スコット・ジェイムズ『進化倫理学入門』

そもそも、進化論は「比喩」によって、リテラルには、理論が構築されている。つまり、遺伝子が、まるで「意志」があるかのように、他の遺伝子との「戦い」に「勝って」、「生き残ってきた」かのように説明する。つまり、この進化論の最初の基礎的な部分において、「矛盾した」概念が使われている、という意味では、どこかユークリッド幾何学における、点や線の定義に似ている。
例えば、人間以外の動物でも、家族といったような、血縁の近い動物には、特別に「協力」する、という現象が見られる。そしてそれを、進化学者は、各遺伝子ごとの進化的結果として説明するわけだが、つまりはその遺伝子の「パターン」と非常に近いものを、血縁の近い動物はもっているんだから、この利他的行動は、進化論的に説明可能だ、と考える。しかしだからといって、その遺伝子パターンの「意志」を文字通りに解釈できるわけがない。ようするに、こういった傾向の個体が、現在から過去へと「ひっくり返して」見たとき、平均として「なぜ生き残っている」のか、の端的な説明となるわけだ。
しかし、なぜ、そうなのかと問えば、ようするに、進化論は「ホーリズム」としてしか語れない宿命をもっているから、と言えるだろう。つまり、もしこれを比喩ではなく、直接的に現象を「記述」しようとすると、一切の

  • 全体

をもって記述せざるをえなくなるからだ。なぜ、その生物が今、私の目の前に存在するのか? それは、なぜその生物が過去からの「生殖活動」に成功して、今、ここまで辿り着いたのかを問うことであって、ようするに原因は

  • すべて

だと言うしかなくなる。すべてが、まるでそうなるように運命づけられていたかのように、そう「差配」したから、こうなった、と言うしかない。
例えば、生物学の教科書を見ると、なんらかの、生物の生存戦略についての、「方程式」が書いてあったりするが、それは、あくまでも、

  • ある「特徴」が、「他は無視できる」と考え、決定的な影響を与えた

という

  • 仮説

によって成立している「モデル」に過ぎないわけで、別に、それを証明しているわけではない(もちろん、そのシュミレーションの結果が、今の現象を説明できる、という程度において、それなりの「合理性」を主張し、正当化はするわけだが)。
さて。
なぜ、カント哲学はここまでに、強く

  • 生き残る

のか? それは、彼の倫理学は、ある意味での「本質」を突いていたから、だと言えるのではないか、と思っている。こんなふうに考えてみればいい。カントは、人間の実践理性において、ある、決定的な

  • 断絶

を引いた。つまり、それが、物自体であり、ヌーメノン(知悉界)であったわけだが、ようするに、人間の「選択」意志を、完全な、形而上学的な「外部」に置いたのだ。
そして、それによって、現在の世界の「国内法」「国際法」の秩序は、形成されている。ようするに、この前提は決して「止められない」、本質的なキー概念として、この現在の人間社会の「からくり」を構成してしまった。
まったくの、「原因をもたない」選択意志が「ある」から、私たちは、その人の「罪」を問うことができるし、なんらかの「罰則」を与えることができる。そして、それによって、一定の「秩序」を形成することができる。
ところが、である。
近代の科学者は、こういった「思弁」に

  • 耐えられなかった

わけである。近代の「合理主義者」たちは、カントを軽蔑した。カントは嘘をついている、カントは

  • 偽善者

だ、と。物自体やヌーメノンといった、

  • 非科学的

なものなしで、科学は「この世界」を説明できなければならない。私たちはカントを「超える」のだ。カントを「自然化」するのだ、と彼らは、そう主張することで、自らの、この「科学への信仰」に

  • 酔った

わけであるw
しかし、である。
よく考えてみよう。このことが「含意」しているものは、なんなのだろう?
それは、つまりは、今「ある」とされている、道徳や倫理を、どういったものと考えるのか、にかかっている、とも言えるわけである。

