私が「生得的」という表現に違和感を覚えたのは、もちろん、生物進化学に関係してであったが、しかし、その違和感は、行動経済学や進化心理学という形で、ほとんどの
- 文系
の分野を「汚染」しているんだな、ということを知ったとき、驚愕を覚えたわけだが、このことをどんなふうに記述すれば分かりやすいのだろう、と考えてはみるけれど、あまり、いい表現というのは思いつかないものだ。
一番分かりやすい例は、心理学でよく使われる
- 無意識
ではないだろうか。これは、なんだろう? 無意識は意識「ではない」と言いながら、意識の「活動」そのものとして記述される。ようするに、心理学者は「心の<外>」といったようなことを、表現はできないけれど、前提にしている、ということを言っているわけである。
無意識は「生得的」なのだろうか? 無意識はアプリオリだろうか? 無意識は「遺伝子」だろうか? しかし、いずれにしろ、こういった表現を使っている時点で、その人は、なんらかの「意識の<外>」というものを語ろうとしているわけで、つまりは
- 「どっち」がその人なのか?
といったような皮肉を言ってみたくなるわけである。
そもそも、フロイトの前期において中心概念であった、エディプス・コンプレックス、無意識、夢判断といった概念は、患者の幼少期に遡行して、ある体験=トラウマに、その病気の原因を発見するというものであった。ところが晩年、フロイトは転向する。WW1の戦争神経症患者の診察を経て、フロイトは、死の欲動に注目するようになる。つまり、人には、もともと、「自死」を行おうとする「欲望」が、まさに
- 生得的
にビルトインされている、と。しかし、素朴に思うわけだが、こういった自死の本能と、上記の生物進化学における「生得的」と、どういう関係がある、と人々は考えているんですかねw
こんな思考実験をしてみよう。ある、産まれたばかりの子どもを、一切、外の世界と関わらせない、とする。すると、その子は、どうなるか? まあ、私たちが「人間」とか「動物」として思っている、さまざまな要素を見出せない存在として理解することになるだろうね(オオカミ人間だって、オオカミ社会の慣習を見につけているわけですから)。だとすると、ここで言う「生得的」という
- 特徴
は、「そのもの」として見出されない、ということを意味していることになるだろう。「生得的」とは、あくまで、他の
- 後天的
な文化的な性質の「学習」に対しての、<才能>という形でしか見出されない。私たちは、こういったものを本当に「生得的」と呼ぶべきなのだろうか?
計算主義は、心の入出力ではなく、内部メカニズムに目を向けさせる。歴史的に見れば、これが計算主義のテーゼが果たした最も重要な役割だった。二〇世紀前半には「科学的」心理学と言えば行動主義を意味した内観に頼っていた一九世紀心理学に対抗するために、行動主義は心の中をブラックボックスと見なして研究対象から除外し、外部から観察可能な刺激と行動だけに視野を限定した。
上記の引用は、つまりは「実験心理学」から、
への「飛躍」を意味しているわけであろう。つまり、ここで問われているのは、「心」が「計算」をしている、でもいいのだが、そうならそうで、それはなんらかの
- モデル
によって、記述できなければならない、ということになるであろう。例えば、ウィキペディアの「生得的」の項目を見てほしい。そこにおいては、スティーブン・ピンカーの主張と
が対立的に紹介されている。それは、基本的に、ピンカーが「生得性主義者」として扱われ、基本的にコネクショニストは、そういった「生得性主義者」に
- 批判的
である、といった形でまとめられている(ただし、両方とも、タブラ・ラサには批判的なのだが)。
このことで、少し意外に思ったのは、ちょうど、この論文も、
- 古典的計算主義者
と
- コネクショニスト
の対比で紹介されていて、ちょうど、古典的計算主義者の言っていることが「生得性主義者」そのものなのだが、掲題の著者の戸田山先生は、「コネクショニスト」としての論陣をはっていて、古典的計算主義には、批判的に読めるんですね。戸田山先生って、もっと、生得性主義者といったような印象をもっていたので、少し意外だったのだが。
(3) 思考の言語仮説 これらの要件を満たす典型例は言語にほかならない。そこで、古典主義は次のような基本的仮定を置く(Fodor, 1975)。心の中には言語のような表象がある。これをメンタル語(Mentalese)あるいは思考の言語(language of thought)と呼ぼう。
ようするに、生得性主義者は、これが言いたいのであろう。人間は「だれ」でも、生得的に言語を習得している、と。私たちは、後天的に言語を学ぶのではない。すでに「知っている」言語を「使って」、
- 最初から
会話するのだ、と(だから、世界中の言語はどこか「似ている」のだ、と)。
これに対して、コネクショニストの言おうとしていることは、少しアプローチの違った色彩を帯びている。
CNは多数のユニット(円で示す)が互いに結合された構造をもっている。ユニットはニューロンに、ユニット間の結合はシナプスに相当する。一見して、CNのアーキテクチャはおなじみのパソコンのそれとは異なることがわかる。まずCPUが存在しないし、メモリも、メモリに内蔵されたプログラムもない。
ようするに、CN(コネクショニスト・ネットワーク)とは、神経系の最小単位である、ニューロンとシナプスの「結合」を繰り返した
- 構造
によって、人間の「思考」を
- シュミレーション
