フラット馬鹿

去年から続いていた、米中貿易戦争は、ここのところ「ファーウェイ問題」という形で、アメリカが自らの

  • 本音

を暴露し始めているのにも関わらず、なぜか日本の知識人の反応はまったくと言っていいほどない。

5Gの標準となるシステム符合は現在、次の3つが競い合っている。

ファーウェイ事件、中国の猛反撃は「この日」に行われる可能性 これは米中「技術覇権戦争」の開戦だ - ライブドアニュース

今年に入って、シンガポールに本社を置く半導体メーカーのブロードコムが、クアルコムを1170億ドルで買収することを提案した。これは史上最高額の買収劇と話題になったが、3月12日にトランプ大統領が、この買収を禁止する大統領令に署名した。2日後の3月14日、ブロードコムは「クアルコムの買収提案を撤回する」と白旗を揚げた。
トランプ大統領がわざわざ大統領令に署名したのは、「国家の安全上の理由」だった。具体的に当時、俎上に上っていたのは、もしもこの買収が成立したなら、ブロードコムを通じて、クアルコムが持っている5G関連の技術情報が、華為に流出するという懸念だった。もっと合法的に、華為がブロードコムの買収に乗り出すかもしれない。この業界では、買収合戦は日常茶飯事だからだ。
ファーウェイ事件、中国の猛反撃は「この日」に行われる可能性 これは米中「技術覇権戦争」の開戦だ - ライブドアニュース

ようするに、確かに、アメリカとファーウェイは昔からいろいろともめていて、あまりいい関係ではなかったわけだが、今起きている「喧嘩」は、まったく様相が違う、と言っているわけである。まさに、

  • 機軸通貨

の問題と同じように、次期のWIFI規格となる「5G」のプロトコルを巡って、アメリカが「実力行使」をしてきているわけで、その「外圧」によって、日本の官公庁がファーウェイ製品の使用を禁止したり、ケータイ大手3社が基地局としての使用を止めると宣言したりしているのは、

の延長にあるというところにこそ本質があるのであって、「前からあった」セキュリティ上の問題が「本質」じゃない、ということなのだ(そてが本質的なら、もっと前から大問題として過激化していないはずはないのだから)。
これでいいのだろうか?
なぜなら、「5G」の規格としてなにが選ばれるかは、純粋にその「優秀さ」において選択されるべき、という考えも、当然あるわけで、こんな「卑怯」な方法で選択されたとするなら、のちのち禍根を残すんじゃないのか、と思うのは当然だと思うからである。
しかし、私はここまで書いてきて、いや。そういった問題って、世の中に、いっぱいあるよな、と思わずにいられなかったわけである。
そういった中で、私は、たまたま、以下の本

希望としてのカント

希望としてのカント

を読んでいたのであるが、その中に、ハーバーマスによるカントの「永遠平和論」批判の論文がとりあげられていたこともあって、ああ、そういえば、当時、デリダとかハーバーマスとか、ヨーロッパの「知識人」が、こぞって、

を礼讃していたんだよな、ということが思い出されて、今彼らって何言ってんだろう、って思ったんだけどw

こうした国際立憲主義体制の構築を、ハーバーマスはカントの理論の再定式化という方法で提起している。しかし、それに伴って、ハーバーマスは一九九九年のコソボ紛争における北大西洋条約機構NATO)の、国連安全保障理事会決議なしでの空爆を、カントやH・ケルゼンの伝統につながる世界市民の権利を守るものであり、国連無視に違いはないが、コスモポリタニズムによる軍事行動である以上やむを得ないと発言し、多くの議論を巻き起こした。のちに、かなりの誤爆を生んだ空爆という手段が適切ではないと、判断ミスだったことは認めたが、カント的世界市民的見地からの国際秩序への夢がかすかにこの爆撃行動に生きているということについては譲らなかったのである。
希望としてのカント

