上級貴族」を大衆に対して

  • 上位の尊さ

を強制する。よって、常に、大衆は「上級貴族」をあがめたてまつらなければならない。
しかし、ここに「矛盾」がある。
キリトとユージオは幼ななじみの、地元も同じ、仲間である。当然、休みの日には、同じ寮の部屋で、暑ければ、上半身裸で過ごすし、足を中心とした「マッサージ」を行う。
言うまでもなく、これは、禁忌目録によって許されている行為である。
しかしこれを、上級貴族のウンベールとライオスが、下級貴族の令嬢である、ロニオとティーゼに「強い」たなら、どうなるか? 本質的に、上級貴族を下級貴族は「尊敬」しなければならない。つまり、なんらかの「悪意」が「証明」されていない限り、彼らの「意図」を疑うことは許されない。
キリトとユージオの間で「許される」ことが、なぜ、ウンベールとライオスに対する、ロニオとティーゼの関係において許されない理由があるのか、と考えると、そう簡単ではないことが分かる。
ウンベールとライオスが、キリトとユージオに、なんらかの「復讐」を行おうとしていることは分かっている。よって、これは「挑発行為」の一環であることは分かっている。
ウンベールとライオスという「鬼畜」によって、ロニオとティーゼが性的に汚されることを、禁忌目録は「禁止」できない。なぜなら、そういう「ルール」がないことと、そもそもウンベールとライオスが

  • 上流貴族

というように、そもそもの大衆に対する「強制」を行う権限を与えられた存在であることに関わっている。ここに、この世界の

  • 腐敗

が決定づけられる。
なぜ、こんな矛盾が起きるのか?
それは、キリト自身が言っていたように、そもそも「貴族」とは

  • ノブリス・オブリージュ

によって正当化されている存在だからだ。それは大衆においても変わらない。この社会は、そもそも、ノブリス・オブリージュがなければ成立しないようにできている。もしもそうでなければ、功利主義のように、人々は、さまざまな手練手管を尽して、相手を奈落の底に突き落とすことに、耽溺するゲームにふけっているであろう。
まったく同じことが、VR世界ではなく、この現実世界についても言えるだろう。タックス・ヘイブンが、あれだけ問題だと言われながら、今だになくならないのは、この社会が上級貴族によって

  • 腐敗

しているからであるし、GAFAの世界中の国々での脱税行為が、何度も繰り返されるのも、同じ理由であろう。
しかし、これはそんなに「驚く」ことなのだろうか、とは言いたくなるわけである。
というのは、こういった結果は上記における

  • 反カント主義者

たちの主張の、必然的な帰結なんじゃないのか、と言いたくなる。
功利主義者は、人々を「ハッピー」にすればいい、と主張する。しかし、こういう考えに反対していたのが、カントなのだ。
カントは、こういった「ハッピー」の

を「批判」する。そして、それに代わるものとして、

  • 自律

を代替する。カントは「ハッピー」が

であるという考えを批判しているわけで、そのことは、反カント主義者が、人間を「物」と同一視すること(だから、大衆を「奴隷化」することを正当化できると考えていること)を受け容れない。それは、そうでなければ、例えば、アニメ「ソードアートオンライン」アリシゼーション編の、VR世界が

となることを避けられないし、このことからも分かるように、そもそも、そこから導かれる「前提条件」なわけである...。