戸田山和久「哲学的自然主義の可能性」

掲題の論文は、2004年の雑誌「思想」に掲載されたものであるが、日本において、この

について、かなり包括的にそのプロジェクトについてまとめられたものと考えている。そういう意味で、そもそも多くの人が「自然主義」という言葉を使ってなにかを語っているが、それをどう考えたらいいのか、について、一つのメルクマールと考えられるだろう。
この視点において、掲題の著者は、以下のような二つの分類を強調する:

まず重要なのは、自然主義の文脈では「自然界を超えたもの」の拒否が存在と知識の二つの面で主張されれうということだ。「存在論自然主義」と「認識論的自然主義(あるいは方法論的自然主義)」とを区別するべきだという見方は次第に定着してきているように重れる。

この二つの分類についてであるが、まず「存在論的」の方はいいであろう。ようするに、物理主義だ。なんらかの「考える」というモノと、それが脳の中に、なんらかの形で、例えば、ダイナミックな神経伝達の、電気の波、一部の脳が活発に活動している(サーモグラフィーで見ると、一部が赤くなる)といった形で、なんらかの

  • 一対一対応

が記述できる(つまり、これはある時、ある場所における、ある人の脳の状態と、別の時、別の場所の、別の人のそれとが、同じ「考える」モノに対して、「同じ」と言えるような同型性が指摘できる、ということを含意する)ということになる。
しかし、この場合の、その「考える」モノに対応するちょうな、「物理的対象」を、果して発見できるのか、という疑問がある(まあ、素粒子のレベルまで下げないといけないのか、など)。それに対して、掲題の著者は、科学的実在論における、イアン・ハッキング反実在論の立場が参考になる、と考える。

操作可能である以上、電子は実在するが、その電子の振る舞いを説明するための、さらにミクロなレベル、あるいはさらに高エネルギーのレベルを要求する説明については、反実在論ないしは道具主義的に考え、文字通り正しい世界の記述を与えるものではないとする折衷的な立場をとることが可能である。そして、実験的に操作可能な対象のレベルでは、まさにそれが操作可能であるということによって、そこで実在を認められる物理的対象は因果的エージェントであるという解釈を受けつけるはずだ。もちろん、さらにミクロな対象までを操作しうる日が来るかもしれない。そのときは、そのレベルの対象に実在性を付与することになるだろう。

ようするに、掲題の著者は、ここで物理主義と言っても、別に、なんらかの究極の理論を提示しなければならないと考えているわけではないわけである。つまり、理論はなんらかの、アバウトな

  • 仮説

であり、

  • モデル

であることを許容する。そういう意味では、「形而上学」を否定していない。ただ、これは科学なのだから、どこかの個所では、なんらかの、イアン・ハッキングが言うようなレベルでの、

  • 物理的対象の「操作可能性」

を担保していなければならないのではないか、と言っているというわけで、まあ、一般的な自然科学の態度だと、このレベルにおいては言えるだろう(そもそも、自然科学が、なんらかの「形而上学」の様相を示していたからといって、それを「禁止」するような、外部的なルールもないのだw)。
さて。続いては、もう一つの立場ということで、認識論的自然主義なのであるが、こちらはようするに「思弁的」に記述されていく自然主義ということになるわけで、別に、この存在論的と、認識論的の二つが矛盾していい、ということを言っているわけではないわけだ:

認識論的自然主義に関して次のようなことが語られてきた。

  1. 認識論的支援主義はすべてのアプリオリな知識の拒否である。つまり、すべての知識は人間と自然の間の相互作用に由来するという主張である。[Giere 2000]
  2. 認識論的支援主義は認識論に関して信頼性主義(reliabilism)を採用する。[Rosenberg 1996]
  3. 認識論的支援主義は自然主義は哲学と経験科学は連続しているという主張である。[Papineau 1993]
  4. 認識論的支援主義は第一哲学の理念の拒否である。[Rosenberg 1996]
  5. 認識論的支援主義は、知識獲得のための探求方法は、完成したと想定された経験科学(たとえば理想的物理学)によって容認される方法からなるか、あるいはそうした方法にもとづくものでなければならないとする主張である。[Moser & Yandell 2000]

まあ、細かいことはどうでもいいのだが、上記の箇条書きで注目すべきところは、

という概念を拒否していることであろう。それは、ある意味で、「第一哲学」の拒否に関係して、または、それに連動して採用された立場なのだろうが、少し不正確な記述の印象を受けるのは、ここでは

  • 生得的(=遺伝子)

との区別がされていないところにある:

たとえば、われわれが他者の行動を予測するために使っているとされる「心の理論」が、他者の行動の観察からえられるものなのか、それとも遺伝的・生得的にすでにわれわれの心にモジュールとして備わっているのかを決定するのは、経験的研究である。

ようするに、ここでの「アプリオリ」概念の拒否は、あくまでも、

  • 第一哲学の拒否

に関連して行われている、第一哲学としてのアプリオリ性なわけであろう。しかし、よく分からないが、科学が安易に、アプリオリを拒否するなんて言っていいのだろうか? というか、科学はそれを

  • 仮説

という言葉で、整理してきたのではないのか? ところが、科学の

  • 全て

の主張は、「仮説」でもあるのだが...。
思想 2004年4月号 - 岩波書店