あーそーなんだ。ハーバーマスは、なんも反省してないんだね。クズだな。
ところで、もう一つ、話ついでに「クズ」を紹介したいんだけれど、そもそもこの高田先生のこの本であるが、キリスト教の立場からカントを再評価すべき、っていう主張で、その延長で、以下の本に収録されている、ハーバーマスによるカントの「永遠平和論」批判を批評しているわけだけれど、

ハーバーマス「カントの永遠平和の理念----二〇〇年という歴史を経た地点から」

この高田先生は基本的に、ここでのハーバーマスの議論に「好意的」なんだよね。つまり、基本的には、ハーバーマスはカントの「永遠平和論」を評価している、という形で。
しかも、その筆の勢いに乗って、以下のようなことまで言ってしまう:

しかし、その構想のために哲学的・思想的資源に採用されるであろう西洋思想は、ヘブライズムの影響を受けているのはいうまでもないことである。グローバル・エシックスがカント哲学の影響を受けているのなら、ヘブライズム、特にキリスト教の影響を無視することはできない。
希望としてのカント

結局のところ、カント哲学の系譜でグローバル・エシックスを構想するのなら、宗教的観点を欠くわけにはいかない。これは、カントの思想の根底にはキリスト教的概念が存在しているからである。
希望としてのカント

もちろん、前述したとおり、宗教間の対立がグローバル・エシックスの構築を困難にさせているのも事実である。それでも、宗教を基礎としたグローバル・エシックスの方が、構築されたときにより強固なものになるのではなかろうか。
これに関連して注目すべきは、このあと詳しく述べることだが、カントはキリスト教を道徳的宗教として、他の宗教よりも高く評価している。つまり、宗教によって道徳法則を支えることを彼は考えていたのではなかろうか。様々な倫理観の基礎にそれぞれの宗教が影響しているのは、いまさらいうまでもない。もっとも、カントはキリスト教を高く評価しているため、それが現代の宗教対立と同列に語られる可能性もある。だが、カントが考えたキリスト教は、他と争うような信仰ではないことは明らかであろう。そして、宗教がナショナリズムを相対化する機能を持っていることも否定できない。
希望としてのカント

つまり、どういうことか? ここは近年の潮流である、グローバル・エシックスについての議論の流れを問題にしているわけだが、まず、高田先生は、グローバル・エシックス

を基盤にして作られなければならない、と主張する。なぜなら、上記のハーバーマスの議論からも分かるように、近年のグローバル・エシックスの議論が

  • カントの永遠平和論

をベースにしているのだから、と。そして、さらに驚くべきことに、この「キリスト教」の世界中心化が、さまざまな宗教対立をひき起こすのではないのか、の疑惑に対して、

  • だって、カントがキリスト教を他の宗教に比べて「高く」評価していたから

と。キリスト教が、平和の宗教であることは明らかだし、と言って、そういった批判を一蹴している。
あのさ。上記のグローバル・エシックスという会合が、各宗教の方々が一堂にかいして議論して、そういった宗教中立的なステートメントをまとめられたんだよね。なのに、なんでそんな卓袱台をひっくり返すようなことを言うんだろうね。
そもそも、さ。カントは、学問と宗教の「分離」を理論的に証明した人だよね。というか、この理由によって、カントが20世紀以降の中心的な哲学に位置付けられたんであってさ。それを、カントの主張の根底には、キリスト教がある、とか言い始めたら、今までの学問がみんな、平泉澄歴史学みたいになっちゃうって言ってんだけど。
こういうことを言う人、いまだにいるんだな...。
それで、コソボ紛争なんだけれど、簡単にまとめられれいたブログがあったので、参考にさせてもらったけれど:

