牧野英二『カントを読む』

掲題の本は、まあ、カント論なのだが、副題が「ポストモダニズム以降の批判哲学」とあるように、現代思想への、カントの影響をにらみつつ、まあ、現代の事象に対する批評を行っている、といったところが特徴だろうか。
しかし、その場合、どうしても避けては通れないのが、カントにおける

  • 物自体

をカント以降の哲学者が、どのように解釈してきたのか、ということになる。
その典型が、カントと同時代のヤコービの主張であるが、これは、カント以降の世代の、ドイツ観念論ヘーゲルフィヒテシェリングなどにとっての

  • 常識

となった認識なわけで、いわばカント哲学は、こういった「無理解」の中、現代まで、引き継がれている、という特徴があることに注意がいる。

すでにみたように、カントは一方では現象だけが唯一の対象であり、「物自体」は認識できないと言いながら、他方では現象の根拠とか現象の原因という表現を使用して、この対象について語り、「物自体」がなければ現象の存在は不可能だ、と言い続けてきたからです。
そうすると、そもそも知ることのできないものについて、それは存在するということがなぜ言えるのか。そして表象の原因、現象の原因などの原因・結果のカテゴリーは、カントみずから禁じたルールに違反するのではないか。つまりカテゴリーを現象にだけ使用でき、適用可能だといったはずなのに、「物自体」に対してカテゴリーを使用するという不整合を犯している、というわけであります。

ヤコービの主張は、現代の科学者がカントを批判するときにも使うレトリックだ。
前者の、知ることができないものの「存在」を語れない、というのは、まさに「科学」の手法であろう。この場合、経験できないから、その「存在」を云々することには意味がない、というのは、もしもそれが「現象」であれば、それそのもの自然科学の話であるわけで、合理的なわけだが、カントがあえて、

  • それ以外

のところに、つまり、形而上学という場所に、この概念を置いているわけで、だったらたんに、自分の立場は自然主義だ、と言えばいいだけなのではないか(後者については、以下で検討する)。
ほぼ、ヤコービと同様の理由で、カントの物自体の概念の

  • 廃棄

を主張したのが、分析哲学者のストローソンだ。

この概念は「触発」という困難な問題とも関連しますが、この問題をドイツ観念論とは対照的に内在的に、経験的な地平に即して批判的にカントの経験の理論を再検討した優れた試みのひとつとして、現代のイギリス哲学界を代表するひとりピーター・ストローソンの『意味の限界』(一九六六年)を挙げることができます。ストローソンは、経験の可能性をめぐる問題について現象と実在との対比、対立を有意味に適用するための普遍的な制約はなにかという疑問を投げかけています。また現象と実在、現象と「物自体」の対比を外的知覚に適用する場合、この普遍的な制約、カントの言葉で言えば、時間・空間やカテゴリーという形式的な条件が満たされているかどうかという問題を提起しています。この問題意識から出発する場合、人間は何らかの仕方で現象と「物自体」の関係を知覚し認識できなければならないはずです。ところが「物自体」といわれるものは知覚からは独立して、それ自体で存在する実在であるという前提ですから、そのかぎりでは「物自体」を知覚によって認識することは不可能になります。
また「物自体」による触発といわれる事態も、人間には認識できないわけですから、人間の知覚は仮に「物自体」によって触発された結果であるとしても、その原因を認識する手立てはありません、カテゴリーが意味をもつような使用は、時間的・空間的な枠組みのなかでだけ可能なので、対象による触発という影響関係については、人間の感覚や神経装置に及ぼす科学的な因果的説明による以外に論ずることはできない、というようにストローソンは批判しています。したがって、カントは「物自体」と現象という区別が意味をもつように概念を適用するための制約を満たすことに失敗した、という結論に到達しました。

ようするに、ヤコービもストローソンも、カントから言わせれば、物自体を

  • 現象

と「同じ」に扱うことを、まるで前提にして議論している(そもそも、経験主義は「経験」しか対象として語れない)というところに特徴があるわけで、ようするに、

  • 物自体を<もう一つの別の現象>

  • カントは言っているはずだ

という思い込みで、全てが語られているわけだ。これでは話がかみあうはずがないと思わなくはないが、以下のアリソンのように、だったら、物自体を現象の

  • 別の側面から見た、同一の<なにか>

と割り切っちゃえばいいのか、というとについては、そう言われると少し、もにょる面があるわけで、難しいわけだ。

実際カントは、現象としての対象と超越的な対象である「物自体」という二つの対象の存在を主張したわけではなくて、異なる二つの観点から意味づけられた唯一の対象が存在することを言おうとしたことも否定できません。この点に着目すると、現象と「物自体」は、同一物の二つの名称を表わす概念とみた方がよいという解釈が出てきます。たとえば、近年の内在的な解釈者のなかには、英米系ではヘンリー・アリソン、ドイツ系ではゲロルト・プラウスに代表されるように、カントの「物自体」の可能性整合的に評価する研究がみられます。
アリソンは、二重の観点ないし二つの記述の見方の立場に依拠して、現象と「物自体」という区別をしつつ、同一の実在についての説明を行なっています。したがって現象と「物自体」の違いは、同一の実在を考察する二つの方の違いにすぎない、と主張しています。また、触発の問題が一種の因果関係とみられる問題についても、表象の原因とか根拠という表現の意味は、純粋に方法的な意味に考えるべきであることになりましょう。要するに、同一のものをそれ自体として記述したのですから、この場合のそれ自体とは、感性との関係、時間・空間と分離されたという意味になります。ですから、カントの言う超越的なものとは異なり、われわれにとってという意味が消去されるわけではないのです。こうして、同一物が他方が現象の記述であり、一方は「物自体」の記述を意味するという解釈が成立するわけです。

