神聖性と人間死の軽視

ニーチェによる、近代批判は、よく考えてみると「恐しい」。なぜなら、なにかの「価値」がある、という認識が、結果として、

  • カント

への軽蔑、カント哲学の放棄へと繋がるわけだけれど、つまりは、「道徳」「倫理」といったような

  • ルール

を唾棄し、それの上位に、なにかの

  • 価値

が「ある」ということを意味しているのだから、結局それって、その「価値」以外のものへの「軽視」そのものを意味するわけですよね。
ニーチェはカントを唾棄する。しかし、そのことの意味は、カントの「人間の尊厳」の思想を唾棄することを含意し、畢竟

  • その「価値」のためなら、人間なんて何人死んだって<たいしたことじゃない>

という思想に至る。今さら言うまでもないことだが、それがオウム真理教であった。そして、戦中の「神聖天皇」思想であった。

精神主義は現実的な配慮を軽んじることに結びつき、暴力容認にもなりました。そこに内務斑(兵営内の居住単位)の暴行があります。古参兵が新兵をいたぶることが行われました。現実的にはなんの意味もないような暴力をふるって、それが精神主義的な訓練になるというのです。
島薗進『神聖天皇のゆくえ』)
神聖天皇のゆくえ: 近代日本社会の基軸 (単行本)

兵士の訓練としては「突き刺し」をやったといいます。兵士に命じて中国人の捕虜を銃剣で突き刺して殺させる。そうして軍人魂を身に付けるといいます。そうしたことが神聖天皇にいのちを捧げる軍の使命感と結びついて行われたのでした。乃木希典学習院の校長だった時に、生徒達にやらせた豚斬りにも相通じるものがあります。肝を鍛える、根性をつけさせるこうした考え方が武士道的な精神教育として尊ばれ、神聖天皇という大義によって正当化され、一人ひとりの人間のいのちを軽んじることにつながったのです。
島薗進『神聖天皇のゆくえ』)
神聖天皇のゆくえ: 近代日本社会の基軸 (単行本)

どうして、天皇をいただく国家のために多くの人のいのちが犠牲になることが正当化される体制が生まれたのでしょうか。そこには神聖天皇への崇敬がありました。
島薗進『神聖天皇のゆくえ』)
神聖天皇のゆくえ: 近代日本社会の基軸 (単行本)

ようするに、圧倒的に他を凌駕するような「価値」があるということが、あるということを日々「証明」して生きることを義務づけられるということが、逆説的に、

  • それ以外の全てのこと

を、

  • それに比べたら、(虫ケラ並みに)価値がない

ということを示すこと(一般に、大事なことと思われている、人間の命を、「まるでゴミ屑のように」軽々しく<殺す>こと)によって、

  • こんなことは(それに比べたら)大したことじゃない

という姿を示すことで(胆力を見せることで)、この共同体での、自らの「価値」を示す、というわけである。
さて。これとまったく同じような主張を、ハイデガーにも見出せる。

ハイデガーの後期思想----その全体を統合する要とも言うべきテクノロジー批判も含めて----が破産したことを最終的に証明するものは、一九四九年の一連の講義『存在するものへの洞察』のいささか曖昧な指摘の中に見出されるかもしれない。というのは、この考察こそが、"存在の命運" という理論に含まれる。"水平化" の傾向、つまり合理的な社会史的判断が下しえないことや、ナチズムの犠牲者の苦悩に彼が共感しえないことを、おそらく最もよく暴露しているからである。ハイデガーに従うならば、

今日では農業は機械化された食品産業であり、その本質においてガス室強制収容所における死体の製造と異ならない。それは、多くの国に見られる封鎖や飢餓と異ならない。それは、原子爆弾の製造と異ならない。

ハイデガーが十分に自覚した上で機械化された農業とナチ政治の大量虐殺とを等置していることは、単に歴史説明における記念碑的な事実誤認であるにとどまらない。それは、道徳的認識と理論的認識における根本的な能力の欠如をうかがわせる。
(リチャード・ウォーリン『存在の政治』)
存在の政治―マルティン・ハイデガーの政治思想

ハイデガーにとって、テクノロジーの「評価」において、

  • 農業

がなぜ、並べられるのかというと、結局、ハイデガーにとっては、彼にとっての「神聖」なもの、「(ニーチェ的な)価値」あるものが、彼の思想上、無類の重要さをもつわけで、それに比べて、

が、そういった「価値あるもの」に対比されて、その「低さ」において、

  • どうでもいいもの

として、まるで、「農業」と「ガス室強制収容所」を、等し並みに(無類の価値あるもの、と比べて)価値の低い、という形で「雑に」扱うことで、ある種の「バランス」を示そうとする。
そして、これとまったく「同じ」ような主張を、東浩紀先生も行っている。

