ジェームズ・レイチェルズ『ダーウィンと道徳的個体主義』

ところで、前回紹介した、スコット・ジェイムズの『進化倫理学入門』の翻訳は、児玉聡さんという方で、たしか、ちくま新書で『功利主義入門』という本を書いていらして、そこで、

  • 道徳と倫理を「同一視」する

ことから、議論を始められていたことを思い出すわけであるが(今考えればそれは完全にピンカーの真似なわけだが)、ようするに、この先生は、自らを「功利主義者」であることを自認されていて、その延長で、ピンカーやこの、レイチェルズの功利主義と、基本的には「同じ」主義主張をもたれている、と自認されている、ということなのだと思う。
だとするなら、なぜそのジェイムズの本を、この人がどちらかというと、反功利主義的な(義務論的な)立場の人(それを、道徳的実在論と、この本では呼んでいたが)なのでありながら、なぜ翻訳したのだろう、と思ったわけであるが、それもそうなので、功利主義の批判の本ということは、少なくとも、なんらかの功利主義についての

  • 考察

が行われている本であることを意味しているわけであるから、読まないはずがないのだ。
そういった視点で考えたとき、本の末尾に添付されている「訳者解説」の、第9章についての解説において、少し気色ばんだような、訳者の「憤慨」が覗かれるような主張をされていることに、少しびっくりするわけである。

著者はサールもレイチェルズもヒュームの法則を乗り越えるところまでは行っていないと述べているが、レイチェルをスペンサー二・〇と述べて一種の社会ダーウィン主義として扱っている点については若干疑問が残る。確かにレイチェルズもある種の「べし」言明を暗に前提しているかもしれないが、彼はその「べし」言明によって進化論から倫理理論を導出しているというよりは、「人間の尊厳」の立場は間違えている、と主張していると言える。ピーター・シンガーも似たような仕方で、つまり進化論の知見を用いて、義務論的な倫理理論が依拠している倫理的直観を批判するという仕事をしている。こうした取り組みを、著者が行なっているように、スペンサーと同類として簡単に片づけてしまうことはできないように思われる。この文脈では、ノディングズのような、進化論がケア倫理学や広くフェミニズムに対してもつ影響を検討している論者もおり、進化論が規範倫理学に対してもつ含意の掘り下げは、まだ課題として残されているように思われる。
(児玉聡「訳者解説」)
(スコット・ジェイムズ『進化倫理学入門』)
進化倫理学入門

上記の引用は、正直、私には何を言っているのか分からなかった。「「人間の尊厳」の立場は間違えている」という主張は、一つの

  • 倫理理論

ではないのか? つまり、それは立派な「反倫理理論」なわけで、つまりは、それも一つの「倫理理論」の一種なわけであろう。つまり、この「「人間の尊厳」の立場は間違えている」という主張と、整合性がとれた形で、功利主義は成立している、と考えているわけで、ようするに、この主張自体が、功利主義の理念の一部なのだ。
ようするに、ここで何が起きているのだろう、と思うわけである。児玉先生は、ある種の「功利主義」の危機の臭いを感じとった、というふうには言えないだろうか。ジェイムズが、レイチェルズをスペンサーの「社会ダーウィニズム」と

  • 同一視

したとき、なぜ児玉先生がそこまで著しい反発を感じたのか、というのは、ようするに、スペンサーの「社会ダーウィニズム」が、非常に「社会問題」と言ってもいいくらいに、

  • 反正義の哲学

であることが公然の事実として知られているだけに、こういった「評判の悪い」理論と、自分の功利主義を一緒にされたくない、なんとかして功利主義の「科学」性を、こういったものから守りたい、という反応だったのではないか。
しかし、ジェイムズの言っているポイントはそこではない。そうじゃなくて、結局のところ、たとえレイチェルズの倫理理論が、スペンサーの「社会ダーウィニズム」の結論を否定するものであったとしても、その理論(義務命題)が、

