邪神ちゃんドロップキックの快楽

今週の月刊文芸誌『新潮』に載っていた、東浩紀先生のエッセイであるが、ようするに東先生は小さい頃から「悪」について考えてきた、と。「悪」について考えることは自分の仕事のライフワークなんだ、と。まあ、こういった「自分語り」は、どうでもいいのだが、驚くべきところは、そういった東先生が紹介を始めた子どもの頃の「体験話」であろう。
東先生は10歳くらいの頃、近くの飲食店?に置いてあった、731部隊について書かれたノンフィクションを読んで「ショックを受けた」ということが書かれている。
これの何が「驚くべき」ことなのか?
つまり、東先生は、それを読んで、どこの部分の何が自分に「ショック」を与えたのか、ということについて

  • 一切書いていない

わけである。とにかく、書かれてあるのは、それだけ。つまり、東先生は、この「10歳」という、あまりに早熟な段階で、この「悟り」に逹した自分が、いかに

  • 天才

であるのかを自慢したかっただけなのであろう。
よく考えてみてほしい。一体、この文章は、誰に向けて書いているのだろう? そして、これを読んでいる人は、「これ」がなんなのか、と考えればいいのだろう? というか、そもそも、東先生は「それ」を読者に「伝えなければならない」と一切思っていない、ということなのだ。
よく考えてみてほしい。
おそらく、731部隊の本なのだから、そこには、戦中軍隊の医学研究者たちによる、マッドサイエンティストな、人体実験について書かれていたのであろう。しかし、その「ショック」は、あくまでも

  • 活字

の話なわけであろう。この時点で、東先生の「本質」がよく現れている、という印象を受けるわけである。
まさに、「表象批評」であり、いつまでも、その「対象」の具体的な記述に辿り着かない。外から「抽象的」な「観念」を、こねくりまわしていて、抽象的な「悪」だとか「暴力」だとかを、言葉の上で、順列組み合わせて「言葉遊び」をし続けては、なにかをやった気になっている。
例えば、戦中から戦後にかけて活躍した、木村政彦という柔術家がいる。彼は、戦前は、高専柔術帝国大学柔術)で活躍した人で、戦後は、プロレスラーにもなって、力道山とも試合をしているわけだが、問題は、その、戦前の

というものが、どういうものだったのか、ということに関係している。そもそも、戦前の日本は「戦争」をしていた。そこにおいて、「帝国大学」の学生は、後に「エリート」になる人たちである。つまりは、彼らは、戦争中に

  • 捕虜

として相手国につかまえられることが十分に考えられていた。そうやって、捕虜になって、もしも、こういった「エリート」が簡単に「自白」をしていたら、日本はどうなるだろう? そりゃあ、簡単に戦争に負けるだろう。
この延長で考えたとき、なぜ、戦前の高専柔術が、あそこまで「過激」だったのかの理由が分かってくるわけである。おそらく、高専柔術の大会において、選手の何人かの腕が折れることは

  • 事前に想定されていた

のであろう。つまり、それが「戦場」なんだ、といった暗黙の空気があったわけである。
例えば、東浩紀先生に比べると、社会学者の宮台真司先生は、子どもの頃に「空手部」に入っていたことを、よくエッセイに書かれている。そうやって考えると、この二人にとって「暴力」に対する考え方が、けっこうな根本のところで違っているんじゃないのか、といった印象を受ける。つまり、東先生の言う「暴力」は、最初から最後まで、「言葉」の上の「観念」として「悪」のことばかりにこだわっているのに対して、宮台先生のそれは、より「体験的」な

  • 加害者

としての「それ」への深い考察が、どこかにうかがえるわけである。
たぶん、このブログでも書いたことはないと思うけど、私は小学校の頃は、主に地元の野球クラブで野球をやっていて、その延長で周りの大人も、中学でも野球をやるのだろうくらいに思われていた雰囲気があったのだが、私は中学に入って、柔道部に入部して、そのまま、3年間を過した。
柔道については、今も、さまざまに評判の悪い側面があって、特に、学校の授業での「死者数」が異常なんじゃないのか、というわけだが、私はこういった傾向には、間違いなく、上記の「高専柔術」の流れの雰囲気があったんじゃないのか、と疑っている。ようするに、「武士道」という形で、