一九七五年、ハーバード大学の昆虫学者であり社会生物学の父であるE・O・ウィルソンは、よく知られているようにこう述べた。「科学者と人文学者は、倫理が哲学者の手を離れて生物学化されるべき時がやってきたという可能性について、共に考えるべきである」(Wilson 1975:520)。

ウィルソンは、動物の行動の中に、一見すると「人間の道徳」と同型に思われるものを次々と発見することによって、

  • 人間の道徳は、動物の「本能」と同値である

といった主張に到達する。ということは、どういうことか? もう、人文学者は

  • いらない

ということだw なぜなら、人間の道徳は、動物を調べれば「分かる」のだから。つまり、道徳は動物行動学に

  • 還元

された、と宣言したわけである。しかし、なぜウィルソンは、こんなことを言い始めたのか? それは、最初の文脈に戻れば、カントの「間違い」を、科学によって

  • やっつける

ためだった、と言えるだろう。つまり、カントの間違いは、こうやれば、解消できる、と例示したわけである。
しかし、こういったウィルソンの「還元」は、そもそもカントが意図した構想を整合性をもって維持できるものなのであろうか? そうでないとしたら、私たちは、「カントはクソだった」と罵っていれば済む話なのか? なにかしら、カントの「動機」に沿って、なにかを「考慮」しなければならない、とは考えられないだろうか?

一部の進化生物学者が推理するところによると、我々の初期の祖先は食物から十分なカロリーを得ることにしばしば苦労していたため、それに対する一つの適応的な解決策は、脂肪の多い食物に対する渇望を生まれつき有していることであったと考えられる。[...]しかし、重要な点はこうである。たとえ仮に進化の歴史によって我々には、脂肪の多い食物が入手可能なときにはいつでもそれを渇望し消費する傾向があるとしても、我々は脂肪の多い食物が入手可能なときにはいつでもそれを渇望し消費するべきだと結論することは正しいと考えられるだろうか。明らかにそうではない。

実は、カントが言っていることも、これとまったく同じなのだ。私たちはウィルソンが言っているように、脂肪の多い食べ物を「食べろ」と、内的に強制される

  • ように作られている

が、カントは「それ」に抗え、と言っているのだ!
このことは、何を意味するだろう。
ようするに、大事なことは、カント以降。道徳や倫理の「定義」が

  • 変わった

のだ! それまでの道徳や倫理は、

  • 人間の傾向性

を記述することであった、それに対して、カントは、言わばそれとは別に、「超越論的動機」という

  • 形式

を導入したわけである。
では、なぜこういった「道徳」的な行動が、動物に見られるのかと考えていると、まずは上記の動物の近親を優先する行動に見られるような、直接、進化論の「理論」で説明できるものがあるだろう。そして、もう一つ、端的にそれが

  • 合理的

だから、といった場合がある。

おそらく、人間以外の動物における互恵的利他性の最もはっきりした例は、類人猿やサルにおいて観察されるグルーミング[毛づくろい]行動である。我々にとっては、「僕の背中を掻いてくれ、そうしたら君の背中を掻いてやる」という格言は比喩的表現である。種の類人猿とサルにとっては、それは真面目な要求である。サバンナモンキーは、たとえば、外的な寄生動物を常に処理しなければならない。それらの寄生動物のいつくかは彼の命を奪いかねないためだ。しかし彼は自分の体の弱いかもしれない部分すべてに手を伸ばすことができない(あなたは背中の真ん中に日焼け止めを塗ろうと試みたことがあるだろうか?)