この二つの対立は収拾がつかないところまでいってしまったので、見兼ねたNATO北大西洋条約機構)が停戦させようと介入しました。NATOがどっち側についたかというとコソボ独立側(アルバニア人)です。
もともとセルビアユーゴスラビア社会主義連邦共和国の中心であり、東側にあたる国でした。NATOアメリカやヨーロッパ諸国が加盟する西側の国です。他にも色々な事情がありますが、NATOコソボ独立側(アルバニア人)につくことにしました。
よって、NATOセルビアの首都であるベオグラード空爆を行いました。これは1999年の3月24日から6月10日までの78日間に渡って起きた空爆です。公的機関、病院、ホテル、学校、中国大使館(誤爆)などが破壊され、ベオグラードの街は破壊されつくされました。
NATO空爆によってセルビアは降参したので、コソボが新しい国として独立できました。アメリカ主導のNATOコソボの独立を手助けしたので、コソボではアメリカ&NATO万歳な文化が根付いています。実際にコソボの首都プリシュティナには、ビル・クリントン銅像やブッシュ通りなどがあります。
コソボ紛争とNATOのセルビア空爆について分かりやすく解説します!

まずさ。なんで、アメリカでありNATOが、コソボ独立派に味方したのか、なんだよね。しかし、そもそもの前提として、セルビアは「東側」だったわけでしょう。こんな「党派」的に分かりやすい

  • 暴力

ってないんじゃない? しかし、すぐに以下の、アメリカに雇われた

たちが現れてきて、いっせいに、セルビア側がコソボを「民族浄化」「強制収容所」をやっている、って、さかんに dis ったわけでしょう。

本書はアメリカの広告会社がボスニアと契約を交わし、セルビアを世界の悪としてプロパガンダ報道するまでを描いた本。ユーゴスラビア関連の本を読むなら、この本はかかせない。また、ボスニア紛争についても記事を書いているので合わせて読んでみてください。

コソボ紛争とNATOのセルビア空爆について分かりやすく解説します!

これで、いわゆる「左派」と呼ばれる、リベラル系の知識人たちが、いきっちゃうんだよね。みんな、セルビアは「悪」だ、って。コソボで、ナチスを繰り返すなって。でも、今では、お互いに似たようなことをやっていたことが分かっているわけで、あの、知識人のヒステリーはなんだったのか、ってなってるわけでしょう。

2008年にコソボが独立しましたが、未だに民族紛争の闇は深いです。私がセルビアからコソボへバスで移動している時に、セルビア人にバスへ投石されました。他にもこの民族紛争の闇の深さを物語るような、私が体感した出来事を下記の記事に書いてますので読んでみてください。
セルビアからコソボへ移動中に、セルビア人に投石された件について
コソボ紛争とNATOのセルビア空爆について分かりやすく解説します!

だから、NATOは「空爆」をやって、たくさんの民間人を殺したわけでしょう。それで、その地域は「平和」になったんですかね? ようするに、さ。おれがむかついているのが、その「知識人づら」なんだよね。知識人なら、知識人らしく、最後まで公平性を保ったら? アメリカのプロパガンダに踊らされたくせに、今だにその反省すらない。そういうのを

  • 西欧優先主義

って言うんじゃないんですかね...。
それで、まあ、私なりに一方的に怒っててもしょうがないかな、っと思って、ハーバーマスが実際に何を言っているのか、と思って、上記の

ハーバーマス「カントの永遠平和の理念----二〇〇年という歴史を経た地点から」
他者の受容―多文化社会の政治理論に関する研究 (叢書・ウニベルシタス 803)

を私なりに読み始めたんだけれど、ようするに、ハーバーマスは『永遠平和のために』を、もう時代遅れのゴミ屑だ、っといった感じで、けちょんけちょんに、けなしてんだよねw こんなもの、現代社会には役に立たない、ってな感じで。
まあ、ものすごい違和感なわけ。お前、『永遠平和のために』を読んで、言うことが、それだけなのか? って感じで。そして、そう思っていたら、ネットで

平子友長「ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判」
HERMES-IR : Research & Education Resources: ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判

