シャンタル・ムフ『左翼ポピュリズムのために』

昔から「新自由主義」無定義論というのがある。つまり、多くの人が、「新自由主義」という言葉を使っているが、その言葉の定義は、常に曖昧で、それぞれの文脈で使用者が勝手な解釈で使っている、と。一方で、ミッシェル・フーコーにまで遡って「哲学的」な衒学まで始める、哲学趣味の人たちまで現れて、真贋論争華やかなりし、というわけである。
しかし、こと、ヨーロッパの文脈で、「新自由主義」と言えば、それは、ほとんど、イギリスのマーガレット・サッチャーの政策であることは明らかであったし、そのことを誰も疑ったことはなかった。
つまり、どういうことなのか?

一九七九年にマーガレット・サッチャーが首相になったとき、彼女の目標は、保守党(トーリー)と労働党の戦後コンセンサスを破棄することであった。彼女は、この戦後コンセンサスこそが、イギリアスの低迷の原因であると主張していたのだ。労働党とは異なり、彼女は政治の党派的性格やヘゲモニー闘争の重要性にきわめて自覚的であった。彼女の戦略は明らかにポピュリズム的なものである。一方に抑圧的な国家官僚、労働組合、そして国庫の恩恵を受ける人々といった「既得権益をもつ勢力」を置き、もう一方に官僚的勢力とその同盟者によって犠牲を強いられる勤勉な「人民」を対置することで、両者のあいだに政治的フロンティアを引いたのだ。
おもに標的となったのは労働組合で、彼女は組合の力を潰そうと決意した。アーサー・スカーギル(Arthur Scargill)率いる炭鉱労働者組合を「内なる敵(the enemy within)」と宣告し、彼女は、それと正面から激突した。イギリスの歴史上もっとも激しい労働争議となった炭鉱労働者たちのストライキ1984-1985)は、彼女にとっての転換点となる。この闘いは、政府の決定的な勝利で幕を閉じ、その後、政府は、弱体化した労働組合に様々な条件を課して、経済的に自由主義的なプログラムを強化するようになった。

70年代以降の

は、

そのものであろう。自民党は、かなり慎重に、サッチャリズムを「研究」した。自民党にとって

  • 邪魔

労働組合を「破壊」するとき、サッチャリズムは、

  • いかに自分たちが行っている、労働組合の「破壊」が「正義に適っているか」

を偽装する。すべては、「宣伝」である。一方に、「国民」に敵対する、官僚という「悪」がいて、労働組合という「貴族階級」がいて、

  • こいつらが、国民の利益を吸い上げているんだー

と、毎日毎日、どなりちらす。それにしても、自民党はよく「敵」を分かっていて、実際に、70年代以降、非常に

  • 効率的

に世の中に存在していた、「労働組合」を、事実上の解体に追い込んで、今では、その面影さえ見出せないくらいに、破壊し尽した。
自民党は、たんに、「手際よく」敵を破壊しただけじゃない。それを、国民に「ほとんど」気付かせない中で、やり通した、というところにポイントがある。
さて。掲題の本であるが、近年、アメリカのトランプに代表されるような

を批判することが流行している。彼ら「新自由主義者」が、得意げに言うのが

である。大衆が、政治に、なんらかの形で、<直接>に関わるから、間違った政治が行われる。つまり、

  • 民主主義は間違っている!

というわけである。完全に、東浩紀先生の『一般意志2.0』そのものであることに気付くであろう。彼ら新自由主義者にとって、何が大事なのか? それは、

  • トランプのような人間が政治を行えるシステムを作ってはならない

というところにある。彼らが賞賛するのは、EUのような、直接には各国の国民が意志決定に関われないようになっている、反民主主義性であり、TPPのような、秘密主義による審議空間にすることで、大衆がその「決定」に関与できないようになっている、まさに

  • 反民主主義性

にこそある。例えば、掲題の本の表紙というか、帯にタイトルの「ポピュリズム」に対立的に書かれている言葉は

である。ようするに、シャンタル・ムフにとって、現在の民主主義の危機は、「少数者支配」の方にこそある、というところにポイントがある。
現在の世界の「政治」の、究極的な危機は、なんなのか?
一方で、新自由主義者(サッチャリスト)が言うような、「ポピュリズム」が問題なのか?
それとも、シャンタル・ムフが言うような意味での、「少数者支配」こそが問題なのか?
それを、シャンタル・ムフは、「民主主義の根源化」という言葉で表現する。

多くの自由主義の理論家たちは、政治的リベラリズムは必ず経済的リベラリズムをともない、民主的な社会は資本主義経済を必要とすると主張している。しかしながら、資本主義と自由民主主義のあいだに必然的な関係など明らかに存在しない。自由民主主義を資本主義の上部構造として提示することで、マルクス主義がこの混同に手を貸してきたことは不幸なことである。この経済主義的なアプローチがいまなお、リベラルな国家の破壊を求める左派のいくつかのセクターでうけいれられていることは本当に残念なことだ。今日のあらゆる民主的な諸要求を前進させるのは、リベラルな国家の構成原理----権力の分立、普通選挙権、多党制、そして市民権----の枠組みの内部においてなのである。ポスト・デモクラシーに対する闘争は、これらの諸原理を放棄することにではなく、それらを擁護し、根源化することにあるのだ。

シャンタル・ムフにとって、現在の世界的な「生活世界」の破壊が、どういった人間たちによって(つまり、新自由主義者)、なにが行われたことによって(つまり、サッチャリズム)、引き起こされたのかを、よく知っているわけである。だとするなら、その「パワー」に対抗する手段は、結局のところは、

にしか、ありえない。
例えば、シャンタル・ムフは「金融緩和」に対して、比較的に賛成的な立場をとる。

「金融クーデター」やトロイカの命令を強制する欧州連合(EU)の残酷な対応によって、残念ながらシリザは反緊縮政策を導入することができなかった。この出来事により、シリザの政権奪取を支えたポピュリスト戦略が無効になるわけであないが、新自由主義に対抗する政策を実行しようとするさい、EUに加盟していることが足枷になるという重大な問題が浮上したことは確かである。

上記の文脈から分かるように、新自由主義者は、EUに賛成的である。しかし、そういった「グローバリズム」は、結果として、その国家が所有していた、金融緩和政策を行使する「選択」を奪われてしまう。そういう意味で、シャンタル・ムフの言う

を究極的に選択できないという、足枷を彼らに与える。私たちは新自由主義者(=サッチャリスト)たちの言う「ユートピア」に、常々、警戒的でなければならない、ということを意味するわけである...。
高橋洋一がよく書いていたように、そもそも、金融緩和政策は、欧米では、中道左派、労働者階級の「政策」なのであって、それを安倍首相が「流用」したことは、この政策の本質が、なにか別のものになったことを意味するわけではない。)

左派ポピュリズムのために

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