  • 別の義務命題からではなく、あくまでも、科学的事実(反道徳的命題)だけから導き出せる

と「考えている」ような時点で、ヒュームの法則(「である」命題から「べき」命題(事実命題から義務命題)は導かれない)の規準から外れている、という意味では、この立場からは認められないという意味においては、「同じ」種類なわけである。
しかし、である。
ここでジェイムズの言っていることは、もっと「深刻」なんじゃないのか、とも思われるわけである。

以上すべてのことは、ヒュームの法則に対してどのような関係をもつだろうか。ヒュームの法則は(伝統的に理解されてきたところでは)演繹的推論にのみ当てはまる。彼に対してその点は認めよう。しかし、レイチェルズが述べたように、ヒュームは「この点が『あらゆる通俗的な道徳体系を転覆する』と考えていた点で確実に間違っていた......。伝統的な道徳は転覆させられない。なぜならそれは実際には、対応する道徳的観念を厳密な論理的演繹として考えることには全く依拠していなかったからである」(1990:97)。非道徳的(あるいは事実的)な主張は、ある道徳的主張を「受け入れるもっともな理由を提供する」のだ。
レイチェルズの場合、道徳的な主張は偶然にもスペンサーとはちょうど反対側に位置づけられることとなる。つまり、人間は特別な道徳的地位を与えられるべきではないということになる。言い換えれば、人間は、その種の一員であるというだけで、道徳的に特別扱いされるに値するわけではない。この主張を支持する議論は、レイチェルズによれば、完全に事実的な主張から構成されている。特に、この議論は二つの否定的な主張から成る。それは、第一に、我々は神を雛形にして作られたのではないという主張、第二に、我々は「唯一の理性的な動物」ではないという主張である。レイチェルズが進化倫理学者を自認しているのは、それらの主張を支持する論拠は、進化論からもたらされると彼は考えているからである。レイチェルズはスペンサーと逆の見方をしている。彼らの主張はともに、進化が導くところならどこへでも進化に付き随っている。しかし、スペンサーが進化を人間の卓越性へと導くものであると考えた一方で、レイチェルズは進化を人間の卓越性を掘り崩すものであると考えた。レイチェルズにとっては、それは「伝統的な道徳」は捨て去られなければならないことを意味する。人間は他の動物よりも大きな重要性をもっているものとして扱われるべきではない。
(スコット・ジェイムズ『進化倫理学入門』)
進化倫理学入門

道徳における態度は反転したとはいえ(そしてスペンサーは間違いなく墓の下で嘆いているとはいえ)、これは一種の社会ダーウィン主義である。これを社会ダーウィン主義2・〇と呼ぼう。これが社会ダーウィン主義と呼ばれるに値するのは、レイチェルズが、我々がどうあるか、つまり、進化が我々を形作った仕方によって支持あれると考えているからである。彼がヒュームについて長い議論を行なっていることは、ヒュームができないと言ったことをまさに行なおうと彼が意図していることを明らかにしている。
物事は、残念なことに、レイチェルズが考えていると思われる以上に複雑である。少なくとも、それが私の印象である。そのような道徳的主張へと至ることは、レイチェルズが受け入れているものの素直に述べることは避けている諸前提に依拠しているように思われる、と私は主張しようと思う。

人間の尊厳という教義は、人間は単なる動物に与えられるのとは全く異なった道徳的配慮の水準に値すると考えるのもである。これが正しいためには、人間と単なる動物との間に大きな、道徳的に重要な何らかの違いがなくてはならないだろう[この一文が強調されている]。したがって、人間の尊厳に対するいかなる適切な擁護も、人間を他の単なる動物とは根本的に異なったものとして理解することを必要とすることになるだろう。しかし、これこそがまさに進化論が疑問に付していることである。(1990:171-2 強調は引用者)