というのを見つけて、まあ、このハーバーマスの論文を、けちょんけちょんにけなしてくれているんだけれど、まあ、普通に読んで、「まっとう」なことを言っているな、という感想しかなかったわけです。
まあ、詳しくはこの論文を読んでくれ、ということになるけれど、ハーバーマスがなにが問題かって、ようするにカントの『永遠平和のために』に言及しながら、この論文も、カントのテクスト自体もろくに読んでも、理解もしていない、ってことなんだよね。たんに自分が言いたい持論を展開するために、カントの『永遠平和のために』をだしにした、ってだけで。つまり、カントが何を言っているのか、それ自体に興味がない、ってことなんだよね。
そして、それで思い出したんだけれど、このブログでは、何度も言及させてもらっている、東浩紀先生の『観光客の哲学』ですけど、実は、あそこにも、『永遠平和のために』が言及されているところがあるんですよね。
でもさ。そもそも、東先生は『一般意志2.0』で、あれだけ、ハーバーマスを学問における「仮想敵」として位置付けられていたわけですよね。つまり、『観光客の哲学』を書く前に、このバーバーマスの論文を読んでるはずなんですね。実際、同じ『永遠平和のために』を題材にしているのですから。じゃあ、なんで本で触れないんだろうね? しかも、この議論が非常によく似ているんですよね(まあ、東先生も、コソボ空爆には賛成だったみたいですし、似てもくるのか、分かりませんが)。

ぼくは前章でカントの『永遠平和のために』を参照した。彼の国際体制論は興味深い想定を導入している。カントは、「国家をもった民族はひとつの人格(Person)をもつものと見なしてさしつかえないと記している。
むろんその根拠は示されない。ただそう記しているだけである。しかしその想定は、たんなる思いつきにとどまらず、カントの議論の要になっていると考えられる。というのも、糧は、複数の国家が国際社会を構成することと複数の人間が市民社会を構成することを類比的に並べ、そこから国際体制論を始めているのだが、そのような類比はそもそも国家を人間と等置しないと成立しないからである。それゆえ、同じ等置は『永遠平和のために』のほかの箇所でも顔を出している。たとえばカントは、前章でも紹介したように、永遠平和を目指す国家連合の設立のためには、構成国それぞれがまず共和国にならねばならないと主張する。この規定(第一確定条項)の意味についてはさまざまな研究があるが、とりあえずここで重要なのは、人間が大人にならないと市民社会に入れてもらえないという、ごくありふれた「おまえも大人になれ」的な話と完全に同じかたちをしているということである。カントは、人間が成熟すれば市民社会をつくるように、国家もまた成熟すれば永遠平和をつくると考えた哲学者だった。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

ほとんど「妄想」でしょw まず、ここで「Person」と言っているのは、たんなる「人間」ですよね? ようするに、これって

  • 社会契約論

のことを言っているわけでしょう? 会社が「法人」と呼ばれるように、人民と「国家」が「契約」するって、なんのことって、素朴な大衆の質問に、そのレベルに合わせて答えているだけでしょ? あれだけ、『一般意志2.0』では、ルソーの社会契約論にコミットメントしておいて、なにを言ってるんだろう?
あと、後半の「お前も大人になれ」とか、なに言ってんの? まずさ。今の、国際連合だって、北朝鮮や中国みたいに、半民主主義みたいな国も加盟していますよね。だとすると、ここはなんの話をしているのだろう?
そもそもさ。この東先生のカント論が「おかしい」のは、なんで、カントが『理論と実践』において

  • 世界共和国

について語っていることに言及しないのだろう?

カントは、『理論と実践』(一七九三)においては「世界市民的体制」の具体的イメージとして「権力を伴っている公法、いかなる国家もそれに服従せざるをえない公法に基づいた国際法」(Kant 1977:171)を構想し、^「普遍的な国際国家 ein allgemeiner Volkerstaat」(ibid:172)を導入するという格率を推奨していた。しかしその二年後『永遠平和のために』では、「一つの世界共和国 Weltrepublik という積極的な理念の代わりに...戦争を防止し、持続し、たえず拡大する[諸国家]連盟 Bund という消極的代用物のみが、法を忌避し敵意を抱く傾向性の流れを押さえることができる」(ibid.:213)とトーン・ダウンさせたことを、ハバーマスは、次のように批判している。
(平子友長「ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判」)
HERMES-IR : Research & Education Resources: ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判