そして、驚くべきことに、こういった「道徳的現象」は、まさに産まれたばかりの幼児「にさえ」見られるわけである。

魅力的な一連の研究の中で、心理学者のキャロライン・ザーン=ワクスラーは(Zahn-Waxler et al. 1991)はこの反応が驚くほど幼い時期から始まることを示した。ザーン=ワクスラーらが発見したのは、生後一四ヶ月の子どもが、他人の苦悩に反応して苦悩を経験するだけでなく、苦悩している人を楽にしようと、誰かに促されることなく動くということだった。ザーン=ワクスラーは子どもの家族に苦痛で顔をしかめたり泣いたりするふりをさせた。それに反応して子どもは、何らかの本能によってであるかのように、家族に手を当てたり、けがの場所を撫でたりしたのである。

しかし、よく考えてみよう。こういった、ある種の道徳的<兆候>から、私たちが一般的に思うような、いわば「普遍的」道徳まで、そんなに

  • 遠い

だろうか?
例えば、自分の親族に優しくする「道徳的」行為は、そもそも、自分が親族と「その他の人」を区別できる、ということを前提に語られているわけだが、このことは例えば、ニーチェに言わせれば、完全に現代人の遠近法的倒錯なわけであろう。太古の昔に、小さな部落の村社会で生活していた私たちにとっては、おそらく、その村のほとんどは、何世代かさかのぼれば、どこかで繋がっている人ばかりであろうし、そもそも、その村で産まれた赤ん坊が、「本当は誰の子かなんて、分かるわけがない。
ということは、どういうことか? 言うまでもなく、その村の「全員」に親切にすることは、こういった延長で考えるなら、より

  • シンプル

なルールであり、「合理的」なわけだ。
(すみませんが、ここで少し脇道にそれさせてもらう。前回、東浩紀先生の『観光客の哲学』の、ある種の

を「正当化」するレトリックについて紹介させてもらった。分かりやすいように、再度、ここで引用させてもらおう。

そして、人間が人間として扱われることと人間が動物として扱われること、この両者もまたけっして排他的ではない。同じ個人が、個別のコミュニケーションの場では人間として(意志をもった顔のある存在として)扱われるとともに、同時に統計の対象としては動物のように(匿名のひとつのサンプルとして)扱われるということは十分にありうる。というより、外題社会はむしろそのような例に満ちている。
たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、つまり人間として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の女性は子どもを産むべきであり、そのためには経済的るいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。こちらは倫理に反していない。そしてこのふたつの道徳判断は、現代社会では(奇妙なことに!)矛盾しないものと考えられている。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、なぜ東浩紀先生はこの個所の

を「正当化」させるようなものを主張して、平気なのかといえば、それは、この本の後半の「家族」概念の礼讃に関係している。ようするに、この現代社会の、「非人間性」は、

  • 「家族」概念によって、埋め合わされる

という、お互いが相補する関係になっているわけだ。しかし、そうだとするなら、なぜ上記の分析のように、この「相互扶助」の単位を

  • 小さな部落の村社会

としてイメージしないのか、ということが問題になってくるわけであろう。そうすると、例えば、後半の「家族」概念の分析のところには、生殖における、大量の精子の中の、たった一つが、まさに

  • 偶然的に

到達して実現している形態に注目しているように、ここで検討されている「家族」とは完全なる

  • 現代

の都市化され、それぞれが一軒家によって「分断」された、ブルジョア家族形態のイメージで語られている、ということが分かるだろう。毎年、何度も、「家族」で海外旅行をするような「家族」が、そもそも

  • 思考の単位

として選ばれているわけで、こういった事実と、上記の「非人間性」は、まったく無関係ではない。ようするに、彼の考える

  • 人間

の中には、そもそも「貧乏な人たちが、より集まって、集落を作って暮らしている」といった、生活モデルは、最初から入れられていない。つまり、そういった人たちを、「人間」として数えていないのだw)
例えば、功利主義者が大好きな「囚人のジレンマ」の例を考えてみよう。なぜ、フリーライダーは「得」をするのかといえば、それは、そのゲームが

  • 一回で終わる

としているからであろう。しかしね。考えてもみたまえ。世の中に、一回で終わるゲームなどあるだろうか。あるわけがない。私たちは、そうやってゲームを行った人たちと、これからも何度も、街中で出会い、「あいさつ」をして、生きていかなければならない。つまり、「囚人のジレンマ」ゲームは、嫌でも、死ぬまで続くのだ。
だとするなら、どういった行為が「合理的」だろう? それは言うまでもなく、道徳的な行為。相手を「助ける」行為となるだろう。しかし、それだけで、終わるわけがない。つまり、この「合理性」のゲームは、究極まで、

