島薗進『神聖天皇のゆくえ』

以前、このブログで、東浩紀先生の、憲法学者の木村草太さんへの批判をとりあげて、それに批判的に検討したことがあった:

憲法9条と自衛隊の存在が矛盾しているのは小学生でもわかることで、そういうのを放置してるからこの国はだんだんおかしくなってくるのだ。
@hazuma 2013/01/01 14:43:12

自衛隊が必要なのは自明であり、そして自明なものを違憲化している憲法がバカげているのも自明である。これは戦前の歴史がどーとか日米同盟がどーとかいっさい関係ない。
@hazuma 2013/01/01 14:49:01

今回の騒動の教訓は、憲法は、普通の日本語で書かれるものじゃないといけないということでもある。普通の日本語で言えば、自衛隊は戦力だ。学問の世界で自衛隊は戦力ではないということになっていて、たとえそれが正当だとしても、そういうことをやっていると憲法への信頼自体がなくなるんだよ。
@hazuma 2015/06/15 18:48:29

立憲主義は、国民が憲法で政府を縛る立場を意味します。そのためには憲法は国民だれもがわかる文章でなければなりません。自衛隊が合憲か違憲か学説によって異なるという現状こそ、立憲主義の最大の障害なのです。なぜこのシンプルな話が通らないのか、それもまたナゾです。
@hazuma 2017/10/25 01:04:30

ここで、東浩紀先生が述べていることは、それが木村草太さんの学説(まあ、学界の主流の学説でもあるのだが)への批判となっていたわけで、ようするに、

  • 憲法は子どもでも分かる「リテラルな記述」になっていなければならない

という、一種の憲法「自明」文体説を唱えられていて、実際、似たようなことを言う人は、今の自民党支持者の改憲論者の中にもいるわけだけれど、しかし、これって

  • 恐しい

なって、思うわけです。なぜなら、これって、戦前の

  • 国体明徴運動

と完全に「同型」な主張ですよね?
私たちのこのリベラル社会は、そんなに「自明」なものでしょうか? 私には、どうしても、そう思えないわけです。つまり、なんのことを言っているのかというと、そんなにこの社会は

  • 分かりやすい

ものなのでしょうか? また、そうでなければいけないものなのでしょうか? そもそも、リベラリズムは非常に微妙なバランスの下で、やっと成立しているものなのであって、これを単純化しようとすることは、戦前の

つまり、

  • 国体明徴運動

と同じことを主張していることを意味しないでしょうか?

結局、時の若槻礼次郎内閣は美濃部の著書を発禁処分にするとともに、八月三日に次の「国体明徴に関する政府声明」を出しました。

「国体明徴に関する政府声明」は一度だけでなく、再度、九月一八日にほぼ同じ内容で出されています。

蓑田胸喜が、憲法学者の美濃部辰吉に言ってることは、私には、どうしても、東浩紀先生が、憲法学者の木村草太さんに言っていることと重なって聞こえます。蓑田は、美濃部が

  • 曖昧だ

と怒っているわけです。憲法を「子どもの目」から見れば、天皇機関説なわけがない。どうでしょう? 上記の、憲法9条に現行の自衛隊が矛盾するという主張に、非常に近くないでしょうか?
今の憲法にしてもそうでしょう。第一条から第八条までの天皇の規定は、読み方によっては、戦前の「神聖天皇」へ繋がるものを感じなくはないわけですし、そうやって考えていくと、すべてを「分かりやすく」していくということの意味は、蓑田胸喜

  • どっちなんだ?

と二択で何度も追い詰めていった先に、どういった

  • バランス

のものが生まれるのかは、少しも自明なわけではないでしょう(もちろん、それがリベラルにとって都合のいいものになる保証もありません)。
世の中には、多くの曖昧なことがあります。例えば、カントの哲学は、キリスト教神学から、哲学を「独立」させました。それだけではなく、各学問分野、それぞれを、「独立」に研究可能である、としました。しかし、それ以前の学問は、そうではありませんでした。基本的に、すべての学問は神学を根底にしたものであって、つまりは、

だったわけです。しかし、逆に考えてみると、なぜホーリズムではなく、カントのように各学問を独立させられるのか、を説明することは難しいように思われます。しかし、事実として、カント以降、各学問はそういった「独立」化、細分化によって、現在の繁栄を見ることができているわけです。
例えば、ユークリッド幾何学において、線は幅をもたないとなっており、点は大きさをもたない、となっています。しかし、そもそも、そんな線や点は書けないし、つまりは、(リアルな意味では)存在しないわけで、だったら、そんなものを考えることは無意味だ、と、理屈の上では言えてしまいます。
しかし、そういった「矛盾した概念」を、使うことは、数学では、よくあることですし、他の分野でもそうでしょう。そのことの意味は、例えば、カントで言えば、内容に対して「形式」を先行させるようなアイデアを意味します。ユークリッド幾何学の代数化は、その一つで、代数化された後、それぞれの数式は、たんに文字列でしかないわけで、たとえそれらの文字列が、矛盾なく「変換」されていくにしても、最初にもっていた幾何学の直観的なイメージは、直接にはすでに失われているわけです。
しかし、それに「文句」を言う人は、いるでしょうか?
私たちが戦うべきは、上記にあるような、「自衛隊が必要なのは自明」といったような、一見

  • 分かりやすい

発言が、本質的な「曖昧さ」をもっていることであり、その曖昧さを、どこまでも追及していくことが重要に思われます。むしろ、問題は逆なわけです。分かりやすくなければならない、ではなく、分かりやすいとされているものの曖昧さであり、なにかを隠そうとするからこそ語られない説明の省略こそ、戦う相手であり、(カントが追及したように)今以上に、人間が何をやっているのかを追及していく姿勢が重要なのでしょう...。