ようするに、ハーバーマスはカントが矛盾している、『永遠平和のために』で「ひよった」と言いたいわけだけど、いずれにしろ、東浩紀先生が、カントやヘーゲルが「国家」に縛られていた、といって、代わりに今後現れる未来社会にと構想する、

  • 世界共和国

と『理論と実践』でのそれと、なにが違うの?
まあ、そういうわけで、上記の平子先生の論文の話を進めますけど、ハーバーマスが何を言っているのかということですけど、カントは現代「戦争」のような、西欧地域の中で、

  • テロ

によって脅かされるような、そういった「戦争」を思い描いていなかった。だから、カント理論は現代には「役に立たない」って。

カントが克服すべき戦争の類型して「一六四八年のウェストファリア講和条約以降、紛争解決の手段として国際法的に制度化された限定戦争」しか考えていないというハバーマスの主張は、全く誤りである。
(平子友長「ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判」)
HERMES-IR : Research & Education Resources: ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判

ようするに、どういうことかというと、それは『永遠平和のために』が一方に、訪問権について記述されていながら、他方に

  • 定住権

の問題が、かなり詳細に議論されていることを、あえてハバーマスは読み飛ばしているんだよね。

以下に、『人倫の形而上学』第一部「法論の形而上学基礎」第二部「公法」第三章「世界市民法」第六二節から三つ引用文を挙げる。

A. 「こうした濫用[沿岸を訪問するだけでなく、そこに定住しれ、そこを----植民地として----祖国に併合すること]の可能性があるからといって、すべての人との共同 Gemainschaft を試み、この目的のために地球のあらゆる場所を訪問する地球市民の権利が廃棄されてはならない。もっともこの訪問する権利は、他の民族 Volk の土地に定住する権利 ius incolatus ではない。定住する権利を得るにはある特別な契約が必要とされるからである。」(Kant 1977a:476)。

B. 「そこで次のことが問題となる。ある民族が新たに発見した土地に、その地域にすでに居住している民族と隣り合って、隣接居住 Anwohnung(axxolatus)と占有取得 Besitznehmung を企てることは、その先住民の同意が無くても許されるのだろうか。----開拓が先住する民族の居住地から非常に隔絶しているために、双方の民族のどちらかによる自分の土地の使用も他方に損害を与えないという仕方でなされるならば、開拓を行う権利には疑問の余地がない。しかし先住民が(ホッテントットツングース、大半のアメリカ諸民族 Nationen のように)広大な荒れた地域によって生計を立てている遊牧民族や狩猟民族である場合には、開拓が許されるのは暴力によってではなく、もっぱら契約による場合だけであろう。契約が結ばれたとしても、先住民が土地の割譲にうちて無知であることを利用して結ばれたものであってはならない。」(Kant 1977a:476)。

C. 「なるほどこうした暴力行為を世界のためになるとして正当化する根拠は十分にあるようにも見受けられる。一つには、未開の諸民族を開化するとか....、また一つには、堕落した人間たちを除去して自分たちの土地を浄化するとか、世界の他の地域(例えばオーストラリア Neuholland)でこの堕落した人間たちや彼らの子孫の矯正が望まれる、などと言われる。しかし、本人たちは良いと思い込んで言っているこうした意図のどれも、そのために用いられる手段における不正義の汚点を洗い清めることはできない。----これに反論して、法律のある状態の樹立を暴力でもって開始することを躊躇するならば、地球全体はおそらく法律のない状態にとどまっていただろう、ということが言われる。しかし、これによって前述の法的状態[ある土地を開拓する権利を得るためには、先住する遊牧ないし狩猟民族の契約による合意を必要とすること]を廃棄することはできない。それは、国家体制が腐敗すれば、これを暴力でもって作り替える権利も、さらには、たった一度だけ不正義をなして、それ以降は正義をれだけ一層確かなものとして確立し、開花させる権利さえも、そもそも人民 das Volk にはあるのだとする国家革命家たちの口実が、かの法的条件を廃棄できないのと同様である。」(Kant 1977a:476f)

(平子友長「ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判」)
HERMES-IR : Research & Education Resources: ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判