してみる、そういった一連の工学的アプローチの試行錯誤の系列にある考え方であることが分かるであろう。
しかし、そもそも論として、こういった「アプローチ」を採用する場合、それぞれのニューロンとシナプスは、別に
- 生得的
な差異を前提していないわけでw、一体、どこから「生得的」な差異が生まれるのだろう、といった、素朴な疑問が生まれるわけであるが、こういった思考の延長から(おそらくは、ですが)、戸田山先生は、この
- 思考の言語仮説
について、否定的な論文に共感的な感想を後半で述べられる(詳しくは、この論文をどうぞ)。
(1)言語は表象ではないかもしれない カミンズ(Cummins,1996)は表象の本性についての大胆な提案を行い、自然言語についての我々の考え方をがらっと変えることを要求している。彼の「表象のピクチャー理論」(Picture Theory of Representation、PTR)では、地図のような図的表象を心的表象の典型例として考える。地図が実際の地形の表象として使えるのは、その地図と実際の地形が構造として類似しているからである。もう少し詳しく言えば、地図という構造(表象構造 representing structure)に含まれる対象、たとえば線や四角形などと、実際の地形(内容構造 content structure)に含まれる対象、たとえば道路や建物と一対一の対応があり、表象構造に含まれる対象同士にn項関係が成り立っている(たとえば□は■の右にある)ときには、それぞれに対応する内容構造側の対象にも対応するn項関係が成り立っている(消防署はコンビニの東にある)。こうした関係が二つの構造のあいだに成り立っているとき、二つの構造は同型(homomorphic)であると言う。カミンズは、すべての自然な表象(心的表象はその一つである)の基礎をなすものはこうした構造間の同型性(類似)であると考える(Cummins, 1996:96-111)。
ようするに、言語を「表象」と考えることと、コネクショニズム的な、ニューロンのネットワークの自己増殖から、人間の言語活動を説明するアプローチが「相性が悪い」ということを意味しているわけである。
しかし、もしも言語が「表象」でないとするなら、まっさきに私たちが考える素朴な疑問は
- 高度な言語的<思考>
の「正体」はなんなのか、ということになるであろう。
ここで生じる問題は、言語のように構造化した媒体なしでどうやって高度な抽象的思考が可能なのか、というものだ。これは次のように言いかえてもよい。言語は抽象的思考にとって不可欠に思われる。そして、内観からも、たしかに自然言語は意識的な思考の多くに伴う。抽象的思考において言語が媒体としての働きをしているのでなかったなら、いったいどのような働きをしていると言うのか。一つの答えは、言語は思考のファシリテータの役割を果たすというものだ。手書きの文字のような外的言語記号は、勝手に消えたりしないでそこにとどまり続けてくれる。そのおかげで、我々は紙の上の文字列を外部記憶装置として用いることができ、心の中でパターン認識だけを行うことによっては解けないような問題も解けることになる。
まあ、こうした思考のアプローチはニューロンとかシナプスの「性質」を考えてみると、だれでも気付きそうなもののように思うんですけれどね。
確かに、生得的なもの、まあ、それを「遺伝子」的なものと表現してもいいだろうし、そういったものが存在することを認めないわけではない。しかし、そこから、
- 遺伝子決定論
は、ずいぶんと大きな「距離」のある「イデオロギー」であることは自明なんじゃないだろうか。生得性主義者と、物理学決定論主義者が
すると「遺伝子決定論者」が誕生するわけだが、例えば、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」論を敷衍して考えるなら、生得説というのは、この遺伝子を、
- キリスト教で考えるところの、人間の精霊
のようなもので、ようするに神の荷姿。もっと言えば、「小さな人間」が、遺伝子という形で、アプリオリに存在する、という形のイメージなのだと思う。だから、生まれる前から、「決定」しているとはそういうことで、つまり、生まれる前から
- 大人
だ、という形になる。それは、例えば、キリスト教において、死んだら、魂が天国か地獄に行くということが示しているように、「それ」が、遺伝子という形なのか、というだけの違いなのだろう。
しかし、こういったイメージは、どう考えても、ニューロン神経系が、「成長」するごとに、より複雑に、ネットワーク化されていく、その
- 自然成長性
の無方向性と、おそらくは、あまり相性のいい話ではないのであろう。確かに、親の七光ってわけで、お金持ちの家庭は子どもも頭が良いと言えば、分かりやすい話なわけだが、すべてが
で決められている、なんて言ったら、単純に生きることが楽しくないわけでしてね。概ね、多くのことは「物理学決定論」とは違った形で、話は進むと私たちは考えたいわけで、その場合の「物理学決定論」とはなんなのか、ということで言えば、それこそ
- 無限の原因
といったイメージが、おそらくは正しいわけで、なんらかの物理的な決定理論が「存在する」ということと、そういった「無限の原因」の中から、どれが決定的な役割をしたのかが決定されない、といったことは両立しうる、ということなのだろう...。
- 作者: 信原幸弘
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