なぜこの社会は「自然化」されていないのか?

例えば、警察や消防署を考えてみよう。こういった組織(公的機関)も、他の企業と同じように、高卒や大卒の子どもたちを

  • 新規採用

しているわけであるが、戦後をさかのぼっても、こういった組織の新卒採用率が、他の企業に比べて、劇的に下がった、といったような話は聞かない。
例えば、次のような例を考えれみよう。日本人の中で、とにかく「価値」のあるとされている人がいるとする。しかし、どんなにその人が火事で死にそうでも、消防団員は、命を投げ捨ててまで、救出しなければならないわけではない。同じように、警察は、自分が死にそうになってまで、犯人と戦わない。
それはなぜか?
それは、そこでしなくても、この社会が終わったりはしないからだ。
消防団は確かに、「その人」の命を救えないかもしれない。しかし、一定のベストを尽すことによって、一定の火事の燃え広がりを防止することはできる。
警察も同じで、彼らの「防衛的」な態度は、犯人に一定の「隙」を与えて、彼らによる「被害」が一部に起きてしまうかもしれないが、概ね、計画的な対応によって、彼らによる被害の拡大は、いずれにしろ防げるわけで、むしろ、そういった一定の想定の下での、被害の甚大な拡大への防止の方により力を注ぐ態度が求められている。
例えば、ある殺人犯がいたとして、逃走中の、この犯人に対して、警察は「遠距離からの狙撃」は認められているわけで、そういった武器を、なんの苦労もなく入手し、使用できるという意味では、アドバンテージがあるが、それは

  • 相手からの反撃を想定しなくてもいい

「隠れた場所」から撃てばいいわけで、わざわざ、相手の反撃が想定されそうなところで、無理に使うことを「義務づけられている」わけではない、ということなのだ。
なぜ、これでよいのか?
それは、社会の「安定性」に関係している。「自然」とは、多くの現代社会が作りだした「システム」の防衛網を

  • 突破

した先にある場所と考えると分かりやすいかもしれない。
なぜ「いじめ」の対策が困難なのかは、その起きている内容が多くの場合に、「グレーゾーン」だから、ということになるだろう。ようするに、この状況が「極端」に振れれば、対応は明らかなのだが、長い期間、この「あいまい」な暴力行為が継続するため、いざというときの早急の判断に失敗してしまう、ということになるだろう。
また、自衛隊を考えると、その極限状況が分かりやすいかもしれない。もちろん、自衛隊も、戦中のカミカゼのように、明らかな自死を求められる場面は、ほとんどなくなっている、と考えられるであろう。しかし、訓練中を含めて、そもそも「安全ではない」のが、こういった武力行為なのだから、単純の「警察行為」とは比べられない、と考える解釈もできるだろう(ある意味で、世界中から軍隊がなくなり、警察だけになる、というのが、カントの恒久平和論の意味でもあるのだろうが)。
こういった「例外状況」を、カール・シュミットは、そもそも、憲法自体が

  • 内包

していると考えたわけだが、逆に言えば、満州事変以降の日本のように、

  • 緊急事態の「恒久化」

が起きることこそが、社会の「自然化」であり、このとき、国際連盟常任理事国であったドイツと日本が、国連を脱退した、ということの意味は、ここにあるわけであろう...。