ようするに、さ。カントは『永遠平和のために』の中で、こういう形で「定住権」について言及しているわけ。まあ、ぶっちゃけて言っちゃえば、カントは、アメリカでの西欧人移住者による、インディアンへの

  • 虐殺

  • 略奪

を「戦争」だって言って、怒ってるわけ。
確かに、ハーバーマスは「ポスト・カント時代」だーって言って、コソボの「民族浄化」や「矯正収容所」に、エリート・パニックになって、NATO空爆に諸手を挙げて賛成したわけだよね。そして、「ヨーロッパ」が、こうやって「戦場」になった「戦争」を

  • 新しい

と言って、カントを馬鹿にしたわけ。ところが、カントはなんて言っているか? アメリカの先住民のインディアンたちは、西欧人移住者たちに

されて

に入れられた、つまり「侵略戦争」を受けた、って言っているの。ねえ、ハーバーマス。なにが「新しい」わけ? なにが、カントが「考えていなかった」戦争なわけ?
そして、これは東先生の本も基本的に同じで(まあ、東先生はカントなんて読んでないし、このハーバーマスの論文を読んで、この文脈通りに、適当に書いているだけなんだと思いますけどねw)、そもそも、『観光客の哲学』には「定住権」の問題が、徹底して無視されている。あれだけ「訪問権」について言及されながら。
そして、この本で強調されているのが、社会の「フラット化」なわけでしょう。世界は、マクドナルドのハンバーガーが象徴しているように、どこも「金太郎飴」になって、フラットになった、って。そりゃあ、フラットになったということは

  • 民族問題

がなくなった、という意味なんでしょうから、すごいよねw

従ってカントは、一七九五年以降、国際法の形式的手続きに準拠した諸国家連合の見取り図を詳細に描くことに批判的になった。しかしそれは、ハバーマスが言うように、カントが「同時代の経験の地平を乗り越えな」かったからでも、近代国家の主権性のドグマに縛られていたからでもない。カントは、国際法システム(国際連盟など)の拘束力の強化(主権国家の主権の制限)によっては対処することができないほど、途方もなく深刻な犯罪と悲劇を見据えていたからである。しかもその加害責任を負うべき者は西洋文明諸国民であった。
(平子友長「ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判」)
HERMES-IR : Research & Education Resources: ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判

ようするに、多くの人は勘違いしているわけ。カントがなんで「永遠平和」って言ったのか、を。それは『永遠平和のために』の「理念」の徹底が、先住民族の権利の問題の「解決」についてのヴィジョンを与える、と構想したから。つまり、だから、

  • 永遠平和

なんであって、それ以外ではないんだよね。
例えば、カントはこの問題と関連して、当時の中国と日本にも言及している:

しかし『人倫の形而上学』を参照すれば、訪問権は定住権との関係でのみ意味を持つ概念であることが判明する。

「われわれの大陸[ヨーロッパ大陸]の文明化された諸国家 gesittete Staaten とりわけ商業を営む諸国家が、よその土地や民族を訪問(訪問とは、彼らにとっては、訪問先の土地や民族を征服することと同じ事だと見なされている)する際に示す不正行為は恐ろしい段階に逹している。アメリカ、黒人諸国、香料諸島、喜望峰などを発見した時、彼らはそれらを誰のものでもない土地と見なした。なぜなら彼らは土地の住民たちを無と見なしたからである。東インド(ヒンドスタン)において彼らは、ただ取引上の支店の開設を意図しているだけだという口実のもとに外国の戦闘民族を引き込み、彼らと共に原住民を圧迫、東インドの諸国家の戦争拡大への扇動、飢餓、反乱、裏切り、その他人類を苦しめるありとあらゆる災害の大合唱をもたらしたのである。だから中国と日本が、そのような客人たちを試した上で、以下の措置[鎖国政策]を取ったことは賢明であった。」(Kant 1977:214f.)