上記の引用にあるように、このように考えれば、ヤコービの批判の後半にあった、

  • 現象が、別の<もの>である、ある、物自体の「原因」である

といった記述を行う理由はなくなるわけで、同じなんだから、それを「原因」関係で語るのは変じゃろ、っていうのはいいんだけれど、しかし、こういった解釈をそのままにリテラルに読むと、まるで

  • 物自体は、なんらかの意味で「分割」されていて、現象との「一対一」関係が成立している

といったように読めるわけで、難しい。ここは、こんなふうに考えればいいのかもしれない。量子力学で、素粒子は、まるで

  • 非局所的

な関係を示すときがある。こうした場合、その「分割」ってなんだ? こう問うわけである。
ようするに、物自体が、どうなっているなんていうことの

  • 一切の情報

は人間は取得できない、とカントは言うんだから、そうだと考えるしかないわけである。むしろ、なんらかの関係があっちゃいけないわけである。
うーん。
こうやって考えていくと、そもそも、「物自体」というものを、どうこうである、と言うこと自体に意味があるのか、といった

  • そもそも論

にまで遡って、問題提起がされそうになってくるわけであるが、おそらくそのことは、カント自身も分かっていて、カントは物自体をもっと広い<何か>として、いろいろなところで語っている、というのは間違いないわけですよね...。

ではパースは、「物自体」の実在性を完全に切り捨てるかというと、実はそうではありません。パースは認識可能な現象と認識不可能な「物自体」という、カントによる超越論的区別に代わって、現実に認識されているものと無限界に認識可能なものとしての実在という区別を導き出してきます。これはパース独特の記号論的に変換れた認識論の立場であり、カントのように直観と概念、感性と悟性、あるいは多様な質料とそれを秩序づける形式という二元論とは異質な形で無秩序なままで与えられ、それを人間の知性の働きが秩序づけ法則的な認識を成立させるという見解がありました。
ところが、パースではこうした質料と形式の総合的統一によって認識が成立するのではなくて、記号による表象作用、したがって推論によって実在に関する真なる見解を獲得していくプロセスに認識のあり方を見いだしていくわけです。ですから、カントと対比させて表現すると、カントにとって認識を成り立たさる最終的根拠は、統覚の統一の働きを表わす「われ思う」という主観の働きに帰せられるのですが、パースの場合には、実在性の規準および真理の規準は、客観ないし物理的対象を探究する研究者間の共同体内部での最終的な意見の一致に帰着するわけです。これはいゆる真理の合意説の立場になります。

カントでは実在性問題は、現象概念が「物自体」の概念要求するかぎり、現象のレベルにとどまらない射程を有しています、ところが、パースの場合には認識問題はどこまでも判断者間の合意形成のプロセスにすぎないわけです。したがって、真理問題も認識主観と客観との一致とか、実在物に対する指示という関係ではなくて、どこまでもカントが主張したいわば半分、つまり判断者間の普遍的な伝達可能性に即して考察されることになります。

ここでのパースの解釈は、言わば、そのカントの多角的な「物自体」に対してもたせた意味の

  • 一つの側面

にのみ集中して、その解釈を行ったということになるのであろうが、これはこれで、そこまで間違っていないわけである。
いや、もっと言うことができる。
つまり、以下のように、カントの物自体を「他者」論として読み込む、という立場である。

最後に、他者論との関係からもう少し「物自体」について言及してみたいと思います。批判哲学の論理的な首尾一貫性を考慮すると、超越的な「物自体」の実在性は捨てるべきであるという見解は、パースとは別の立場からもありえます。現に新カント派おマールブルク学派の代表者、ヘルマン・コーエンは実在物としての「物自体」を廃棄して、「物自体」という概念を重要な学問的な概念として尊重していきます。つまり「物自体」とは科学的認識の総括であり、「物自体」は、科学的な知の課題を意味すると主張しました。実は「物自体」は課題であり、限界概念であるという見解は、すでにカントにあった考え方です。

ところでこのような解釈をする場合でも、実在性の問題を完全に消去することはできないはずです。人間が認識を進めていくうえで、学問的な認識のみならず、人間の行為や社会生活や国際政治の場面を考えたとき、「物自体」や触発の問題は、「他者」とその抵抗や実在性の問題と切り離すことはできません。真理の合意説を採用するにしても、学問的認識を探究する場合でも、その主体は、自己にとって他者である人間に対して応答を求めて働きかけ、同意を形成しようとするだけでなく、他者の見解に対抗し、他者の意志に抵抗していく存在者でもあります。こうした他者は、自己との同型性を欠く非対称な実在性をもつ不可知の「物自体」である、と言うことができます。たしかに学問的な認識活動にとっても、共同研究のパートナーとして他者からの働きかけや相互承認が必要であります。人間の知識や行為、信仰などの営みは、総じてたんに主張された判断や行為の正当化にとどまらず、何らかの意味で実在との対応や他者との応答を希求するものである、と考えることができます。

こういった解釈がなぜ現れるかというと、ようするにカントのコペルニクス革命。つまり、

  • 客観

の問題を考えると、どうもカントの意図において、なんらかの多角的な、多くの主体の意図の「重なり」のようなものをイメージしていたんじゃないのか、といった解釈は、どうしても出てくるから、なのであろう。
そしてそれが、じゃあ、どこまで間違っているのかということになると、後の、実践理性批判以降のカントの物自体の扱い方を考えてみても、まあ、それなりに正当性を考えられるんじゃないのか、とは思えるわけで、つまりは結局どういうことなのか、ってなるんだろうけれど、まだ、カントの物自体が

  • なんなのか

の解釈は決着がついていない、ってことなんですかね...。

カントを読む――ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波人文書セレクション)

カントを読む――ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波人文書セレクション)