アニメ「刀使ノ巫女」の第一話

アニメ「刀使ノ巫女」の第一話は、よくある話といえばそうだが、めずらしく、第一話が「おもしろい」アニメということでは、エヴァンゲリオンのテレビ版が「前半」の綾波がメインのストーリーが「おもしろかった」ことと似ているということでは、両方とも、ある種の

となっている、ということは言えるのかもしれない。
アニメ「刀使ノ巫女」の第一話で、中学生、高校生を中心とした武芸大会の決勝戦だけ、折神家の当主の紫(しおり)様の前での御前試合となる。しかし、そのことは紫様と直接の接触を一般人が行おうとするなら、この「決勝」にまで辿り着かなければならないことを意味しているわけで、十条姫和(じゅうじょうひより)が紫様を

  • 暗殺

するには、その瞬間しかなかった。しかし、その後の展開は、その決勝の対戦相手だった、主人公の衛藤可奈美(えとうかなみ)が、「なぜか」姫和を助けること、しかも、その逃走劇を半ば、紫様が「後を追うな」と命令したことで、なんとも謎めいた展開の中で、続いていくわけである。
なぜ姫和が紫様を殺そうとしたのか。それは、可奈美が姫和を助けようとした理由とも関係しているわけで、可奈美はその姫和が紫様に切りかかった瞬間に、紫様が「ノロ」にとりつかれていることを見破ったからであったし、姫和は母の死ぬ前での姫和に隠れて行っていた行動などから、そのことを以前から知っていたから、彼女はこのことを

  • 母の仇討ち

として行っていることが特徴だ。管理社会の「トップ」と、その管理社会が「悪」と名指して戦っている「トップ」が裏で繋がっているなんていうのは、この世の「悪」の定番であるが、この世界もそういった光景を示している。
しかし、この姫和「テロ」問題には、もう少し複雑なコンテクストが関わっている。それは、話が進むにつれてはっきりしてくるわけだが、その一つ目が彼女たちの二人の母親が、20年前の、相模湾岸大災厄に中心的に関わっていたし、まさに、この二人の活躍によって、その災厄は沈められたわけでありながら、その事実は公には伏せられた、といった「いきさつ」がある。
このことは、なぜ姫和「テロ」を、回りの大人たちが、やけに「冷静」なのかを、説明している形になっている。つまり、姫和は、その20年前の、その場所で、実際には何が起きたのかを詳しくは知らない。だれからも教えてもらっていない。だから、彼女がこのような行動をするのは、ある意味で

  • 当然

だ、といった回りの受け止め方がある。
この作品のいまひとつ、ものたりない印象を受けてしまうところとして、姫和と母との具体的な「やりとり」が描かれることがなかったために、なぜ姫和が「テロ」を

  • 母の仇討ち

として、なぜ、そこまで行おうとしたのかを、あまり丁寧に描けなかったことにあるように思われる。そしてそのことは、最終話での、隠世(かくりよ)での、当時の母との再会の場面で、そこまで自分には、紫様に「感謝」こそあれ、恨みはなかった、という説明との整合性が、よく分からなくなっている。
この作品は、どのようなものであったら、よかったのだろうか? 孤高のテロリストの、十条姫和(じゅうじょうひより)に対して、そんな彼女を側で見続ける、天才の衛藤可奈美(えとうかなみ)の二人が、二人の母の頃からの関係から、決して、切っても切れない深い関係で結ばれている、ということを、二人の所持する刀の、千鳥、小烏丸の二つが象徴しているところは、おもしろい。
しかし、だとするなら、本当に、この作品が描くべきだったのは、姫和の細かい心の中だったのではないか。姫和にとって、紫様はどうなればよかったのだろう? 彼女の「恨み」が、結局のところ、なにがどうなれば、「納得」になれるような性質のものだったのだろう? 姫和の母が命をかけて行おうとしたのは、「ノロ」との戦いであったわけであろう。しかし、姫和にしても可奈美にしても、母からほどんど、相模湾岸大災厄の経緯を聞いていない。それは、公には彼女たち二人が関わっていないことになっていることが関係しているのだろうが、だとするなら、母は子どもに「ノロ」の問題をどのように説明したのか。いや、何も言っていないのか。言っていないのに、姫和は母の病状と相模湾岸大災厄、または、「ノロ」との戦いとは関係させていたわけで、その

