B.C.ファン・フラーセン『科学的世界像』

掲題の本は、いわゆる「科学哲学」の文脈で有名な「科学的実在論争」の一つの極である、「反実在論」を代表する一つの立場(掲題の著者はそれを、「構成主義的経験論」と呼んでいる)について説明された、代表的な本である。
この場合、「科学的実在論」というのはなんなのか、ということになるが、この立場は、別に、

に反対して、

  • 観念論

を主張する、といったような、古典的実在論の議論をしているわけではない。つまり、別にここでは一般的な「もの」について、その「実在」があるのかないのかで、もめているわけではない。
ここで、因縁をつけられているのは、あくまで「科学理論」だ、ということになる。具体的には、

といったような、

  • 肉眼で見えない

のでありながら、あくまで「科学理論」の中では、あたかも「もの」であるかのように、言わば「比喩」的に扱われている「もの」についてであり、つまり、こういったものを、素朴に「ある」と言っていいのか、と問うているわけである。
さて。もう少し具体的に、その主張の「からくり」を見ていこう。

「観察可能」というのは曖昧な述語だ、ということである。曖昧な述語をめぐっては多くのパズルがあり、曖昧さがあるときいはいかなる区別もできないことを示そうとして企てられた多くの詭弁がある。セクストス・エンピリコスに、近親相姦は反道徳的でない、という論証がある。なんとなれば、母親の足の親指に手の小指で触れることは、反道徳的でない。そしてそれから先はすべて、単に程度の差にすぎないではないか、という具合である。しかし、自然言語の述語はほとんどすべて曖昧であるのに、その使用には何の問題もない。問題が起こるのは、曖昧な述語を支配する論理を定式化しようとするときである。曖昧な述語は、明白な実例と明白な反例さえあれば、使うことができる。肉眼で見ることは、観察の明白な実例である。すると、ここでマクスウェルは、明白な反例を出してみろ、と要求しているのではなかろうか。おそらく、そうであろう。なぜなら彼は「私は、いかなる(論理的用語でない)用語も観察用語の可能な候補である、という見解を支持しようと努めてきた」と言っているからである。
望遠鏡を通して木星の衛衛星を見ることは、観察の明白な実例であると思われる。なぜなら、宇宙飛行士は明らかに、間近からもそれを見ることができるであろうからである。しかし私は、霧箱における微粒子の、いわゆる観察は、たとえそこで何が起こっているかについてのわれわれの理論が正しいとしても、明らかに場合が異なると思う。

肉眼で見えない

を、なぜ私たちが「ものが在る」と呼んでいるかといえば、それはあくまで「科学理論」に対応した、ある「結果」を、その理論モデル内の「説明」の対応物として、そう呼んでいるということを意味しているだけで、つまり、

  • この法則に従った結果になった

といったことが示されただけで、ここで「それ」があると言っていいのか、という疑いが残ってしまう。
しかし、そうは言ってもね、という感覚が残ることは、まあ、残るわけである。というのは、こう考えてみよう。肉眼で見えないくらい小さな物があったとき、それをルーペや眼鏡で見えるようになったとするなら、そもそも、ルーペや眼鏡は、

  • 肉眼のレンズの「光学」的な原理と同じ「からくり」を使って

それを見せているんだから、この場合は、さすがに、そこまで疑うのもどうか、ということになるであろう。
では、電子顕微鏡や、医療で使われるCT画像のようなものはどうか?
まあ、だんだんと「これ」は何をやっているのか、というのが少しずつ疑われていく、ということなのであろう。「これ」はなんらかの、科学理論が「ある」としたものを、その測定結果に対応して、ある

  • ルール

に基づいて、色付けしていったもの、ということを意味しているにすぎず、そもそもこれがなんなのかは、あくまでもその範囲の何か、ということを意味しているにすぎない。
しかし、なぜ「科学哲学」は、こういった「科学理論」によって説明された「実在」の呼称について、