  • 一般化

であり

  • シンプル化

される。つまり、

  • 「卑怯」なフリーライダー、つまり、サイコパスを、村社会の噂話として、徹底して陰口で、相手の評判を落とさせる。
  • そもそも、自分と「関係のない」他人の行為でも、まさに義憤に駆られたかのように、その人の「不正」を告発し、怒る。社会の「ルール」に反していることとして、批判の向き先が「一般化」される。

と。まあ、ここまで来れば、ほとんど、今の「道徳」や「倫理」と変わらなくなるだろう。
しかし、ここまで話してきて、確かに現代に「影響」としては繋がってるんだね、と納得したとして、では、結局は上記のカントの話で問題となった、

  • 動物から人間の「道徳」へのミッシング・リング

の話はどうなったんだ、と思われるかもしれない。
しかし、それは、どういう意味でそうなのだろうか? 例えば、掲題の本では、そもそも道徳なんて「存在」しない。みんな幻想なんであって、なんの実体的な根拠もないんだ、と主張する人たちを「道徳的非実在論者」と分類し、対して、そうではなく、なんらかの「実体的な」根拠が、道徳にもあるんだ、と主張する人たちを「道徳的実在論者」と分類している。
しかし、この場合、そこで言う「実在」とは、一体、どういったもののことを言っているのか、は少しも自明ではないわけである。
この場合、重要なポイントは何かと言うと、ようするに、現代の地球上を見渡してみても、さまざまな地域で、少なくとも、形式的かつ外面的には、道徳の主張は

  • ばらばら

だ、というところにある。つまり、そもそも道徳には「多様性」がありながら、他方において、なんらかの意味において、その主張にはどこか、「普遍的」な妥当性を求めているような、どこか矛盾した傾向性をもっているわけで、このことをどう説明したらいいのか(どう、上記のミッシング・リングの話と関連されていると解釈するか)が自明じゃないわけです。
例えば、一つの立場として紹介されている「反応依存性」に注目する主張においては、例えば、上記で紹介した幼児の「反射的」な傾向の延長の

  • 実体性

を重視する(つまり、この延長で「繋がっている」と考える)立場となるわけであり、もう一つの立場として紹介されている「道徳的構成主義」においては、上記でも検討した、相手を「思いやる」、村社会的な身近な実践が、より「一般化」「抽象化」した概念に洗練されていったもの、と考えることもできるだろう。

何代にもわたる世代を経て、実践的熟慮の対象は、ますます抽象的なものとなり、最終的には仮想的観察者の評価に関わるのもへと至る。

(現代における、「道徳」とは、まさに、<仮想的>に想定された、頭の中で考えられた、抽象的な「人間」についての命題として形成されていることが、「なぜ」なのか、という問いと、これらは関わり合っている。)
そして、もう一つの立場として紹介されている、「徳倫理学」に注目する主張は、その人を言ってみれば(アリストテレス倫理学のように)

  • 性格

といったような、まるで、その人の中に、一つの塊(かたまり)のように、「存在」しているかのように扱う「徳」といったような「実体」と考えることもできるだろう。
しかし、大事なポイントは、このように「道徳的実在論」を、たとえ考えたとしたとしても、そこで言っている「実在」は、およそ、私たちが考えているような、

  • 直接的な(まさに「因果関係」を、それ自体で決定するような)実体

ではない、というところがポイントなわけで、つまり、これを道徳的反実在論者の側から見て、「それって反実在論じゃん」と主張したとしても、受け取り方としては、それが自然だと考えられなくもないわけである。
というのは、たとえば、道徳的反実在論者にとっても、別に、彼らはこういった道徳が「有害」だと言っているわけではないわけである。たんに、科学的に「実体がない(説明できない)」と言っているだけで、それがたとえ