  • 母の仇討ち

と紫様その人とを、どこまで結びつけているのかについても、よく分からないわけである。
作品の前半を見ると、人間がノロを体内にとりこむことが、ある種の「(阿片のような)麻薬」のように、一度そういった関係の「契約」を行ったら、そこから逃げられない、そういったタイプのものとして、紫様と「ノロ」の関係も理解していたように思われるわけだが、この関係性の「設定」を、このアニメは、あまり重要視していなかった、ということが露骨に見られるように思われる。
しかし、そういった「ノロ」の、よく分からない「性質」というものが、作品の後半に行けば行くほど、強調されればされるほど、結局、なんで姫和の母は死ななければならなかったのか。その「必然性」が、よく分からなくなっていくわけで、だったら、そこを徹底的に深く掘り下げて、

  • 姫和の納得感

を高める作業をもう少しやんないと、このアニメの世界観は、二つに「分裂」したまま、中途半端に「打ち切られた」といった印象のまま終わってしまっている、ということなんだと思っている。
少し話が、それてしまったかもしれない。最初に書きたかったのは、第一話の姫和の魅力について、というものであった。その辺りについて、少しブルーハーツの詞を振り返りながら、考えてみたい。

僕たちを縛りつけて一人ぼっちにさせようとした全ての大人に感謝します
1985年 日本代表ブルーハーツ
THE BLUE HEARTS「1985」)

ここで、「感謝」と言っているのは、もちろん「皮肉」なのだが、しかし、現代という「管理社会」においては、一体

  • 感謝

以外の、どんな態度ができうるというのか、と問うているわけであろう。私が、ツイッターとかで、大学教授が偉そうに説教をしているのを馬鹿にしているのは、こういった視点においてであるわけで、ようするに、この「管理社会」においては、そもそも私たちに

  • 感謝

以外の行動をとることは不可能なのだ。なぜなら、もしも「感謝」をしなければ、「管理社会」の側が

  • 不快

に思うのだから、たんに彼らに「差別」を行う「動機」を与えることしか意味しない。ようするに、「優等生」は

  • 不良

をどんなに「不公平」に扱っても、それが「正義」であり、「平等」だと思っている。これが「管理社会」の「本質」だって、言いたいわけであろう。

誕生日もわからない 白髪のおばあさん
ちからコブもつくれない あなたのちからでは
プロレスラーも倒せない 世界平和 守れない
あ− 奇跡を待つか あー 叫ぶのか 叫ぶのか
THE BLUE HEARTS「シャララ」)

この現代の「管理社会」においては、私たちは、だれも力をもっていない。つまり、「世界平和」を「守れない」。じゃあ、どうするのか、ブルーハーツがひたすら実践したのが

  • 叫ぶ

ことだったわけであろう。

夜の闇に悲鳴をあげた少年が今
狼になる なる なる
THE BLUE HEARTS「皆殺しのブルース」)

十条姫和(じゅうじょうひより)の魅力は、ある意味で、このアニメでは描かれていない。彼女は「一人」で母の死を考えて、ある種の

  • 狂気

に到達した。しかし、それは徹底して「個人的」なことであった。
こういった姿は、どこか、SF小説の『新世界より』が描いた、暴走するサイキックパワーを「制御」できない、産まれてきた子どもたちの「孤独」を思い出させる。それを、ブルーハーツ

  • 夜の闇に悲鳴をあげた少年

  • 狼になる

という形で、彼女、十条姫和(じゅうじょうひより)を説明するわけである...。