なぜ私はこの文章の一部を強調したのだろうか。レイチェルズは「大きな、道徳的に重要な何らかの違い」の必要性について何か謝りを犯したのだろうか。否。実際、我々の大半は彼が全く正しいと言うだろう。人々の間に何らかの道徳的に重要な違いがないならば、我々は彼らを異なった仕方で取り扱うべきではない。たとえば、単にジルが女であるからという理由で、子どものジャックが溺れているところを助け、しかし子どものジルを助けるのは拒むというのは不正だろう。性別は、ジャックとジルの間にある道徳的に重要な違いではない----少なくともこの場合においては。
では、私がなぜレイチェルズのこの一般的な道徳的主張の利用の仕方に注目したのだろうか。それは、彼が欲する結論、つまり、人間には特別な道徳的地位が与えられるべきではないという結論にたどり着くためには、それが必要だと彼が考えていたようだからである。言い換えれば、レイチェルズはこの主張を彼の推論の前提の一つとして利用していたようだからである。
(スコット・ジェイムズ『進化倫理学入門』)
進化倫理学入門

もしこの分析が上手くいっているならば、レイチェルズがやり遂げたと思っていることは成し遂げられていない。彼は純粋に道徳的でない前提から道徳的な主張を導出したのではない。彼は、いくつかの事実に関する主張と、ならびに、少なくとも一つの道徳的な主張、つまり、異なった道徳的取り扱いを正当化する事柄についての主張から、道徳的な主張を導出している。演繹的な推論の必要性にはっきりと抵抗しているにもかかわらず、レイチェルズは演繹的な推論に頼らざるをえなかったのである。
(スコット・ジェイムズ『進化倫理学入門』)
進化倫理学入門

(上記引用内の、1990年の著作からの引用個所が、掲題のタイトルの本のことを差す。)
ようするに、私が言いたいこともここで、

  • 功利主義は、帰結主義と呼ばれ、一見、「科学的な知見」から、(功利主義の)の道徳的主張を導き出したかのような体裁を装っているが、実際は、上記の引用と同じように、「レイチェルズが受け入れているものの素直に述べることは避けている諸前提」という形で、義務命題が「隠されている」のではないのか?
  • そういう意味では、すべての功利主義の立場は、実は「隠れ義務論的倫理学」なのではないか?

私は、上記の児玉先生は、この事態の深刻さを、まったく理解していないのではないか、と考える。児玉先生が

  • 確かにレイチェルズもある種の「べし」言明を暗に前提しているかもしれない

と、さりげなく義務命題の「混入」を、まるで、大したことではないかのように、軽く受け流しているが、これは、そもそも、功利主義の「根幹」を破壊していないだろうか?
ようするに、世の中に知られている、功利主義は本当に「功利主義」なのだろうか? というか、功利主義とは、そもそも、「成立可能」な主張なのだろうか? 私たちが「功利主義」だと思っていた、ピーター・シンガーを始めとした、功利主義者の主張が、もしも

とまったく「同型」だったとするなら、彼らによって行われていた、カント哲学への激しい攻撃は、一体なんだったのか、ということにならないだろうか?
よく考えてみよう。
レイチェルズが言うように、カントの「人間の尊厳」概念は、そんなに「おかしい」だろうか? カントが言っているのは、人間以外の動物は、少なくとも今は、人間と「同じ」ように、応答可能性を担保していない、ということなのであろう。つまり、私たちは、事実こうやって、文章を書いて、それを読んで、それを「推敲」する作業を行っているわけで、それと「対応」した形で相手が、それを読んで、それを「推敲」するといったような、事実行為が相手に認められないことをもって、カントが人間以外の動物に対して言っているのは、

  • 彼ら動物たちは人間の「保護下」に置くしかない

ということなわけであろう。そして、こういった対応はまったくもって、合理的と言うしかない。
また、功利主義における、「快楽」「幸福」(この反対から、「苦痛の除去」「不幸の減少」と扱ってもよいわけであるが)について考えるときに、そもそもそれらの概念を