(平子友長「ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判」)
HERMES-IR : Research & Education Resources: ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判

日本の明治以降の歴史を振り返ってみたとき、それは「うつ病」に近い感情だったと言うことができるだろう。欧米列強からの「開国」を迫られながら、彼らと暴力で勝つ目算が立たない。つまり、「攘夷」はできない。そんな、宙ぶらりんな状態の中、日本が選んだ道は

  • 西欧の「植民地政策」の<真似>

であった。日本は気付いたわけである。西欧列強は「植民地」政策によって、世界中を「侵略」している。つまり、「これ」を日本が真似している限り

  • 西欧列強は日本を非難できない

と。なぜなら、同じことを西欧列強も、そこら中でやっているから、というわけである。そこで、日本は、エゾ(北海道)、沖縄、台湾、朝鮮と、次々と

  • 植民地化

していった。そして、日本は戦前、まさに、西欧列強に「並び」称される、という意味で、国際連盟の「常任理事国」となっていたわけであり、ドイツにナチス政権の誕生と時を同じくして、日本は満州事変という、軍部の暴走を契機にして、国際連盟を、ドイツと一緒に

  • 脱退

する。だから、日本は最初は「被害者」として「あがいて」いただけだったんだけれど、その中で自分たちの「処世術」として

  • 加害者

の側になることを思いついた、という所が、日本の特徴だ、と言えるのだろう。しかし、この過程は、そもそもこんなに単純なのか、とは言いたくなるわけである。というのは、日本人はだれもが、

によって「植民地」化されていたのではないか? ようするに、日本人は本質的に「植民地住民」だったんじゃないのか? そうでないとするなら、なぜ、戦前は、お金持ちの家以外は、あんなにも、だれもが生きるのが苦しかったのか?
さて。上記のカントによる「植民地」の不正義の指摘であるが、2007年になって、国連総会で、ある決議が採択される:

特に重要な項目は、第二六条、第二八条である。

「第二六条 先住民は、自分たちが伝統的に所有し、先占 occupied し、またそれ以外の仕方で利用ないし獲得してきた土地 lands、居住領域 teritories および資源に対する権利を有する。先住民は、彼らが伝統的な所有権またはその他伝統的な先占または利用によって保有している土地、居住領域および資源......を所有し、利用し、開発し、管理する権利を有する。国家は、上記の土地、居住領域および資源に対して法的な承認と保護を与えなければならない。この承認は、当事者である先住民の慣習、伝統および土地保有システムを正当に尊重した上で行われなければならない。」

第二八条 先住民は、彼らが伝統的に所有またはその他の仕方で先占または利用してきた土地<居住領域および資源が、彼らの事前に十分な情報を与えられた上での自由な合意なしに、没収され、取り上げられ、占領され、利用され、または毀損された場合には、現状復帰を含みうる諸手段によって、土地、居住領域および資源を取り戻す権利を有する。また、それが不可能な場合には、それらに対する公正、公平かつ衡平な補償を要求する権利を有する。当事者である先住民が自由に結んだそれ以外の協定が存在しない限り、補償が行なわれる形態は、品質、規模および法的地位において同等な土地、居住領域および資源または貨幣による補償ないしその他の適切な補償手段でなけれなならない。」

本稿の読者は、上掲の諸条項にカント『人倫の形而上学』第一部「法論の形而上学基礎」の具体化を読み取ることができるはずである。
(平子友長「ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判」)
HERMES-IR : Research & Education Resources: ハバーマス『カント永遠平和の理念』批判

ようするに、「これ」が

  • 永遠平和

なの! どこか、カンタン・メイヤスーの「未来に一度だけ、<奇跡>が起きて、今まで不幸のまま死んだ<すべて>の人が復活する」っていう彼の、キリスト教倫理学を思い出させるところがあるよね。
ハーバーマスの論文は、こういう感じで、前半でさんざんカントを dis った後に、後半で、今度はヘーゲルカール・シュミットへの「共感」を語る内容になっているんだけれど。ハーバーマスのスコープには、首尾一貫して

  • 国連のシステム

のマイナーチェンジのことしか書いてないんだよね。ここを、こう「いじれ」ば、今よりも良くなる。そして、それを「漸近的」に突けて行けば、「カントの主張するような<永遠平和>」が実現される。でもさ。それって、ようするに

