前成説とキリスト教

リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」論は、物理学決定論者にとっては、人間の本性は

  • 遺伝子

だったのだ、ということを説明したものとして受けとられたのであろう。つまり、遺伝子の

  • コード列

が人間を、ほとんど「本質」において決定している、と考える。
こういった「決定論」は、そもそも、プロテスタンティズムと相性がいい。カルヴァンの予定説は、神は人間が生まれる前から、その人間の運命を「決定」していた、と考える。私たちは神の「予定」をなぞって生きることしかできない。だとするなら、なぜ私たちは生きるのか。なぜ生きることに意味があるのかが、プロテスタントにとっての重大問題であった。
しかし、こういった思考の前提には、キリスト教イスラム教と、同じような共通した「前提」があったはずなのである。まず、

  • 言葉

である。言葉は人間が作ったものではない。事実、コーランは言葉で書かれているわけだが、そこには「神の言葉」が書かれている。つまり、「それ」は神の作ったもの、神が話したものなのだ。言葉は神と区別ができない。
もう一つ指摘できるのが、人間と神の関係である。人間とは、神と無関係ではない。なんらかの意味で、人間は

  • 神の似姿

であることが重要なのだ。それは、かなり本質的な問題で、ようするに、神と人間は、なんらかの意味で、「共通」の属性をもっている、ということになる。まあ、言ってしまえば、「魂=精霊」において、類似なのだ。
生得的ということは、カントで言えば、アプリオリということであって、まあ、遺伝子ということになる。これら「全体」が、結局のところ、何を言いたいのか、と考えると、そこに

  • 成人となったときの「その人」の何か

が表象している、という考えなんだと思っている。つまり、人は生まれる前に、すでにその人は、ある意味で「大人」になったときの、その人の何かを、すでに内包しているのだ、と。
これが「遺伝子」として表象されるわけだが、この遺伝子が、ある種のスピリチュアリズムを介して、そこに

  • その人間の「精霊」

を表象している、ということになる。遺伝子は「コード列」である。このことは、キリスト教と相性がいい。なぜなら、コード列ということは、結局は「文字列」であり、

  • 言葉

だからだ。言葉が、「人間」を表象することは、言葉が「神」が生み出したものであることを示し、人間が神の似姿をもつことを理由づける。
私は「生得性主義者」は、ある意味での、生物学において、はるか昔に一度だけ隆盛を誇った後に、あっという間に滅び去った

  • 前成説(ぜんせいせつ)

の「復活」として現れたのだと考えている。この生物学説は、人間がなぜ受精卵から、成人としての大人になるのかを説明するものとして現れた。つまり、受精卵にはすでに、

  • 大人の成人

の「似姿」をもった「小人」が、その中にいて、その小人が、そのまま「大人の成人」になったときの姿「だから」、私たちは大人になるのだ、と説明したわけである。なぜ受精卵が「大人」になれるのか? それは、受精卵がすでに「大人」を内部に含んでいたから、「それ」が大人になったときに全面に出てきたに過ぎない。
このように言うと、なにを意味不明なことを言っているんだ、と思うかもしれない。しかし、キリスト教にしても哲学にしても、問題はその「抽象性」にあるわけであろう。
つまり、「これ」を、それそのものとして理解してはならない。これらは、なんらかの「抽象性」において、なにかの「比喩」において伝えられるなにかなのであって、そういった形で、生得性主義者の本質において、キリスト教は今でも生きている、ということなのであろう...。
(物理決定論は、この世界に「法則」があるという前提を採用することと深く関係した態度であるし、事実、「科学」とは「決定論」のことだと言ってもいい、とさえ言いたくなる。例えば、映画「メッセージ」や映画「インターステラー」を思い出してみよう。こういった四次元的な「存在」には、時間軸上のどの地点に存在するのかについて、なんの「差異」も体験しない。つまりは、四次元的に存在するということは、過去、現在、未来を通時的に「把握」し、「理解」する、なんらかの「認識」を前提にしている...。)