  • 人間以外に適用する

ということは、実際には、何をやっていることを意味するのか? 言うまでもなく、この場合の人間以外の動物は人間の言葉を話さない。そういった相手が、そういった人間の概念と「同じ」何かを感じたり、共感したりすると言うことは、一体、なにを言ったことになるのか?
言うまでもなく、こういった動物行動学における「記述」は全て

  • 比喩

であることを、根本的に、功利主義者は忘れてしまっているのではないか? 彼ら動物は、こういった「人間の言葉」を話さないわけである。だとするなら、こういった「言葉」に付随して、私たち人間が自然に「再帰的」に反復している、その言葉の周辺にまとわりつく、さまざまな観念も、決して、そういった動物たちに「敷衍」することは許されない。ようするに、彼らが「見せる」かもしれない、比喩的な意味における、似たようなシチュエーションにおける、さまざまな「感情的な」反応が、どんなに外見的に人間における「それ」に似ているとしても、少なくとも、人間における「言語的な再帰的内省」を介していないという意味で、その本質は

  • まったく人間の「それ」とは違っている

ということは言わざるをえないわけである。
なぜ功利主義は説得力のある理論とは言えないのかといえば、彼らが「快楽」「幸福」といったようなものを「規準」としてしまったことで、どうしても、動物を「それ」が

  • 表面的に、人間の反応とどこまで「似ている」か

で、言わば動物のランク付けをやらざるをえないところに追い込まれていることからも分かる。より人間の反応に近い動物はより「功利主義」的な意味において、「動物の権利」を人間並みに与えなければならない、と。しかし、なぜそういった選別規準が正当化されるのかは疑問なわけで、ようするに、露骨に

  • 人間中心主義

なわけであろうw 神学において、「神の似姿」において、人間が類別されたように、動物は、「人間の似姿」において類別される「べきである」と主張するなら、ようするにそれって、神が人間に変わっただけで、なにも神学と変わらない。
だから、重要なポイントは、私たちは彼ら動物たちから

といった形で、彼らが私たちに「要求」をしてくる相手じゃない、という意味で、「保護する対象」と扱わざるをえないというところにあるのであって、「人間の尊厳」が強調されるのは、人間という種がひとまずは、そういった存在として[常にこの応答に答える義務がある、という範囲において]尊重しなければならない、という方にこそ、議論の強調点があるわけであろう。
例えば、ボノボは、板に複数個設定された「単語音声発生機械」を使って、人間と「会話」するわけだが、もしかしたら、こういった「延長」に、そのボノボは一定の人間と「同じ」言語能力を習得していく可能性を考えさせるわけである。また、どこかの宇宙から知的生命体が地球にやって来るかもしれないが、そうした場合には当然、その

  • 応答可能性

に対応した形での、それぞれに対する「尊重(=尊厳性)」の義務を考えざるをえなくなるわけで、別にカントはそういった側面を否定しているわけではないわけであろう。
また、こういった功利主義のような、「快楽」「幸福」を規準にしてしまうと、ターミナル・ケアの患者への福祉や、死んだ人間の死体の扱いなどにおいて、そもそも

  • 若くて健康な動物「以下」の価値しかない<人間>

という扱いを、どうしても功利主義は避けることができない。こういった、直観的にも、私たち人間が、どう考えても「異常」としか思えない扱いを、功利主義者が選択しなければならない。ところが、対する「道徳的実在論」は易々とこの「パラドックス」を乗り越えて説明に成功する(彼らにとって説明すべきことは、過去の人間の原初的な道徳と現在のそれとの「ミッシング・リング」を繋ぐことなのですから)...。

ダーウィンと道徳的個体主義―人間はそんなにえらいのか

ダーウィンと道徳的個体主義―人間はそんなにえらいのか