東浩紀先生は、昔から、自分がどういう
- 政治的な立場
かを、かなり明確に、ある意味で、何度も繰り返し発言してきている。そして、それを見れば、彼がどういった「政治思想」の持ち主なのかは、はっきり分かると思うのであるが、ゲンロン友の会という、東浩紀ファンクラブの方々は、そういった思想に賛成なんですかね?
ちなみに誤解してほしくないのですが、ぼく個人は、格差は能力に応じて(そして残念なことに運に応じて)あってしかるべきであり、貧困に対してはセーフティネットを張ればいいという立場のひとなので、さきほどのツイートは大手企業の正社員の方を批判するものではありません。
@hazuma 2016/07/04 13:38:19
ここではまず、
- 格差社会肯定論者
であることを自認していますね、そして、悪評の高い
- セーフティネット主義者
であることを自認していますね。
ぼくは最小福祉国家主義者で、国家は国民の最低限の安全保障と市民生活を維持するのが仕事で(そして実際それで精一杯なはずで)、クリエイティブな才能を伸ばすとかイノベーションを支援するとかには手を出さず、そっちは規制緩和でいいと考えている。だから官僚に夢を与える話はできないのよね。
@hazuma 2017/09/11 12:49
そして日本の最大の問題は少子高齢化なのだけど、これこそ考えてもどうしようもないことで、いま必要なのは高齢者への年金給付だか社会保障だかを大幅に引き下げることなんだろうけど、これは政治的に絶対的に不可能なので、議論しても意味がない。この点でも夢を与えることができない。
@hazuma 2017/09/11 12:51
ここでは、はっきりと
- 最小福祉国家主義者
だと言っていますね。つまり、「リバタリアン」だと。しかも、さらに、はっきりと、
- 高齢者への年金給付だか社会保障だかを大幅に引き下げる
ことが
- 自分の考える「理想社会」
だと、言っていますね。
ぼくを知識人と思うか思わないかは、質問者の方の自由です。庶民の味方という言葉はぼくは嫌いです。意味不明なので。
知識人で合ってますか?な人が左翼を批判する時代が来るとはねぇ......知識人て庶民の味方とばかり思ってたけどそんな感じでもないのかな......
@nikoko_makoko 2016/07/04 15:40@hazuma 2016/07/04 15:41:55
そうですか。ぼくは「知識人が庶民の味方」という見方に驚きました。
そうなんですか、結構驚きました。
@nikoko_makoko 2016/07/04 15:42@hazuma 2016/07/04 15:42:52
ここでは、自分は
- 「庶民の味方」じゃない
と、かなり主張されていますね。それを「嫌い」という言葉で濁しているけど、言っていることは、明確に、自分は
- 「庶民の味方」として振る舞っていないし、振る舞いたいとも思わない
ということなわけでしょう。ここは、すごく重要なポイントですよね。ようするに、そもそも、東先生は、「(ある種の)善を目指す<運動家>」ではない、ということを、明確にしているわけです。そして、そういった
- 活動
に、そもそも最初から、興味がない人なのです。
彼自身の、東大を出て、大学教授にもなって、「エリート」としてのキャリアから、彼自身の今の「ブルジョア」的な一定の裕福な生活があって(そういう意味では、彼の懇意にしている、社会学者の宮台真司先生とも共通しているわけですが)、それを「前提」にした上での
- ブルジョア道徳
の延長でしか考えていないわけですよね。
しかし、哲学の歴史を振り返れば、そういった「ブルジョア道徳」に対して、決定的なアンチテーゼを行ったのが、マルクスであった。つまり、彼以降、こういった「ブルジョア道徳」は、決定的に敗北し、滅びたわけです。マルクスが行ったのは、私たちのこの社会が
- 資本の論理(つまり、資本の構造)
によって、徹底的に規定されている、ということを明確にしたわけでしょう。つまり、フロイトの言う「無意識」がそれなわけで、私たちは、資本主義的な「力学」に抗えない。自分が貧乏になることに「耐えられない」がゆえに、意識しようがしまいが、御用学者的な振る舞いをする、ということを主張した。
ところが、これに対して、ボードリヤールを代表とする「ポストモダニスト」が、マルクス主義を否定したのは、
- ソ連の収容所国家
への明確な敵対意識の延長においてであった。つまり、マルクスの主張には、この「ソ連の収容所国家」に必然的に到達する、欠陥があった、と主張することによって、
- マルクス主義は「間違っている」
という結論に至ることによって、そもそも、マルクスが主張していた、さまざまな人間的な「価値」を、ポストモダニストたちは、捨てて、反左翼であり、アンチ・ヒューマニズムであること(ある意味においては、「サイコパス」であることでさえ)、肯定しうるような、そういった
- ブルジョア道徳
に、言わば、「反動主義」的に戻っていく運動だったと考えられるわけですね。そして、東先生が、大塚英志との、対談で、はっきろ、自らを「ポストモダニスト」と言っていたことの意味は、こういった一連のボードリヤールから始まる、ポストモダンの思想的な、含意を強く意識してのものだったことも分かるわけでしょう。