そして、人間が人間として扱われることと人間が動物として扱われること、この両者もまたけっして排他的ではない。同じ個人が、個別のコミュニケーションの場では人間として(意志をもった顔のある存在として)扱われるとともに、同時に統計の対象としては動物のように(匿名のひとつのサンプルとして)扱われるということは十分にありうる。というより、外題社会はむしろそのような例に満ちている。
たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、つまり人間として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の女性は子どもを産むべきであり、そのためには経済的るいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。こちらは倫理に反していない。そしてこのふたつの道徳判断は、現代社会では(奇妙なことに!)矛盾しないものと考えられている。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

デリダ研究者として、デリダの『精神について』を高評価していた東浩紀先生は、例えば、彼の処女作である『存在論的、郵便的』の中心の議論が、ハイデガー論であったわけであるけれど、ここに、ハイデガーデリダ東浩紀先生が

において、おそらく、結びついていて、そのことが意味していることは、東浩紀先生の、今に至るまでの、

が見られることの「危険性」を、どう考えるのか、なのであろう(というか、日本の思想家って、宮台真司に至るまで、みんな、どこかしら、ニーチェ主義者で、ハイデガー主義者なんで、実際、いつも今の日本をボロクソにこき下しているところとか、言ってることが反ヒューマニズムのところとか、よくハイデガーに似てるんだよね...)。

追記:
あまり詳しくないのだが、佐々木敦という人が、『ニッポンの思想』という本で、東浩紀先生を、「ゼロ年代東浩紀氏の一人勝ち」と評価していた、というわけだけれど、ウィキペディアを見ると、佐々木先生は、今は早稲田大の先生らしくて、そういえば、東浩紀先生も、一時期、早稲田大の先生だったわけで、なんらかの

  • 人脈(=コネ)

があるんでしょうねえw
ところで、前回のハイデガー本では、ハイデガー用語「呼び声(ルフ)」がどういった位置づけのものだったのか、詳細に説明されていたわけであるが、この用語は、実は、東浩紀先生の『存在論的、郵便的』でも、以下で、まさに

  • 重要な位置づけ

のものとして扱われている。

では前期ハイデガーはどうか。前述したように、彼のシステムは二レヴェルの短絡ら成立している。その短絡回路を以下「クラインの管」と呼ぶことにしよう。その存在は声(フォネー)の機能、メタとオブジェクトの峻別を犯す。第三章でも触れたように、『存在と時間』はこの機能侵犯に「呼び声 Ruf」という音声的隠喩を当てている。呼び声(ルフ)は私の外から到来するものではない。それは「私の中からしかも私を超えて aus mir und doch uber mich」響く。そしてその声こそが「現存在の本来的な存在可能」を、つまり「客体的存在者の『事実性』からは本質的に区別されるべき」「実存性」を開示する(第五四 - 五七節)。呼び声(ルフ)が実存論的構造を可能にする。私たちはこのハイデガーの主張を、今度はクラインの壺の安定化装置について語られたものと解釈できるだろう。呼び声(ルフ)は管と円錐部分を循環し、底面=世界のゲーデル的亀裂より高次で「縫合する suturer」。その縫合作用がなければ世界は開かれたまま放置されてしまう、言い換えれば、象徴界シニフィアンの単なる集積に散逸してしまう[図2 - 2]。現存在の統一性は、底面に空いた穴とその縫合作用、すなわち「現 Da」の解放性とそれを閉じる呼び声(ルフ)の循環運動で維持されるのだ。私たちは以下このシステムを、前二章にしたがい「否定神学システム」と呼ぶことにしよう。そこでは「不可能なもの」は世界内にただ一つ現れる。ゲーデル的亀裂縫合する呼び声(ルフ)とは第二章のパースペクティヴで言えば、システムを不完全性において完全にする逆説的 - 超越論的シニフィアンラカンの言う "必ず届く手紙" のことである。実際テマティックにも、『存在と時間』の呼び声(ルフ)は、「いかなる知識も与えない」にもかかわらず人を「負い目のある存在」に変える「不気味さ」と規定され(第五八節)、『盗まれた手紙』に登場する手紙と多くの特徴が一致する。
東浩紀存在論的、郵便的』)
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

私はね。これ、さっぱり意味が分かんないんですよね。というか、びっくりしませんか?

なんだか分かんないんだけど、この「世の中のスッゲーもの」四つを、

させたら、

んだってさ。これってなんの「厨二病」なんだろうねw っていうか、これについて、なんで世の中の知識人の方々は、評価するなり、なんなり、しないんだろうね。まず、これに言及している人を見たことがないって、どういうことなんだろう? ところで、上記の佐々木敦さんは、上記の本で、これについて、なんか言ってるんですかね?