戸田山和久「哲学の側から Let'S 概念工学!」

掲題は、『<概念工学>宣言』という本の第一章となっていて、また、この本は、タイトルにあるように、「概念工学」という戸田山先生による造語による、

  • 新しい学問

の誕生を宣言した本である。ここではあくまでも、この概念工学という用語の、戸田山先生の

  • 意図

を、明瞭にできたら、と考えている。
戸田山先生にとって、まず、大事なポイントは、この「概念工学」の<工学>が、たんなる強調を意味しているのではなく、そのもの

となっている、というわけである。

これに対し、本書では「概念工学」をもっと文字通りに理解した上で、それにコミットする。つまり、哲学の概念改定すなわち「概念づくり」と工学の「モノづくり」は、その目的においても手法においても、より深いアナロジーをもつ(あるいはもつべきだ)と主張する。そればかりか、より幸せな社会の設計という場面では、両者は車の両輪であり、連続した営みとなるべきだと主張する。

次に大事なポイントは、上記の引用の最後にもあるが、この概念工学の目的は

  • 良い

社会を目指す、社会改善運動なのであって、この点において、<工学>と共通する、となっている。
まず、最初の点で、素朴に違和感をもつのは、<工学>は、そもそも

  • 資本主義

の運動において展開されるものであって、社会改善運動ではないw 必然的に「特許権」や「マーケティング」といった側面をもっているわけで、当たり前だが、

  • 良いモノが売れる<わけではない>

ということであろう。つまり、

  • そもそもこの、概念工学運動は<良い>運動なのか?

が疑わしいわけであるw
そもそもなぜ、この「概念工学」運動は、株式会社が行わず、大学の研究機関が行っているのか? なぜその研究内容を極秘にして、その特許を保存しないのか? その時点で、怪しくないだろうか?

  • 科学者は信用できるか?

なぜ、こういった概念工学運動者は、概念工学を行うのか。概念の「改変」をしたがるのか?
そこには、なんらかの

  • 暴力

があるのではないか? この社会を、なんらかの方向でコントロールをしたいと欲望する「権力欲」があるのではないか?
つまり、これらを一言で言えば、

である。
ちなみに、この論文は、この後、いろいろと概念工学の抽象的な定義の話がされた後、最後に掲題の著者は、

  • 自動運転車

を、この概念工学の

  • 具体例

として説明を始める。

しかし、それでも事故は残る。だとすると、この問題に対する概念的解決として、責任概念を工学するという選択肢もありうる。責任の概念を弱める、あるいはよりラディカルな方向性として、責任の概念を消去する(「なしですます」というのは最も極端な概念の改定だ)ことが可能かを考えてみる必要がある。具体的には、責任概念を取り除いた倫理システムを構築することができるかを探求することだ。

まず、そもそも自動運転車は、概念工学じゃなくて、<工学>なんじゃないのか、という素朴な疑問がわきあがってくるが、掲題の著者は、あまりそうとは思わないようである。つまり、多くの自動運転車の「工学」に関わっている、自動車関連の会社の人や、工学部の研究者たちや、そういった人たちを規制、監督する役所の人が、当然、さまざまな「概念工学」をやっているだろう、ということはここでは議論の対象になっていない。
あくまで、掲題の著者の関心として

  • 自動運転車という「ロボット」が事故を起こした場合の責任問題

が、なんの脈絡もなく、とりあげられる。
しかし、である。
そもそも、ロボットによる事故の問題は、最近のAIのブームなどはるか前から、議論されてきたことなわけであろう。つまり、少しも新しくない。例えば、子どものおもちゃの超合金にしても、いかに、突起物をなくし、事故を減らせられるかなど、多くの配慮がなされてきたわけで、なにを今さら、といった印象を受ける。
しかも、結論部は、以下のように、驚くべき

  • トンデモ理論

でしめくくられている。

責任概念の唯一ポジティブな機能が「つぐない」の分配であるならば、「つぐない」概念そのものを責任概念の代わりを果たすものとして、倫理システムを再構築してはどうか。おそらく、この倫理システムは刑罰という制度に替えて、保険としう制度を広範に導入することになるだろう。実際、自動運転車の社会実装をめぐる議論では、責任を問えない事故に関しては保険制度でカバーすべきだと考える法律家も多い。

(よく注意してほしいんだけれど、もしも自動運転車問題で「責任」を問うのを止めるということは、法の平等の原則を考えれば、一切の人間の行為全てに、「責任」を問うのを止めよう、ということに必然的になるよね。つまりは、これって、全然、自動運転車問題にピンポイントで答えるような回答になってないんだよねw)
ようするに、たんに、自動運転車は人間じゃないから<彼ら>の責任を免除するかどうか、にとどまらず、

  • すべての、この人間社会から、「責任」概念をなくそう!

という、驚くべき「哲学による社会変革運動」の活動家、アジテーターとして、まあ、そのための端緒として、この自動運転車問題を利用した、っていうだけのようである。

例えば、『自由意志なしで生きる』の著者ダーク・ペレブームは、自由意志の概念を消去して、その帰結として道徳的責任概念をなしで済まそうとする(Pereboom、2001)。一方、『反道徳的責任論』のブルース・ウォーラーは、自由意志概念と道徳的責任概念のつながりを切断した上で、最小限の自由意志は残し、道徳的責任の方は消去するという戦略をとっている(Waller、2011)。しかし、いずれの論者も、基本的な論拠は同じである。つまり、道徳的責任概念(自由意志概念)を支えている人間観・世界観は自然科学的な人間観・世界観と矛盾する、というものだ。

そもそもこれは、掲題の著者の

  • 持論

のようで、ほとんど同じ「思想」をもっていることを、この本の後半で告白すらしている。
ようするにどういうことか?
この概念工学を利用して、哲学者が自分の主張の「正しさ」を試すための、社会実験に、この社会が「使われる」ということを意味しているのだろう...(まあ、フランス革命ロベスピエールとまでは言わないが)。