  • 警戒

するのだろうか?
それは、早い話が、過去から何度も起きてきた「科学革命」に関係している、と言えるだろう。例えば、上記の例にしても、まだ素粒子が見つかってなかったときは、素粒子による説明はされなかったわけであるが、つまりは、それまでは

が書かれていた、ということになってしまう。じゃあ、これまで「真」と言っていたことはなんなんだ、ということになった、というわけであろう。
しかし、である。
なんだ、とは思わないか?
これだけのことなんだ、とw

科学理論を構成する目標は、世界がいかなるものであるかについての文字通りに真なる叙述をわれわれに与えることであり、そして一つの科学理論の承認には、それが真であるという信念が含まれる、という立場が、科学的実在論であった。したがって反-実在論とは、科学の目標はそのような文字通りに真なる叙述を与えなくても達成できるし、理論の承認に含まれるのは、それが真だという信念以下の(あるいは以外の)ものでよい、という立場である。
それでは、これらの異なる立場によれば、科学者は何をしていることになるのであろうか? 実在論者によれば、誰かがある理論を提案するとき、彼はそれが真であると主張している。しかし反-実在論者によれば、提案者はその理論が真であると主張しているのではない。彼はそれを掲げてみせ、そしてそれがある種の長所をもつことを主張しているのである。その長所は、真であるということに比べれば弱いものであってよい。それは経験的十全性であるかもしれないし、包括的であること、いろいろな目的にとって受け入れることかもしれない。

この引用個所は、そもそも、この本の最初の方で行われる「反実在論」の、掲題の著者による定義になるわけであるが、よく考えてみると、これを「反実在論」と呼ぶのは、どこかおかしいわけである。

一つかなり大きな疑問は、著者の考えもまた、やはり一種の実在論ではないのか、ということである。(もちろん、それだから "悪い" と言うわけではない。)なぜなら著者もまた、「観察不可能なもの」の存在を----あるいは少なくとも、そのようなものが存在するかもしれない、ということを----認めているからである。ただ、科学のそれ自体としての目標は、そのような観察不可能なものの真なる記述にはない、という点でのみ、著者は「経験主義者」なのである。
(丹治信春「訳者あとがき」)

これは、訳者による「あとがき」からの引用であるが、掲題の著者も

  • そこに「なにか」がある

ことを否定していないのだ! それは、「観測」できていない、かもしれないが、いずれにしろ、「ある」を否定していない。だとするなら、こういうものを「反実在論」と呼ぶことは、言葉のリテラルの意味からして、違和感があるのは確かであろう。
だとするなら、掲題の著者は、結局は何が言いたいのか?
それは、上記の引用にもあるように、そもそも科学は、なんらかの定型的な「手続き」において、明示的な

  • 差異

を示せれば、それはホーリズム的には「なんらかの実在」を指示していることにはなる、つまり、科学的主張としては、これで十分なんだ、ということなのであろう。
例えば、こんなふうに考えてみよう。科学的実在論の側が、「実在する」と言っているとしても、それを全体として

  • でも、そういった個所は、構成主義実在論の立場では、これこれこういう意味なんだと解釈できる

と記述できるのなら、なんの問題もないんじゃないのか、と。
こういった姿勢はどこか、数学における、古典論理直観主義的論理に似ている、と言えなくもない。直観主義的論理においては、排中律がないという意味では、古典論理のサブセットとなっているわけで、つまり、古典論理の命題を、「という命題を構成できる」と読み替えれば、それで成立している。
例えば、数学基礎論の最近の教科書で、それを「有限の立場」でしょうめい が記述されているものは、まずないんじゃないか。なぜなら、有限の立場は、古典論理のサブセットだから、証明のどの部分が怪しいのかはすぐ分かるからである。しかも、モデル理論のメタ数学化を行えば、いずれにしろ、有限の立場で、その「モデル」が作れることが示せないわけでもない。
同じことは、カントの批判哲学についても言えるだろう。ただ、そう扱っておくことで、いつか、こういった読み替えでは、うまく「つじつま」を合わせられないんじゃないのか、と思える命題が発見されるかもしれない、とは言えるわけである...。

科学的世界像

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