スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える(上)』

掲題の本の副題にあるように、この本は、人間の本性が

  • ブランク・スレートじゃない

ことを証明するために書かれている。つまり、逆に人間の本性がブランク・スレートだ、と言っている過去の数々の学者の学説が、どのように間違っているのかを証明していく。
しかし、である。
この本のその作業は成功しているのだろうか?
というのは、そう思う人は、本当にこの本を読んでいるのだろうか、と不思議になるからだ。
まず、J・S・ミルの連合主義の説明から始まる。

彼は連合主義と呼ばれる(先にロックが組み立てた)学習に関する説にみがきをかけた。これは人間の知性を生得的な機構を想定せずに説明づけようとする説である。この説によると、ロックが「観念」と呼び、現代の心理学が「特徴」と呼ぶ感覚がブランク・スレートに書き込まれる。くり返し連続してあらわれる観念どうし(たとえばリンゴの赤さと丸さと甘さ)は結びつけられ、一つがほかのものを想起させるようになる。また、類似性のある対象は、たがいに重なりのある観念のセットを想起させる。たとえば多数の犬が感覚に提示されると、それらに共通する特徴(毛、ほえる、四つ足など)が集まって「犬」というカテゴリーをあらわすようになる。

しかし、こうやって見ると、そもそもミルの関心は

  • 教育

や学習の具体的な場面であったことがよく分かるのではないか。学校のあるクラスで、それぞれの出自をもつ子どもたちの、学習の特徴を考えるときに、例えば、白人と黄色人種と黒人で

  • 違った方法で行われているわけではない

ということが言いたいだけなのではないか? そして、それぞれの連合主義が想定する脳を構成している機能それぞれに、別に差異を想定する理由もないのなら、

  • このレベルにおいて

これをブランク・スレートと呼ぶ(つまり、教育学の方法的なレベルにおいてそう呼ぶ)ことは、一定の合理性があると言わざるをえないと思う。
結局、ピンカーが人間の本性はブランク・スレートじゃないと主張することと、

  • 人間には遺伝子という設計図がある

ということは完全に

  • 同値

だと言わざるをえないだろう。ようするに、ピンカーが言いたいのは、これだけのことなのだ。
だとするなら、こういったレベルで、ピンカーのこの主張に反対した人は、一体今まで、存在したのか、が疑わしくなるわけである。

ロックもこの問題を認識しており、白紙のうえに書かれたものを見て、認識や内省や関連づけを実行する「悟性[思考能力]」と呼ばれるものにそれとなく言及した。

一見すると、掲題の本は、ロックが『人間悟性論』において、人間の本性はブランク・スレートだと言ったという

  • 前提

で書き始めているが、驚くべきことに、第3章まで来ると、いやロックはそう言ってなかった、という話が急に湧いてくる。ようするに、ロックが人間の本性はブランク・スレートだと「定義」してない。ある一部を切り取ると、そう読みたくなる記述の場所がある、というだけで、『人間悟性論』全体を読むと、ロックの真意はどうもそうじゃない、となっているわけである。
この問題がより際だって、この本で強調されるのが

に関係して行われる。ピンカーはコネクショニズムがブランク・スレート信者の「最後の砦」だと言う。どういう意味なのか?

一つめはヒトゲノム・プロジェクトの成果である。二〇〇一年にヒトゲノムの塩基配列が発表されえたとき、遺伝学者たちは、遺伝子の数が予想よりも少ないことに驚いた。算定された遺伝子の数はおよそ三万四〇〇〇個で、予想されていた五万個から一〇万個という数字を大きくはずれていた。

二つ目の問題は、認知プロセスを解明するために使われるニューラルネットワークのコンピュータモデルからくる。こうした人工のニューラルネットワークは、入力の統計的なパターンの学習を得意とするものが多い。コネクショニズムと呼ばれる学派の認知科学者のなかには、人間のあらゆる認知は、対人的な推論や言語といった特定の能力にあわせた生得的な設定をほとんどあるいはまったくもちださずに、汎用(ジェネリック)のニューラルネットワークで説明できると言う人たちもいる。第2章で触れたように、コネクショニズム創始者であるデイヴィッド・ラメルハートとジェイムズ・クレランドは、人がラットより利口なのは連合皮質を多くもっているための、それを組織化する文化が環境にあるためにすぎないと述べている。
三つめは、胎児期や乳幼児期に脳がどのように発達するか、実験動物が学習するときに脳がどのようにその経験を記録するかを調べる、神経可塑性の研究からくる。近年の神経科学では、学習や活動や感覚入力によって脳が変化するという研究報告がされているが、そうした発見に対するひねった解釈の一つに、超可塑性とでも呼べそうなものがある。この立場によると、大脳皮質(知覚、思考、言語、記憶にたずさわる複雑な灰白質)は、環境の構造や要求によってどういうふうにでもなる変幻自在な物質である。ブランク・スレートが塑性のある(プラスティック)スレートになるのだ。
コネクショニズムと超可塑性は、西極の認知科学者のあいだで人気がある。完全なブランク・スレートは否定するものの、生得的な組織化は注意や記憶の単純なバイアスだけに限定したいという研究者たちである。また超可塑性は、教育や社会政策の場において神経科学の重要性を高めたいと思っている神経科学者にとっても、乳幼児の発達を促進する製品や、学習障害を治す製品や、老化を遅らせる製品を売る起業家にとっても魅力がある。

ピンカーの主張は、遺伝子という設計図があるんだから、ブランク・スレートじゃない、というものであった。しかし、そもそも遺伝子情報は、有限であり、たんに有限だというだけじゃなくて、

  • 人間の行動の複雑さ

を考えると、あまりにも少ない情報という印象を受ける。それは、三万四千個がどうのこうのというより、このレベルの複雑さの濃度が問われているわけで、致命的なわけであろう。
そしてコネクショニズムとはどういうことかというと、まあ、大脳新皮質を考えてみればいい。同じ形をしたニューロン細胞が次々と繋がって、それが集まっているだけで、ようするに

  • 個性

がないんだよね。強いて個性といえば、そこに書きこまれている情報やプログラムの方にあって。っていうか、

  • こういうの

を「ブランク・スレート」と呼んでたんじゃないんですかねw
ようするにどういうことかというと、人間の脳の階層説において、大脳辺縁系は一番外側の、人間の学習能力などの最も人間的な特徴を表す場所であって、ここに限定した特徴においては、ブランク・スレート的な様相を示している、と

  • ピンカー以外の人

は言っているじゃないんですかね。だから、その下のより原始的な脳の個所においては、より単純に、遺伝子の影響を色濃く残していたとしても不思議じゃない。

ティーヴン・ジェイ・グールド、リチャード・レウォンティンほかの、「"社会生物学" に反対する」宣言の署名者たちは次のように書いた。

私たちは、人間の行動に遺伝的構成要素があることを否定しているのではない。しかし人間の行動の普遍性は、戦争、女性に対する性的搾取、交換の媒体としての貨幣の使用といった、変動の多い各論的な習慣のなかよりも、摂食や排泄や睡眠といった総論的なもののなかにより多く発見されるのではないかと考えている。

普通に読むと、遺伝子の影響は、大脳辺縁系が中心になって行う、人間の言語的な活動より、その下層の脳で行われる、より本能的な活動を制御する場所の方が大きいように思われるって言っているわけで、まあ、上記までの

を代表とする人たちの意見と、まったく同じように思われるわけで。
はて?
ピンカーは誰と、そして何と戦っているのだろう?

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)