しかし、である。
少し考えてみると、そもそも、ボードリヤールが「左翼」じゃないのか、といった問いは、十分に意味がある。つまり、彼は、言わば左翼思想を「超克」する形として、ポストモダンを言っているわけで、そういう意味では、
- 左翼の延長
だと言っているというふうに受け取るなら、そのベースには、左翼的正義が「前提」になっている、とも考えられるわけであろう。
つまり、ボードリヤール自身においては、しょせんは自分の言っていることは、「左翼のマイナーチェンジ」なんだ、といった自負のようなものはあったのかもしれない(まあ、たとえそれが、他人から見れば「ブルジョア道徳」に、先祖帰りしたものとしてしか理解されなかったとしてもw)。
そりゃそうです。体制にあるていど順応しないと、新しいヴィジョンを現実にすることもできない。反体制を叫びながら大学や会社から給与をもらっているひとたちの感性は、ぼくにはわかりません。
この人基本的に体制順応志向だよね。
突然思ったんだけど、ネット時代のいま、国民の多くが難癖つけるネットのクレーマーに親しんでる。そういういま野党の戦略の一部は、クレーマーに近いように見えて逆効果なのかもね。
@hazuma 2018/04/16 3:33@213213niisan 2018/04/16 17:11
@hazuma 2018/04/17 09:49:14
というか、ぼくは東大行ってる時点で体制順応。
@hazuma 2018/04/17 09:50:17
笑えば。
笑える!この論理!御用ヒヨーロン家として食ってる事が透けて見えるw
@213213niisan 2018/04/16 17:59@hazuma 2018/04/17 10:02:33
ここでは、東先生自身は
- 体制順応(つまり、御用学者)
だと、はっきりと自認されてますよね。しかも、東大に行ったということ、つまり、東大を「選んで」行ったことを、自ら、その理由に「体制順応(つまり、御用学者)」だから、といった自らの
- 動機
を明確にされているのは、非常に大きいと思いますね。私は当たり前ですけど、東大に行った人でも、体制順応(つまり、御用学者)でない人は、いくらでも、いらっしゃると思っていますけれど、少なくとも、東先生はそうでないことを、
- 自分で
お認めになっている、ということは、重要なんじゃないでしょうかね。
さて。
そういえば、東先生は、2年前の、国の選挙で
- 棄権運動
を行ったわけであるが、彼はそこでキャンペーンと称して、署名をネットで集めたわけだが、それを国会にもって行くと、ツイッター上で「約束」していたわけであるが(その時は、元民主党の細野の名前を挙げてはいたが)、結局、東先生はこの「公約」を実現したんでしょうか?
もしもやっていないとしたら、とんでもない「詐欺師」なんじゃないでしょうかw
というか、以前にブログにも書きましたが、
東先生は、このとき、自分は「棄権を訴えていない」とツイッターで言ったわけですよね。ところが、彼自身が
- 削除
した少し前のツイートで、堂々と「棄権を訴えよう」と書いているんですよねw そのツイートを削除して、キャンペーンの、明らかに「棄権を訴え」ている内容としか読めないタイトルを変えて、その後に「棄権を進め」てませんよ、と言っているわけでしょうw
ここで、最後になりますが、東先生が以下のようなことを、最近、言っているわけです。
分断を生み出しているのは左派じゃなくて右派のほうだという理屈ではいっこうに左派の勢力が回復しない、その現実をどう実践的に変えていくかが問題なので、「左派も右派もどっちもどっち論はまちがっている、左派は断固正しいこというべし」と正論を述べてもいまやしかたないんだよね。(エアリプ)
@hazuma 2019/05/29 06:10
そりゃおれだって、左派のほうが正しいと思ってるけどさ・・・って話。これが理解されないんだけどね・・
@hazuma 2019/05/29 06:11
あれだけ、いろいろなところで、「日本共産党」嫌い、「新左翼」嫌い、
- 反共
を吐露されておられた、東先生でありますが、東先生は「左翼」なんですかね? 本気で、そう思っているんでしょうか? そしてそれは、一体、だれなら分かるんだろう? 別に
- 正義の味方
を目指して、言論活動をしているわけでもない。じゃあ、一体、彼は何が言いたいんでしょうかね? 生きるということが、なんらかの「社会正義」を目指す、倫理的なものであることを(つまり、必然的にそれは、「正義の味方」を目指して行くような、社会貢献的な活動でしかありえないということを)、おそらくは、彼は認めることは死んでもないんでしょう。だったら、彼はなんのために生きてるんでしょうかね。なんで(『観光客の哲学』で主張していたように)、人間は生き残っていかなければならないと言っているんでしょうかね。そもそも、私には分かりません。
(こういった事情については、前にも書いた記憶があるが、柄谷行人が、一度も、宮台真司先生と対談をやっていないことや、ある時期から、東先生も柄谷さんと対談をやっていないところに、なぜ柄谷が彼らと
- 一定の距離
を置いているのか、を考えさせられますよね...。)