  • 多少の死者は「やむをえない」

といったような、なんらかの、そういった事故が起きることへの「緩さ」を感じるわけである。
私は、中学の部活で柔道はやっていたけれども、それほど体重があったわけでもないし、そんなに飛び抜けて強かったわけでもない(というか、そういうエリートの子どもは、地元の道場に、部活とは別に通っているわけであるw)。ただ、私は左利きだったこともあって、乱取りなどで、明らかに、相手の先輩などは、やりにくそうにしている印象を受けることが多かった。
もう、あまり覚えていないが、ある先輩がいて、たぶんその人は、私とのそういった練習のときに、怪我をされたのではないか、と思っている。それから、半年くらい練習にも出てこなかったと思うのだが、その人は私に向かっては、直接は何も言わなかったのではないか。しかし、私は自分の「加害」の意識を、頭のどこかにはずっとあったことを、なんとなく覚えている。
例えば、今週から、映画館でアニメ「ドラゴンボール」が、原作者の鳥山明の脚本で放映されているが、見ると、ほとんどの場面で行っているのは

  • 空手

だ。そして、同じサイヤ人として今回戦ったブロリーに対して、主人公の孫悟空は、またの再戦を、こんなに強い奴はそんなにいない、という理由で約束するところで終わるわけだが、見ていて思うのは、こういった空手でもいいけれど、まあ、バイオレンス系のアクションは

  • 分かりやすい

という特徴がある、ということなんだと思うわけである。つまり、「見れば」分かる。まあ、見なくても、自分がやれば、つまり、自分が「空手」や「柔道」を

  • やれば

分かる、といった「何か」が。ところが、上記の東先生の「暴力」や「悪」には、それがない。どこまでも、彼は

  • 文字

の上の、何かの形式的な「操作」の話ばかりしている。つまり、観念としての言葉「が」問題なんだ、と言い続けている。
例えば、先期の深夜アニメに、「邪神ちゃんドロップキック」という、ギャグ漫画があった。まあ、アマゾンプライムで今でも見れるわけだが、はっきり言って、ポリティカル・コレクトネスから考えれば、ひどい「暴力的」な作品なわけで、いわゆる

  • 品のいい

お嬢さん、お坊ちゃんったちは、誰も見ていないだろうけれど、意外と、2CHのような所では、絶大な人気を誇っているところがある。というか、近年の深夜アニメで、唯一のビッグヒットなんじゃないのか、とすら言いたくすらなる(どこか、アニメ「キルミーベイベー」を思い出させる)。まあ、今期のアニメで似ているといえば、「ゾンビ・ランド・サガ」あたりだろうか...。
この作品の構造として、女子大生の「ゆりね」が、古本屋で、たまたま買った本に書いてあった、悪魔召喚の儀式を行ったら、邪神ちゃんという、下半身は蛇で上半身は女性の悪魔が魔界(地獄とも言う)から、召喚されたのはいいが、その買った本が、上巻であり、下巻に、召喚した悪魔を、魔界に戻す方法が書かれていたようでありながら、その下巻が売っていない、という事情から始まって、ゆりねと邪神ちゃんの、六畳一間のアパートの奇妙な共同生活が描かれる。
邪神ちゃんが魔界に戻る方法は、自らを召喚した人間が死ねば、自動的に解除されることもあり、邪神ちゃんは、そうやって共同生活を行いながらも、いつも、ゆりねを殺そうと背後から狙っている。そして、その攻撃はいつも失敗するわけだが、それに対する、ゆりねの「おしおき」は、邪神ちゃんが、ほとんど不死身の再生力をもっていることもあって、ほとんど

並みの血飛沫を上げまくる残虐さが描かれるわけで、まあ、こんなPC的に問題のありまくりな作品が、世界的なヒットを獲得できるわけがない、とは言いたくなるわけだが、逆に言えば、日本の漫画やアニメは昔から、こういったグレーゾーンに、さかんに挑戦してきていた、ということがよく分かる作品になっている、と思うわけである。
一見すると、このアニメは、邪神ちゃんへの、ゆりねの「残虐行為」こそ、目をそくけたくなる「ひどさ」があるわけだが、そもそも、邪神ちゃんは「悪魔」なわけである。悪魔は死ぬのだろうか? この辺りは常に「あいまい」に描かれるわけで、つまり、ここについて、いろいろ考えても、しょうがない部分があるわけである。むしろ、私たちが考えるべきは、

