「死にたければ一人で死ね」は非難すべきか?

今回の川崎登戸殺人事件も、少しずつ、事情がわかってきたようだ。

日テレ、スッキリで、犯人の動機についてかなり核心的なところに迫っているスッキリ「犯人は実の子ではなく、家族には二人実の子がいて、犯人1人だけ厳しく躾けられて差別されていた。実の子(犯人にとっての義理の姉)が通っていたいたのがカリタス。そこに家族間の動機が何かあったのではないか」
@kemohure 2019/05/28 16:21

(なんらかの「恨み」が関係していると考えることは、多くの場合、まずは想定されることではあるのだろう。)
ネットでは「死にたければ一人で死ね」という言説が流布したということだ。
しかし、それではあんまりだ、ということで、逆に、それに対するバックラッシュもあった、とのことだ。
日本の近年の残虐な事件は、こういった、子どもが多く襲われるのが特徴だと思うが、子どもが「弱者」であること考えれば、「だから」悲惨な大量殺傷となるわけで、こういった説明はもしかしたら、原因と結果を間違えているのかもしれない。
むしろ、なぜこういった事件が、近年、ここまで少ないのか、と考えたとき、多くの「潜在的」な自制をしている人たちの姿が現れてくるのだろう。
そして、もう一つの特徴が、事件を起こした人が、

  • 自殺

をする、というところにある、と思われる(たとえ、自殺をしないとしても、「死刑にしてくれ」と言ったりする)。
そのように考えたとき、私には、リベラルにも多くいる

  • 自殺肯定論者

に対して、なんらかのメッセージとなっているように思えてならない(そもそも「自殺」を肯定する限り、こういった「惨劇」は、ある程度、必然なんじゃないのか)。
彼らは、そもそも、こういった事件を起こして、「逃げられる」と思っていない。つまり、こういう事件を起こしたことそのものが、なんらかの「自殺」的な意味を含意しているとも考えられるのだ。
今回の事件からは、私たちは、どうしても、漫画『20世紀少年』を思い出さずにいられない。
子どもの頃、学校のクラスで、「みんな」でシカトをし、無視をして、さんざん「みんな」で馬鹿にしていた。そういった人間を、疎外させられることができるから、「もりあがる」わけで、彼らには、そういったスケープゴートが「必要」だ、というわけだろうw
毎日、家族と共に幸せな日々を送っている人たちが、フェイスブックなどで、

  • 幸せ自慢

をしているのを見ると、まるで、そういった世の中の困っている人を

  • 挑発

しているんじゃないのか、と思えてくることがある。
こういった「幸せ家族」たちが、望んでいる、ゲーテッド・コミュニティは、ようするに

  • お金持ちだけが入れる空間

を作れ、ということだったわけだが、問題はそんなところにあるのだろうか? というのは、だれだって「幸せ」から「不幸」に変わるわけで、そうだとしたら、一体、だれにそのゲーテッド・コミュニティに入る「権利」があるのかは、はなはだ疑問なのだ。
例えば、SF小説で、『新世界より』というのがある。この場合、超能力が「暴走」することで、村であり、人類を「滅ぼす」というのがテーマであった。
こういった視点に立つと、私たちはなにかを根本的に間違っているんじゃないのか、と思えてくる。
「幸せ家族」が言いたいことは、まだ幼い子どもを残して、父親、母親は

  • 死ぬわけにはいかない

ということなのだ。
新世界より』を考えれば、統計的に一定の「暴走」は防ぎようがない。だとするなら、むしろ、そういった暴走者に

  • 立ち向かう

命知らずの「勇者」が必要とされているわけであろう。ようするに、彼ら、父親、母親は、子ども一人この世に残してはお金もなくなり、自分の残された子どもが(彼らが、さんざん馬鹿にしていた、「孤独」側の人間のように)不幸になって、「かわいそう」だからを理由にして、自分は死ぬわけにはいかない、と言っているのだ。だから、だれかが代わりに、こういった暴走者の「楯」になってくれ、と言っているわけであろう。
ようするに、そういった「幸せ家族」の人たちも、

  • ぼくたちのために、そういった「独身」で「孤独」な大人が命を賭けて戦うべきだ

と言っているのと、変わらないわけであろう。
しかし、である、
彼らの普段の行動を考えてみよう。彼ら「幸せ家族」は、いつも、近所の「独身」の、「孤独」に生きている人たちを

  • 気持ち悪がって

近寄ろうとしない。彼ら「幸せ家族」は、そういった人たちを

  • 邪魔だから、早く死ねばいいのに

と、毎日、幸せな食卓を囲んで嗤い合っているのであるw
そんな奴らのために、なぜその「独身」の人が命を賭けて、守ってくれるだろうか?
例えば、BUMP OF CHICKEN に「K」という曲がある。人間の親友をもつ、ある猫は、その親友の死を前にして、自らの命を賭けて、その親友の彼女のところにその親友の手紙を届ける。最後は、その手紙を届けたところで、息絶えるわけだが、なぜ、その「猫」が自らの命を賭けてでも戦ったのかは、彼にはそうしよう、という

  • 理由

があったわけであろう。
また、天皇制を考えてみてもいい。楠木正成太平記で、天皇のために、命を賭けて戦ってくれる。戦前の日本の軍隊も、地方の農家の次男以下の子どもを、強制的に赤紙で死なせたわけだが、理屈は同じわけである...。