アニメ「fate/apocrypha」の意味

以前、ここで書いたことがあるのだが、アニメ「ティアーズ・トゥ・ティアラ」の、第17話「友のために」についてであった。
なぜ私がこの回に感心したのかというと、籠城戦が描かれていたからだ。
アヴァロン城に立て込もって、籠城戦を行うゲール族は、圧倒的戦力のガイウス率いる神聖帝国の軍隊を前にして、次々と城門を突破されるわけだが、何が重要かというと、例えば、戦士以外の、この物語に登場した数々の、女子どもたちも、水くみを手伝うなど、この戦いに、貢献しようとしている。
どう考えても、戦力において、神聖帝国側とは比べものにならない。帝国と、地域の一つの部族に過ぎないわけで、押し潰されるのは時間の問題のように思われる。しかし、ゲール族のだれもが、一瞬たりとも、あきらめない。最後まで、戦い続けるその姿は、そもそも、こういった

  • 集団戦

を、果して、アニメは描いてきただろうか、といったような、どこかカルチャー・ショックのような印象を受けたのを覚えている。
そう考えると、なぜアニメ、というか、日本のアニメにおいて、こういったものが、あまり描かれてこなかったのだろう、といった、素朴な印象をもったのと同時に、なんとも言えない感動を覚えたわけである。
さて。
少し前に、映画館で、「fate/stay night」の最新作を見に行ったら、やたらと超満員で、一体何が起きているのか、と思ったわけだが、ようするに、スマホゲーの「FGO」の関係ということは、それはそうなのだろうが(特に、中国や韓国の若者が多くいた印象を受けた)、もう少し、この問題について、別の角度から考えてみたい。
アニメ「fate/apocrypha」については、私は原作の小説は読んでいないのだが、アニメは見た。とはいえ、作品の内容そのものについては、別にここで言いたいことはない。ただ、この作品にでてくる

については、少し考えさせられるものがある。
黒の陣営のユグドミレニア一族によって作られたホムンクルスたちは、もともと戦争における、兵隊として使われることを目的としたものであり、彼らは、たとえ生きられたとしても、せいぜい3年とされていた。
彼らホムンクルスたちは、皆、従順にユグドミレニア一族の奴隷として、従順に従っていたわけであるが、その中の一人である主人公のジークが、ある日、自我に目覚め、ここから脱走する。彼は

  • 自由

を求めて、この奴隷の束縛から逃走したわけであるが、聖杯戦争の混乱の中、ジークは再びここに戻って来て、今度は、他のホムンクルスたちに、自分と同じように、ここら逃走すること、逃げて、この奴隷の束縛から自由になることを呼び掛ける。彼ら、他のホムンクルスたちは、ジークの呼び掛けに応じて、彼と共に、ここを脱走するわけである。
彼らは、たとえ生きられても、たかだか3年であり、皆そういう意味で今の状況を忍従していた。つまり、そういう奴隷状態を「運命」とあきらめていた。しかし、ジークの言う、「自由」を求めて、

  • 権利を求めていく運動

を行うことを決意して、ホムンクルスたち皆による大脱走劇が始まる。
どうだろう? どこか、アニメ「ティアーズ・トゥ・ティアラ」の第17話に似ていないか?
両方に共通するのは、専制国家に弾圧されて生きている大衆が、「自由」を求めて立ち上がる、というところにある。つまりこれは、

  • 大衆運動

なのだ! 名もなきモブたちが、一つの理想を求めて、立ち上がるわけであり、私にはとても示唆的に写った。
これは何を暗示しているだろう?
言うまでもない。中国共産党の独裁体制に、反旗を翻した、天安門事件のときの反体制運動に大いに重なるわけである。
ようするに、このホムンクルスたちは、どこか、こういった「大衆運動」を暗示しているように思われる。表だって、中国共産党に対決姿勢を示すことのできない、中国の多くの若者が、こういったアニメの中の「なにか」を、自分たちにとっての大切な理念を

  • 暗示

するものとして、解釈したからこそ、現在の「fate」関連のコンテンツの熱狂的な消費が生まれているのかもしれない...。