  • ゆりねへの邪神ちゃんの「暴力」

にある、と考えるべきだ。もしも邪神ちゃんの暴力が「成功」すれば、ゆりねはたんなる「人間」なのだから、死ぬだろう。このことは、よく考えてみると、かなり問題を含んでいるように思われる。なぜ、ゆりねは死んでいないのか? それは、漫画上では、邪神ちゃんが「頭が悪い」から、いろいろと計画を立てても、失敗し続ける、という形で描かれるわけだが、この漫画を見ている側には、それは

  • 偶然

にしか思えない。しかし、一つだけ見ていて考えさせられる特徴があって、それは、絶えず、ゆりねと邪神ちゃんの「バトル」は

  • プロレス

の表象によって描かれていることだ。つまり、プロレスの「技」を、邪神ちゃんは、ゆりねへの「攻撃」に使う。そして、それは何度も「失敗」するわけだが、そのことが、読者になんらかの「メッセージ」となっていることを意味しているのであろう。
なぜ、この作品は、このような構造になっているのだろうか? ゆりねが、邪神ちゃんに「おしおき」をするのは、邪神ちゃんが「悪」を行ったときである。しかし、よく考えてみてほしい。彼女は

  • 悪魔

である。つまり、魔界=地獄の出身なわけで、その本質として、「悪」を行うことこそを「美徳」としているのではないのかw
この「パラドックス」は、この作品世界では、何度も何度も反復される。例えば、邪神ちゃんの友だちに、ペコラという、今度は「天使」が近くに住んでいる。彼女は、ある事情で、天界=天国に帰れなくなっているわけであるが、そんな彼女の元に、天界で彼女の下級生だったポポロンちゃんがやってくる。しかし、ポポロンちゃんは、ペコラを殺そうとする。なぜなら、もしもペコラが天界に戻って来たら、自分の天界でのポジションを、ペコラに奪われることが分かっているからである。
(つまり、このことはポポロンが「天使」であることが、彼女の心が「清い」ことを少しも意味していないことを示している。つまり、どういうことか? ようするに、このことは邪神ちゃんが、どんなに「ダメ人間」だとしても、彼女のどこか「本質的」なところには、人間として守らなけれなばならない仁義のような「本質」があるのではないのか、という「反対」の何かを示唆する形になっているわけである。)
こういった「パラドックス」は、どこか、同じような設定だった、アニメ「ガブリール・ドロップアウト」を思い出させるものがある。
ゆりねは、そもそも「悪魔」を召喚して、自分の身の回りの「世話」をさせている。しかし、悪魔なのだから、彼女に「悪」を行使しようとするのは

  • 当たり前

なんじゃないのか、といった印象を、どうしても、この作品を見ている読者には、最初からぬぐえない違和感としてつきまとう。だったら、なぜ、ゆりねは邪神ちゃんを、いつまでも身の回りに置いておこうとするのか?
おそらく、この作品はここに、ポイントが隠されている。
原作を読んでも、少なくとも最初の方では、ゆりねの大学でのキャンパスライフは描かれない。このことは、ゆりねが、かなり「変わった」人であることを意味している。つまり、変わった

  • 趣味

をしていることを意味している。また、大学生なのだから、当たり前なのだが、六畳のアパートが示しているのは、こういった、見た目にも、けっこう「貧乏」な生活をすることを、それほど苦にしない、つまり

  • いいとこのお嬢さんではない

なんらかの、彼女の「庶民派」の側面を意味しているのかもしれない。
いずれにしろ、邪神ちゃんは「クズ」である。友だちのメデューサを金づるにして、パチンコに、その日の夕飯のお金をつぎこんで、スマホゲーの有料課金に、10万を使ってしまう。しかし、そういった邪神ちゃんの

  • 弱さ

は、私たちの弱さを意味している。この漫画の、なんとも言えない「快楽」は、こういった邪神ちゃんの「暴力」「クズさ」を含めた、彼女の「弱さ」への共感に深く関係しているわけである...。