  • 空想の産物

だとしても、「それ」によって実現できている、なんらかの社会的な「価値」があるかもしれない、ということまで否定しているわけではない。例えば、ここで道徳的反実在論と「功利主義」を、ある意味で「同一視」したとして、彼ら功利主義者が何を言っているのか、を考えてみると:

チューリッヒ大学の認知神経科学者タニア・ジンガー(2007)は感情移入を支える脳の特定に着手した。前島と前帯状皮質という脳の二つの領域が際立っているように思われた。被験者が弱い電気ショックを受けると、痛みを管轄する脳の部分である体性感覚皮質に加えて、この二つの領域が活動的になった。一方、被験者の愛する人が電気ショックを受けたときには、体性感覚皮質は活動しなかったにもかかわらず、前島と前帯状皮質は変わらず活動した。独立した別の研究ではこれらの領域がそれぞれ、感情の抑制と葛藤の解決に決定的に重要であることが示された。精神神経科医のローレンス・タンクレディ(2005)は、前帯状皮質は脳の「調停者」だと述べる。というのは、前帯状皮質は問題解決と感情の自制を担うからである。この器官に対し、脳の奥深くにある前島が差し迫った危険を警告する。そこで、脳神経科学の視点では、感情移入は感情の抑制と意志決定をする脳のシステム同士の協調なのである。我々は、我々の環境中の合図(自分の伴侶が痛みで叫ぶなど)から感情的情報を入手する。そしてこれにより、行動の計画を形成する心の理性的な部分が起動するのだ。サイコパスは、これらの領域における活動が少ない。それゆえ、彼らの感情処理能力は欠損している。サイコパスは、気が散りやすく、感情の入力を不十分にしか受け取れない。サイコパスが環境から受け取る合図は、感情的合図として扱われず、そのため、サイコパスでない人とは異なり行動に影響が生じないのである。

功利主義者は、「だから」サイコパス

  • 悪くない

と主張する。なぜなら、これは「病気みたいなもの」で、本人にはどうしようもないのだから、むしろ社会は、こういう人を「罪」というルールで「罰則」を与えることが、

  • 不平等

だ、と言うわけである。何度も言うようだが、功利主義者が戦っているのは「カント」である。つまり、功利主義者にとって、古典的な「道徳」概念はそれはそれでいいわけである。そうではなく、カント主義者が主張する

  • 普遍

が嘘っぱちであるだけでなく、ある種の「不平等」であり「差別」を生み出している、と考える。
しかし、このことは逆に考えてみると、カントのこの主張は、言ってみれば、カント以前の「道徳」概念を、根本的に変えてしまっている、ということが分かるわけでもある。功利主義者の主張は一見、もっともであり、はるか未来を見すえるなら、こういった事実を考慮した「倫理」が一般化することが考えられなくもない。しかし、大事なことは、そのことと

  • カントが言ってること

は、まったく関係がない、ということだ。というのは、だとしても、別に「サイコパス」たちが放縦に振る舞っていいかどうかは別だからだ。彼らのその傾向性は、もしかしたら、なんらかのトレーニングや、薬物療法によって、

  • 改善

するのかもしれない。だとするなら、こういった努力は「やるべき」だろうか? いや「今のまま(=自然なまま)」を認めるべきだろうか?
カント主義とは、言わば、上記における、道徳的反実在論における道徳的構成主義をより

  • 徹底させたもの

と考えられる。つまり、カントはそれまでの「道徳」が胚胎していた

  • 理念

をより「徹底」させた、というところに特徴があるのであって、よって、これはやはり、「行くべきところまで行く必要があった」何かと考える方が自然なのだ。そして、そういった性質のものを、功利主義者のように、個別の事実性(反例)によって、放棄しようとすることはできない。つまり、こういった「理念」は結局は

  • 生き残る

のであって、大きな意味においては、一つの「原則論」として扱われ、功利主義者の言う「個別的な困難」は、なんらかの「例外的な事象」として整理されていく、といった性格のものなのではないか、と私は考えるのだが...。

進化倫理学入門

進化倫理学入門