  • 西洋優先主義

なんだよね。そのことは、上記で、ハーバーマスが「キレ始めた」のが、コソボ空爆で、国連が役に立たなくて、NATO軍単独で行動した、みたいなところから始まっているわけで、ハーバーマスが「国連改革」って言ってるのって、ようするに、

  • 刃(やいば)が西欧地域に(テロという形で)向けられて来たから

に過ぎなくって、今も、これからも西欧地域が「平和」だったら、彼はなんにも言ってないわけw
うーん。
こういったものによる「改善」で、なんで、理想的な国連ができると思えるんだろうね。それは、「あなたたち」にとって理想的なだけで、なんでそんなものに西欧地域以外の人までがコミットメントしないとならないのよ。
カントが未来の「永遠平和」を構想したのは、言わば、こういった「システムのマイナーチェンジ」の限界を認識したから、なわけでしょう。そうじゃない。そうじゃなくて、人々に、ある種の

  • 理念

がぬぐいがたく、覆いかぶさってくるような、そういった逃がれられないような、「強制力」が世界を推進していく、という確信によって、彼は「永遠平和」を構想できたのであって、つまり、国連という場は、こういった「決議」や「法」を作っていくこと、そういった「言葉」を紡いでいくこと、残していくことが、人々を内省させ、世界を推進していく、っていうことなんだよね。
だから、国連にとって、最も重要な役割は、こういった、2007年の国連総会での、先住民族の権利宣言のような「理念」を、より多くの賛成の下、採決していくこと

  • そのもの

に意味があるんだよね。これが「国連」なのであって、こういった地道な活動が、長期的な世界平和を実現する。
まあ、よく考えてみてよ。2007年の、先住民族の権利宣言は、2007年まで、この世にはなかった。だから、日本は、明治以降、西欧の真似をして、植民地拡大を続けた。しかし

  • これ

は、2007年の、この権利宣言からは「違法」なわけである! その重要性が分かるだろうか?

いま思ったんだけど、疑似著作権の問題なんかもまさに一例だよね。法的に引用や使用が認められる場合でも、原作者や権利保持者がクレームをつければ大衆はみなそっちの味方をするし、そうなれば商品のイメージが落ちるから、結局は彼らの金銭などの要求にしたがわざるをえない。脱法的権力。
@hazuma 2016/05/20 09:12:58

21世紀は、権力に対しても大衆に対しても、「法律に違反してないんだからいいだろ」と言えなくなった、すごいやばい世界なのです。
@hazuma 2016/05/20 09:06:56

法を超えた倫理を求めるこの論理は、思想的に言うと「例外状態の一般化」、すなわち個々のケースに応じて権力が有罪無罪を決定するぞという状況の一般化で、21世紀の<帝国>はそっちに向かっててまずいとはよく言われてたんだけど、現実化したら権力はアメリカではなく大衆だったというオチです。
@hazuma 2016/05/20 09:06:15

パナマ文書がいい例なのですが、最近は世界的にこの「法律に違反していないからいい、ということではない」が一般化していますね。 https://twitter.com/sakaima/status/733445517980524544...
@hazuma 2016/05/20 09:03:14

すげーよな。東先生は、タックスヘイブンを道義的に非難する国民と、本気で

  • 戦っている

んだね。おそらく、ゲンロン友の会の上級会員の方たちは、こういった東先生を応援しているんですから、自分たちも、タックスヘイブンを使っているんだろうね。
まあ、だから、東先生は、フラット化主義者でもあるわけであろう。ノブリス・オブリージュなんて存在しない。「法律に違反していなけば、なにをやってもいい」。まあ、それじゃあ、カントの主張している、反植民地主義は理解できないはずですよね。なんてったって、

  • 2007年

になって、やっと、国連総会で宣言が採択されたっていうわけで。まあ、東先生にしても、ハーバーマスにしても

  • 反カント主義者

に連なる一人と考えれば、まあ、少しも不思議でない反応ということになるんですかね...。